本日、私たちに与えられた福音書の御言葉は神の御子イエス・キリストが漁師たちをご自分の弟子となさった。そして、その弟子となった人々も全てを捨てて、イエス様に従っていく弟子となったと言う話です。
教会では、こういう出来事を召命と呼びます。教文館が発行しておりますキリスト教大辞典にこの言葉が何と書かれているか、はじめにご紹介したいと思います。
召命=「召命に対応すると考えられる外国語は、呼ぶことという意味である。従って罪の世界に生きていたものが、神に呼び出されて、救いを与えられるという意味で、選びとほとんど同義語に用いられることが多い。」
罪の世界に生きていたものを神様が呼び出して救いの世界に選び入れて下さること、と言うことです。さらにこう続きます。「しかしまた、日本語が示すように、そうした救いの召しを受けたものは、それまでと違った新しい生活に入り、神の意志に従い、新しい使命のもとに生きるのであって、その点を強調して用いる場合も多い。」
また、広辞苑では「(vocation(イギリス)・Beruf(ドイツ))ある使命を果たすように神から呼びかけられること。預言者や聖職への召命のほか、宗教改革以降は一般の職業への召命も言われるようになった。」とあります。
神様に呼ばれて新しい世界に入る。古いものを捨てて、新しい生活を始める、と言うことです。英語では、CALL(コ ール)と言います。呼ぶと言うことです。もちろん、単に呼ぶと言うことではなく、神様からのCALLと言うことです。
教会では、誰かが牧師になると言うときに、この召命という言葉を特に用いることが多いようです。神様に呼ばれて宣教の仕事をする、そう言う意味で、まさに、この召命という言葉が一番相応しいのでしょう。
ですから、牧師になりたいものは、神学校に行くと、尋ねられます。「あなたの召命感を聞かせて下さい。」必ず、これを聞かれるのです。牧師になるというのは、能力ではなく、過去の行いとも関係がありません。学校の成績がいいかどうか、社会的に立派な奉仕をしているかどうか、そんなことも関係ない。人格的に見てどうか、これも関係ないのです。ただ、神様がその人を選ばれたかどうか、と言うことであります。そして、神のCALLを受けたものが、これに答えようとする。そして、神様がその人を立てる。それだけです。
神学校の先生達が居並ぶところで、あなたの召命感について話して下さい、と聞かれる。何ともうまく表現できないこともあります。我こそは牧師になるべく召されたものです、なんて偉そうに言う人はいないでしょう。角本先生はそんな度胸はなかったそうです。
ただ、その質問を受けてみて、やはりとにかく、主が今日まで自分を導いておられる、先生はただその主に従って、その召しに応えたいのだ、と言う気持ちを確認することだけは、出来ていたようです。
教会ですでに洗礼を受けたみなさんも、ご自身が洗礼を決意されたときのことなど、思い起こしていただきたいと思います。聖書の中のペトロたちのように直接イエス様をこの日で見て、その声をこの耳で聞いたわけではありません。それでも、日々の中で、神のみ手を感じ、今日までを導かれてきたことを思いめぐらしながら、確かに主は私に声をかけてくださった、従ってこいと言われた。救いの道を照らしてくださった、と受け止めて、イエス様の弟子になろうとされたのではないでしようか。
それぞれ、そのときの状況は違うでしょう。しかし、やはり、私たちはきっと皆、神様のCALLを受け、そして、それに答えたのです。そして、その声は、いまも私たちに届けられているのです。さあ、これからも一緒に歩いていこう。あなたは私の選んだ器なのだ、そう、主は私たちに声をかけておられるのです。
主の弟子として生きる。決して格好いいとも限りません。そこから清く正しい、汚れない生活が始まるわけではありません。
むしろ、神様と出会うというのは欠けある自分を見いだす、と言うことではないでしょうか。今日の箇所でも、イエス様のみ業を目の当たりにしたペトロが、私は罪深いものです、と告白しています。彼の信仰がそこからスタートしています。何の汚れもない、立派な人物だから、信仰生活をおくる。そういうことではなくて、欠けある自分だから、欠けある自分をいちばんよく知っていらっしゃるイエス様、神様に従う。そういう姿を、聖書は余すところなく、伝えているようです。そうであればこそ、「恐れることはない」と言われた、主の言葉を私たちは存分に味わえるのではないでしょうか。
ペトロは、イエス様の一番弟子でありながら、つまずきの多い、おっちょこちょいの弟子でした。私たちも、失敗なく、悩みなく、イエス様に従いゆけるほどのものではないでしょう。しかしそんな私たちであることを誰よりも知っていらっしゃる方が、「恐れることはない。私はあなたを私の弟子にする。従ってきなさい。」と呼びかけてくださるのです。
イエス様の弟子たちが失敗を繰り返しながら、成長していき、やがて、大勢の人たちに福音を伝えたように、私たちも主のまなざしの中で、祈りつつ、信じて歩いていきたいと思います。
●祈り
神様。あなたの選びと、御心は、はるか永遠を見通すご計画の内にあります。私達は小さな尺度で、あなたの遠大なご計画を見ようとして、疑う者となります。どうぞ、主よ、あなたの大いなる御心に、この身を委ねる信仰をお与え下さい。そして、網が破れそうになるほどの、大きな祝福を、この群にもお与え下さい。この感謝と願い、尊き主の御名によって、御前にお捧げします。アーメン。
当教会は、聖書 新共同訳を使用しています。
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(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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