2025年  1月 26日  顕現後第3主日(緑)

      聖書 :  ネヘミヤ記            8章1節~3節、5節~6節、8節~10節
            詩編               19編
            コリントの信徒への手紙Ⅰ  12章 12節~31節a
            ルカによる福音書        4章 14節~21節

      説教 : 『 イエス様は日本のナザレでは受け入れられない 』
                      信徒のための説教手引き 信徒代読

      教会讃美歌 :  49、 181、 171、 382

本日は、以前、東海教区で牧会をされていた竹田孝一先生の説教です。今から25年前、西暦2000年の沖縄サミットが開催される前に、債務国の債務を軽減するためにヨーロッパの各国は、このことをサミットの議題にあげようとしたことを記憶しています。それは、主の恵みの年、つまりヨベルの年にあたっていたからです。ヨベルの年は、おおまかにいえば借金が棒引きになる年だからです。その目的は弱者の救済にあったのです。そういう意味で2000年を弱者なる債務国に対して債務の軽減をしようとしたのですが、日本はヨベルの年というものが分からなかったために対応が遅れたと、新聞が記していたのを覚えています。いや、債務国の痛みということが、分かっていなかったということでしょう。いかに、第三世界の国々が債務返済に苦しみ、その債務のつけがそこに住む、住民の生活を脅かしているということに気付いていなかったということではないでしょうか。司馬遼太郎氏が 「明治という国家」 で、日本が国家で在り続けられたのは、自助力にあったと言っています。借りた物は返すという、ごく当たり前のことを当たり前にしていたからだというのです。竹田牧師は債務国に住んだ経験があり、そこで国家の腐敗を見たそうです。借りたお金を自分の懐に入れていく政治家を見たそうです。こういう国家に借金の軽減など、言語道断のことであるという気持ちはよく分かります。確かに自助力をその国家が持つためにも、借金の棒引きはさらに自助力を失わせるという論法は実に正しいものです。しかし、そういうことを言っている限り、貧しさに喘いでいる人が多くなり、多くの人が苦しめられ死んでいくのです。一方では猫犬が一方の人間が食べる物を餌としている。 また、一方では自分達の食べるものにもこと欠いている。そういうことが平気で行われていることが、果たして神さまの望むことでしょうか。犬猫がキャットフード、ドッグフードを食べるのはけしからんと今の教会で言ってごらんなさい、たぶん無視されるか、白い目でみられるのがおちです。でも、言わなければならないところまできているのかもしれません。犬猫にやる餌のためには多くのお金をだすが、債務に陥っている国々の多くの人が、貧しさに苦しみ、飢えている、そういう人のためにお金を出す人はいないのではないでしょうか。イエスさまは故郷ナザレで、わざわざ喧嘩しなくてもよいものを、あなたがたの外に救いがあると言ったため、怒りを買い、崖から落とされそうになりました。にもかかわらず、なぜそのようなことを言ったのかというと、自分達だけが、救いのうちにあると信じ、自分を根底から変えようとせず、貧しい人、捕らわれている人、圧迫されている人に対して、まったく自分の痛みとしてとらえず、偽善ぶっている人の罪をはっきりと見せようとしたからではないでしょうか。日本は、ODAの援助では、世界3位です。高い額を援助しながら、なかなか評価を受けないのはなぜでしょうか。それは、自分達が正しい、良い国家であるという自負心からくる、くれてやる根性が見え隠れするからではないでしょうか。自分達がいかに、他者を痛めつけているかに気付かない鈍感さ、自分自身を変えていこうとしないことが、受ける側からすれば見え見えなのです。イエスさまがナザレに入ったとは、私たち日本人に入ったと言ってよいかもしれません。そして、私たちに私たちの生活、生き方そのものを厳しく問いかけているのかもしれません。そして、貧しさ、圧迫に苦しんでいる人のことを他人事のように思って、自分達がいかに第三世界の人に貧しさを押し付け、圧迫を生み出している救いの外にいる人であると言っているのではないでしょうか。私たちの中には救いはないとイエスさまは言われるに違いありません。 さて、私たちは真剣に自分自身を省みることが求められているのではないでしょうか。さらに、主のこの世の伝道の目的に耳を向ける時がきているのではないかと思うのです。①貧しい人に福音を告げ知らせること、②捕らわれている人の解放、③目の見えない人の視力の回復、④圧迫されている人への自由、⑤主の恵みの年(ヨベルの年、レビ記25)を告げること、私たちは自分達のパンのことでは熱心になりますが、人のパンのことになると精神的なところに止まって、手を出しません。自分自身の生活や自分自身を変えていこうとしない冷たい自分に気付く信仰の感性を持ち続けることが大事です。ナザレの人達にイザヤの言葉をかりて、イエスさまは伝道の目的をはっきりと示しました。そして、彼らもその通りだと受け止めました。 しかし、それが自分自身を変えていく時になると彼らは豹変したのです。私たちも貧しい人に愛の手をと言って、自分自身に関わってこないとき、ましてや自分自身を深く反省、自分自身を変えないですむ範囲ならば、手を差し伸べていくかもしれません。しかし、それが自分自身と関わる時、私たちも豹変する可能性があるのではないでしょうか。そういう自分をよく見ていくことが、これからの世界において大切です。どこまでも相手のパンの問題を自分達のものとして受け止めず、単に精神的な物として受け止めていく冷たさに、主が挑発的に戦った相手は、ナザレの人でなく私たち自身であるということに気付くことです。それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。主の伝道の目的を自分のものとして受け止めていく日々の信仰生活です。それは、当たり前のことといえば、当たり前のことをすることです。そのために自分自身を根底から変えていくことが必要ではないでしょうか。自分の生活を変えていくことです。今、自分がしている生活が、いかにイエスさまの生活から遠いものであるかということを見直していくことです。そのために自分に痛みが伴うことを恐れないことです。いや、自分の痛みなしでは、きっとイエスさまの目的を達成できはしないでしょう。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 とあるように自分を捨てることです。自分の安楽の今の生活を捨てることです。この強い痛みこそ、イエスさまの伝道の目的を心から自分のものとできる信仰となるのです。生活の一歩から私たちはできるのです。私たちの国はいかにエネルギーを浪費しているでしょうか。いかに食料を浪費しているでしょうか。この浪費が貧しい国の人をいかに苦しめているでしょうか。エネルギー、食料の不平等を生んでいるでしょうか。これに気付くことです。ほんの一例です。私たちは便利な自動販売機というものに慣れています。しかし、これは莫大なエネルギー資源の無駄です。日本から自動販売機を無くせば、原子力エネルギーをかりなくてもよいという人もいます。私たちが少し不便になれば、エネルギーを貧しい国へまわせるのです。もっと簡単なことは、家中の使わない電気製品のコンセントを抜くと、消費電力がぐっと減るのです。食料も同じです。今までの私たちの生活をイエスさまが見て、イエスさまが私たちの所にこられたら、このナザレの人に語ったように、私たちの中には救いがないと挑戦的に戦ってきます。私たちは主が顕れて来られても、主の目的を達成している主の民として、今、日々、自分を捨てて、自分の生活を変えていく努力をお見せできるように、日頃から自分の生活を根底から変えていくようにいたしましょう。

お祈りいたします。導き主なる主よ。わたしたちがあなたの心をあなたの心として受けとめて日々を歩めるようにしてください。今の生活をあなたのみ言葉によって変えられていくことに勇気をもって変えていくことができるようにしてください。主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

≪過去の説教集≫
・説教応援 - 高塚 郁夫 牧師
          後藤 由起 牧師
          木下 海龍 牧師 ・ 信徒礼拝
・説教者交代 - 東静地区・講壇交換プログラム
一日神学校・牧会委嘱・特別説教応援・他

当教会は、聖書 新共同訳を使用しています。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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