D,死せるものをしっかりとらえることは 「最大の力」を必要とする






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多くの物理現象が、死するという平等の原理によって支配されているのです


これに対して 生来ている者は 生まれてすぐに死する者もあれば、

100年以上も生きるという生の不平等の原理に従っている。

死をもたらすものを、生をもたらすものとする。

死は 生の終焉である。死について予想される肉体的な苦痛や心の不安、動揺の原因になるもの、怖いからといって、

何かにすがりようのない中で、自分に残された余命を生き抜く力、

自分の死と主体的に対決すればするほど、私にとって死を超えて、不滅となる「永遠」となるだろう。

生から死、死から新生、新生から生、生から死。死は生を超越し、死が内在化を介して、生が、死を超越する。

永遠と自己超越する。

人間の想像の中で、死を超越するほど大きな超越はない、生の充実は ただ生きるということではなく、

ある普遍的探求や研究に準力することではないでしょうか。

生物やあるものの分割されたものの非現実性を死と呼ぶとして、死こそ、最も恐るべきものであり、

死せるものをしっかりとらえることは 最大の力を必要とする。死に耐え、死の中で、自分を維持する生が「精神の生」である。

真理というものは それ自身において、自ら運動して行くものである。

即自の最後の勝利とは 死である。死は全体系の「過去として考える」による時間性の根本的停止であり、

即時による人生全体の奪還である。

死にむかって自由であることのみが、現存在に目標を与え、実存を有限性の中にいれる。

自分が自由を意識するのは 不安においてである。

「将来の前における不安」「過去の前における不安」 この不安が 私です。

語る主体が自己を表現する代わりに、わが身をさらす事は 四次元表現によるもので、

存在物の「死」の表現方法であることが確認できます。

「生、病、死、」は 一体である。近代文化における個人性の経験は 死の経験に結びついている。

ニーチェの思想が告知することは 虐殺者の終焉である。すなわち、己は 虐殺者でなければ ならないのです。

「死」は 将来、全てのものに訪れることであるから、この虐殺者とは 未来を見据えた表現なのです。

「虐殺者の死」を意識せざるを得ません。

虐殺者とは 「驚異の芸術表現を実行すること」のみです

芸術家は 虐殺者でなくてはならない。







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①「現象学の見方」








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