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D 規則の無視と謎と狂気
意味その物を"謎"と 化してしまう
自律的に現実を構造化するのとは反対に、現実の多様性を増幅させつつ、意味そのものを(謎)と化してしまうことが重要なのである。課題は常に暗号解読ではなく、現実を記録することなのである。そして、それは謎を生み出すことでもあるのだ」(岩伝)、「不快感を受け、見憎いと感じる局面が"あし"と呼ばれた"あし"と感じる対象は、ゆがみ、ねじれ、それが本来もつべき性質を欠き、中正を逸した過度のものである。それを"見憎い"と見る眼は対象でなく、主体のものである。"あし"と感じるのは、主体である」
規則的で整然とした 単純なものよりも、
むしろ、非対称的で、動的な、混沌としたと言えるような 図形の好みに 表れている。(視)
狂気
狂気の古典的な徴候が、現前する事を、明るみに出す事が、必要である。(M)
理性と狂気の対立、狂人の言葉は 細心の注意を払わせるものである。(言)
(岩背)、
ソクラテス「狂気とは、神の賜り物によって授けられる狂気でなければならない」(岩無)、
「我々が文化と呼ぶすべてのものは、リズムに根ざしている。リズムは、我々のすべての創造を喚起する源泉である」、「筆跡のリズム、現象の時間性のリズム的分節は、それゆえ、常に同時にその空間性のリズム的分節であり、その逆もまた、同じである」
力がなければ、形は構成されないが、しかしまた力は、形を壊すものとしても働く」(か)、
「狂気は、理性の支配的態度によって拒否される。狂気から非理性への移行である。
非理性は"知覚の対象"となりうるのだ」(フ)、
≪狂気と非理性≫古典主義時代における狂気の歴史、人間が狂気じみているのは必然的、狂気じみていないことも、別種からは やはり、狂気じみていることになる。狂気が未分化の経験であり、あの零度を 歴史の中に発見しなおす必要がある。狂気のあの「種別の傾向」は その働きのいたるところで<理性>と<狂気>を、これから先 相互に無関係で、あらゆる交換をこばみ、いわば互いに 死せるものと化しているのであって、こうした「別種の傾向」を その歪みの根源にまでさかのぼって、描き出す必要があるのである。
「人々の容認する数々の決定的な真理の助けをあきらめる」必要があるだろう。すなわち、
現代の精神病理学が、磨きをかけている数々の概念と縁を切る必要があるだろう。狂人と理性の人は もはや、互いに言葉を交わしはしない、「両者の間には 共通の言語は存在しない、こうした沈黙についての考古学を創り出す事が、私の意図である。
<狂気>フォリイ、<錯乱>デマンス、<非理性>デレゾン、多分承認しなければならないのは、
「その独自性の重大な一面」を形づくっていて、この文化をおびやかす その深みによって、この文化は規定されているという点である。フーコーの導きは、この深みのほうである。
1つの文化の限界が問題にされるようなこの領域、
狂気経験をして、自らを表現せしめること、
狂気経験をして、自らを語るがままにしておくこと、
狂気は 両者の断絶がすでに、生じているこの時期に、まだまだ、目の前にあって なじみぶかいのである。狂気は理性の支配的態度によって、拒否される。狂気から、非理性への移行である。
非理性は 「知覚の対象」となりうるのだ。医学的人間が、狂気を包囲する事が出来るのは 彼が、狂気を認識するからではなく、狂気を支配するからである。
狂気を受け入れる能力のある人々、ニ―チエとアルト、狂気を正当化していると信じている世界のほうが、狂気の正面で、自分を正当化しなければならないのである。
カンギレムが 関心を寄せたのは、とりわけ、イデオロギーと合理性の関係、発見に至る過程≪真理≫の探求において 誤謬が果たす役割であった。
実存主義(サルトルとメルロ=ポンテイ)者や、現象学研究者からなる 経験と感覚の哲学者達の系譜とは 根本的に、しかも、いわば大昔からの如く、対立している系譜だ、
「狂気について語るには、詩人の才能がないといけません」(ミフ)
「これは遊びですよ」と言う枠の中で、あらゆる可能性そのものを、楽しめる「あらゆる創造行為は
まず第1に 破壊行為である。(視)
「目をそらして、規則を無視することが必要なのである。
作品に関しては<芸術>が最高の地位にあり、人間に関しては倫理的であり、実践的判断
を正しいものとする<賢慮>の徳 が最高の地位にある」(芸責)、
「最後に表象や概念や理念が生命を持った動く形態となって、空間の中で目に見えるようになる程にまで 現実的な力を持てるように、人間の内なる要的なものが 活性化されねばなりません」(オ)
「好奇心が新しいものを求めるのは,
新しいものから改めて、また新しいものへと飛び離れるだけのためである」(ハ)、