②「現象学的データの価値」を重視する
Emphasis on "value of phenomenological data"
Betonung auf "Wert phänomenologischer Daten"
强调“现象学数据的价值





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 ~ 存在論は 現象学としてのみ可能である。



量化データばかりでなく、現象学的データの価値を重視する

代理物でなく、本物の芸術作品を使う」(視12)、

「Osborne(1970)は、規則性、単純、形の正確さを好む偏向はないと反論、

機械的な関係は知性を喜ばせるかもしれないが、退屈で、知覚には益するところがないと述べた」(視12)

 自己疎外(精神異常)の除去を目的としなければならないと言う事が真実であるには 心理学至上主義から脱却しなければならない。

『精神病と心理学』精神病は それが健康と言うものの、人間らしい矛盾である限りにおいて、健康の持つ、真理的真実なのである。




 世界は、事実の総体であって、事物の総体ではない。

世界は 事柄であるところの全てである(ウ)

問題は 常に出きるだけ広くて深い、そして、正しく特異的な説明を見出すことによって 実在の織物の何らかの側面を理解する事にある。(世界)

個人的思考との関連なしに、実行される。

それは 語る人、自分の言う事の中で、自己を表明し、

あるいは 隠す人、言葉を用いて 自己の至高の自由を行使する人、一たび解読されたこれらのしるしは 時間を貫く一種の記憶によって、

<先験性>それは 変環可能な一つの総体なのである。

私が<集蔵体>と呼ぶように提案するのは 言表のこれら全てのシステムである

第一に言われる事の法則、明確な形象の内に集まり合い多様な関係に従って、相互に組みたてられ、

特殊な規則性に応じて、互いに維持し合い、ぼかし合う。今や、歩みを 逆転することができる。(M)


表現とは、決して、全体的なものではない。

  第1に、同じ事柄に、一致した言語表現が存在しない事を教えている。

  第2に、ある表現が、図として浮かび上がる際の地との関係(メ)
 
対象は、確固たるもの、存続するもの。対象の配列は、変更されるもの、不安定なものである。対象の配列が事態を形成する」(ウ)、

「プラトンの洞窟によると、実在レベルや、色や時間によって第四次元を表現しようとするのは、見当違いである。三次元は、立方体を基礎にしている。

それに色を当てることである」(四)

 
私は1つの完結した全体のうちに含まれた全体分解的無規定な1つの全体である。(サ)

思考によって、分離された物を、いっしょくたにし、概念における 区別を、無理に押し隠して、実在についての感情を仕立て上げる事なのである。

真なるものは、全体である。分割されたもの、非現実的なものこそ、本質的な契機を成しているのである。

具体的なものは、それが自分を分割し、非現実的なものとなす事が によってのみ、自ら運動するものとなる。(へ)

 
物理的に特殊なのは 生きている物質ではなく、知識を担っている物質なのである。

それは、1つの宇宙に内部では不規則に見えるが、宇宙全体を通してみれば、多宇宙における結晶のように規則的な構造をもっている。(世界)



存在するもの事物を捉える作用において、まず、私自身の存在を体験するのでなければ、如何なる ものも捉えることが、出来ないであろう。(知メ)

ハイデッカーによると、「存在は」「最も普遍的な」概念である

存在者が、存在してい る事実と存在している状態において、その存在者を認識しつつ探求する事である。

根本的探求とは、その問いが向けられている当のものから、邪魔物を取り払いつつ、その当のものを、規定する事にほかならない。 

問い確かめられるものが、潜んでいる。このものに達した時、問う事は その目的を果たすわけである。

実存する存在者の存在機構と解する。

我々が、現存在と名つける存在者の存在の意味として、時間性が提示される。

存在了解内容の地平としての時間を、存在を了解しつつ、或る現存在の存在としての時間性から、

根源的に 説明する必要がある。

存在の意味に対する問いが仕上げられる。

 時間の現象が 正しく見取られ、正しく説明される事の内に、全ての存在論の中心的な問題が根付いている、

と言う事実と、その仕方とが、示されうるのである。



 存在論は 現象学としてのみ、可能である

現象の現象学的概念は 己を示すものとして、存在者の存在、この存在の意味、この存在の諸変様や、諸派生態を指している。

存在者で、明らかにされる諸性格は、これこれしかじかの「外見をもっている」事物的に存在している存在者の事物的に存在している「固有性」ではなく、

その都度、この存在者にとって 可能的な存在する仕方であり、又、これのみである。

 世界内存在が、現存在の本質機構として、了解された時に 始めて、現存在の実存論的空間性を、見抜く洞察力が、可能になるのである。

 利用不可能だと、そのように暴露される時に、道具は目立ってくる。

現存在の日常性が、当盛りを配視的に奪収すればこそ、「真の世界」の自体存在が、つまり、現存在が実存しつつあるものとして、その都度すでに、

そのもとで、存在している存在者の自体存在が、暴露されるのである。遠ざかりの奪収という在り方が、暴露されるのである.

 ハイデッカーの昴揚とは、「自己超出の能力」存在者そのものが、いっそう存在的に、いっそう豊かに、いっそう見透しやすく、、

いっそう本質的に経験されることになるような、そうした存在者への関わり方のことである。(岩形)

 
サルトルの存在と無の中で、

  即自存在…「それが、或るところのものであり、それが、あらぬところのもので、あらぬような存在」…と規定

  対自存在…「それが、あるところのものであらず、それがあらぬところのもので あるような存在」


  対自が、その本質及びその存在から、脱れでるのは 自由によってである




「人間は  自由である」。

 存在は 「開示する為の存在」であって、開示された存在ではない、存在現象は 超現象的な1つの根拠を要求する。存在者の存在へ向ってではなく、

この存在の意味へ 向ってである。

   無は 論理的に言って、存在よりも より後に来る。

  無が、その存在を得てくるのは 存在からである。非存在は、存在の表面にしか存在しない。存在の否定であるが故に、存在が そこに存する。

ilya、世界性、空間性、量、道具性、時間性などは 私が存在の否定であるがゆえにのみ、存在にやって
くる。

あるところのものであるような存在は それが、「あるところのものであるも の」として、考えられる限り、

自己を完全ならしめる為に、なにものかを 自己に呼 び寄せるような事をしない。

 存在は、それが その具体的な裸形において考察される時、突然、全体の存在になる.

  人間の存在たる人格的中心は、自由な統一である。存在するとは、世界のうちにおい  
  

 て自己を、統一する事であり、具体的なものよりも、抽象的なものが、存在的に優先すると言う事を前提にしている。その結果が、最も豊かである。(サ)
 
存在が 自ら言葉と成ると言う事、語り手が、誰であるかが問題ではなく、何が語られ、

何が存在として生起するかが、問題である。

 名詞と言うのは 対象についての呼び名であり、空間内に閉ざされて(独立した)存在している対象についての呼び名です。

対象を名詞によって表す時は、自分をその対象から切り離します。動詞~私の自我と他人の身体が 結びつく共同作業を意味する.

人生にとって、必要なのは 意味を追求するだけでなく、眠りの中で、意志がたいけんする事柄をも追求すること、

リズム、拍子、メロデイ、色の調和、繰り返し、あるいは そもそも、意味のない活動などを 体験できる様にすることなのです。(ル)






 非存在は、存在の表面にしか存在しない

近代のエピステーメーは 束の間の存在に過ぎないのに、その事を忘れて、バランスを 取り戻し過ぎたのである。

絶対的不連続性が、エピステ―メー間の最高の法則である。
(フ全)

統一を形成する多様性の現れ方は 表面的に見えるものから始まって、又 より深く

横たわる多様性の統一であり、この多様性は様々の現れを通じて統一を構成している。そこで、我々は、暗い地平へと 遡るように、導かれる。(フ)

「論理学を上級認識と呼び、美学を下級認識と呼ぶ」(色形)

「上位の階級は、複雑な絵画が好きである」(視121)、

「複雑な絵、高度の不確実性を持つ作品への好みが増す」 (視123)
 
「素材と対象との類似性が弱ければ弱いほど、その対象は、普遍性を増す」(意)、

「哲学的概念があいまいで、抽象的であればあるほど、普遍性を増す。素材が弱く貧しいほど、知の重要性が強まる」

素材の直観的基盤が、貧しければ貧しいほど、言いかえれば、素材の持つ、目指す対象の再現能力が弱く、

従って、素材と対象との類似性が、弱ければ弱いほど、その対象は普遍性を増す。

与えられた素材が、貧しければ貧しいだけ、解釈者各個人が、その素材の上に読み取るものは、

彼らが、そこに置いた以外のものではなくなる。各人の知が、重要性を増し、多様な解釈を許すようになる。(意)


「ヘーゲル・真に具体的なものは、自己の本質を含む存在者であり、

すべての抽象的契機の綜合的積分によって生み出される全体性である」

 「無は、論理的にいって存在よりもよりあとにくる無がその存在を得てくるのは存在からである。

非存在は、存在の表面にしか存在しない」(サ)

それは、存在を破壊によって無にするということではないだろうか。

 「ニーチェは、芸術家の基本的態度を規定し、形式となるすべを知らぬ事物には、いかなる価値をも認めない」(岩形)
 
「想像的なものは、現実的なものよりもずっと近くにあり、また、ずっと遠くにある。ずっと近くにあるというのは、想像的なものが、

実は(現実的なもの)の私の身体内部での生活表であり、初めて視線にさらされたその果肉、その肉体を備えた裏面に他ならないからである」(岩形)、


「絵画を含む(想像的なもの)は、知覚の派生態とは、もはや考えられず、「想像的なもの」を含む「見える」こと一般の一様態として、知覚を考えなくてはならない」(メ)




「生きる」事を、「見る」事にまで、抽象する事である。

 "見えて"いるリンゴは、我々の"見よう"とするもの、つまり、身体が"生きていることを裏へ隠してしまうからである、自分が生きている、

"生きて"いることを、眼でも確かめたいから……、

表の"見えている"状態を記号化して、裏の"生きている"状態を意味させる事に在るのだからである。(芸方)


 振動を与える行為こそが根源的なのである、

旋回―エクスタシーを感じ、共振するところがあり、きわどく死に接したところで、強く生を感じさせる仕組みが、そこに、成り立っていると言っても言い。

境界とコントラストによって、裏側から生を映し出す働きをしているのである。(か) 

感情の起状~怒る、なごむ、笑う、泣く、人間ほど、感情の起状に富んだ動物はいない。欲望の限りなさと連動して、

情動の増幅、起状の豊かさにおいてこそ、人間は「生きる」

ことを実感するのである。不自由な関係に陥れば―自由を求める情動が高揚する。

自由な 状態があまり長く続けば 情動の波もあまり、起状を示さない。

―総体的な人間認識 を前提とするー(社)


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