2022年  3月 6日  四旬節第1主日

      
聖書 :  申命記             26章 1節~11節
            詩編               91編 1節~16節
            ローマの信徒への手紙    10章 8節b~13章
            ルカによる福音書       4章 1節~13節

      
説教 : 『 御霊の力あふれて 』
                          木下海龍牧師
           
      教団讃美歌 :  142、 260下、 515、 514
 
 ルカ4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と悪魔に言い放った。
 パンは生きる上で必要なモノです。そこで肝心なことは、そのパンを得るために、社会的に、また個
人的に人の人格が尊重されているかということであります。国家や会社や組織がその個人を卑しめる
ことなく、パンを得る道筋を整えてあるかであります。空腹や困窮に付け込んで、本人の意思や尊厳を
無視した方法によってしかパンが得られないのであれば、そうした屈辱の下で強いられた仕事からは、
生産活動の喜びの果実は結び難いのです。秩序ある社会とは綺麗な家並みがあることではなく、どん
な人でも生計を維持することが最も普遍的であるべきだ。イエスが悪魔との対決において、モーセの「
人はパンだけで生きるものではない」申命記8:3を武具にした。これは、人がパンを得るために今、我々
が整えるべき社会の仕組みや在り方にまで深く言及しているのです。
 ルカ 4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。
偉大な人物とは、その国で自分が高い地位に就く人のことではなく、世のため人のためになっている
か、その正確な度合いに応じて決まるものです。
 ロシヤのプーチンはウクライナへ武力侵攻した。これは大きな決定的な過ちを犯している。6節で明
記されている「権力と栄華」への誘惑に負けたのです。

    21世紀の今日において、ポストモダンに踏み込んだ時代に!!武力によって脅し、人の命とその国土を蹂躙して、己の野望を実行した。ロシヤの人々も平和な日々を望んでいたはずだ。一国の指導者たるものは、己の野望ためではなく、ロシヤの人々と、ウクライナの人々のためにこそ、ことを実行すべきであるのに、今回の軍事侵攻は、ロシヤの人々の生活は全く考慮されていなない。この結果はロシヤが孤立することは確実であるのだ。まずは生活の困窮と罪責感を抱くのは国民である。

    ウクライナの人々の生活と命と、歴史的文化財を破壊している。プーチンの政治家としての歴史的評価は最悪になるのは確実である。ウクライナの人々はプーチンへの怨念は勿論の事、プーチンを止められなかったロシヤの人々にも向けられることになる。全く、残念である。

    自分の野望と覇権拡大のための武力侵攻は、プーチンには個人的なトラウマがあるにしても、21世紀の時代においては、全くナンセンスな行為である。彼は大国のリーダーとして、ふさわしくない判断を間違えた。その結果が彼には見えていない。それゆえに、彼は自らの墓穴を掘ったことになる。

    それにしても、大きな犠牲を世界に残すことになった。全く短絡的で許せない行動であったと断言できる。

ルカ 4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
 「主を試してはならない」という言葉は、イスラエルの民が、主の命令によって、エジプトの奴隷状況か
ら解放に向かう途上で、飢えと乾きに当面して言った「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わた
しも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と、激しい渇きのために死に直面したイスラエル
は、奴隷の身であったが、腹いっぱいに食べることのできたエジプトの生活を懐かしみ、モーセを恨む
ようになったのです。そして、モーセの導きに対する不信は、神への不信へと広がったのでした。この
不信と疑いを指して使われる表現が“主を試みる”なのでした。“試みる”という表現には二重の意味
で使われて参りました。試みるのが神であるならば(神の愛を経験するための訓練)の意味であるので
すが、試みるものが人であるなら、(神の力に不信を抱く)の意味になりました。
 イエスがガリラヤから始めた神の国の宣教は、荒野での熾烈な戦いで悪魔を退けた体験を通して、
この宣教活動は神ご自身が自分に与えた試練であり、神のみ旨である、と受け止めたからこそ、十字
架を背負って登る険しい坂道は、神が望まれた贖罪の道であると確信した行動でありました。
 イエスは誘惑の試練を乗り越えて、力を受けたのです。力というものは、肉体的な能力から生じるも
のではありません。不屈の意思から生ずるものなのです。悪魔との対決に立ち向かって、撃退したとい
う信念とその体験が、やり遂げた力を自覚した姿勢に霊の力が満ちていた!!と詩的に表現されてい
るのです。
 その状況をルカは「イエスは“霊”の力に満ちて」と表現しました。霊がみなぎった力を内側に充満さ
せて、宣教を開始したのです。しかも馴染みの人も住む土地、ガリラヤに入ったのです。まずは自分が
知っており、交流のある人々が住む場所へ。誰に伝えるのか。彼の内側に沸き起こったのは、まずは
自分が知っている人々が住む場所を目指したのです。イメージと問題意識が明確になるからです。
 日本に来られた宣教師方が、何処で宣教を開始するかは重要な課題でした。特に日本伝道では遅
れて始めた当時の東海福音ルーテル教会にとってはそうでした。旧日本福音ルーテル教会が既にあ
りました。東京や名古屋は大都会ですから競合しない場所を選んで、小石川教会、板橋教会、本郷教
会を開拓したのです。名古屋市には今池に名古屋教会が既にあり、大曽根には復活教会がありまし
たから、離れた所の恵み教会、高蔵寺教会、希望教会、柴田教会を始めたのでした。そのほか、ルー
テル教会のないところで、さらに他の教会もほとんどないか、少ない場所を選ぶ気配りをせざるを得ま
せんでした。それでも、私が関わってみると、すでにあった日本基督教団の牧師先生方からは直接に
嫌味を聞かされました。当時は東海道沿線にはルーテル教会はありませんでしたので、湯河原、小田
原、沼津、富士教会、静岡、焼津、島田、浜松、三ケ日、豊橋、岡崎、刈谷、半田、高蔵寺、大垣と宣
教が随時開始されました。私がアーズランド先生の助手でいたころ、先生との対話から知ったのは、東
海福音ルーテル教会として滋賀県大津地方、福井県への宣教調査、拠点の手付として、伝道所を一
時的に開設したとのことでした。どこで始めるかは、かなりの時間や調査、予算の投入など難しい課題
があるものだと感じました。
 イエスは、自分が知っているガリラヤの街、そこに住む人々に、生きてゆく力と希望を与えたいと願っ
て、その地方へ、御霊の力に満たされて入って行かれたのです。宣教は特定の街や具体的な人が住
む村や街で開始されるのです。
 富士教会もまたそのようにして、決定されて、祈りの中で宣教活動がオルソン先生夫妻によって開始
されたのでした。
 主よ、わたしどもを憐れんでください。この富士教会が閉じることなく、福音の光を掲げ続けられます
ように牽引してください。我らは従います。 アーメン

参照:「四十日」の他の聖書個所
7:4 わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐ
い去ることにした。」  7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
使 1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、
四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 

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