2024年  9月 29日  聖霊降臨後第19主日(緑)

      聖書 :  民数記              11章4節~6節、10節~16節、24節~29節
            詩篇               19編 8節~15節
            ヤコブの手紙          5章 13節~20節
            マルコによる福音書      9章 38節~50節

      説教 : 『 つまずき 』
                  信徒のための説教手引き 信徒代読

      教会讃美歌 :  151、 240、 279、 339

もうすぐ10月です。 10月は宗教改革の月です。 私たちの教会はルーテル教会といいますが、これは、
マルティン・ルターが教祖であるというのではなく、ルターが聖書に基づいて宗教改革をした、その根本に立つ教
会であるということです。 その意味でも、私たちは絶えず聖書の根本に立ち返らなければなりません。

さて、今日の福音書にはたくさんのことが書いてあります。 その中心的な事柄を三つ取り出してみます。 
第1は、40節の
《わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである》 という教えです。 私たちの周
囲には、洗礼を受けてクリスチャンになるというところまでいかなくても、キリスト教に関心を持ち、好意を持たれ
る方がたくさんおられます。 イエスさまからご覧になると、そういう方々は皆、私たちの味方であるということです
。 第2に、42節の
《わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けら
れて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい》
ということです。 このみ言葉は先週お話しした37節の 「私
の名のために、このような子ども一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」
と言われたことの一つの展
開です。 イエスさまは、小さい者を受け入れる教会になりなさい、小さい者を軽んじる教会になってはならな
い、と言われます。 第3に、最後の50節の
《自分自身の内に塩を持ちなさい。 そして、互いに平和に過ご
しなさい》
ということです。 ここでいう 「塩」 というのは、私たちが現在、家庭で使っているような立派な塩では
なく、道端に転がっているごつごつした岩塩のことです。 「塩」
というのは、味付けや腐敗防止に使われます。
 そして塩は、そのままの形ではなく、地の物に溶け込んでいきます。 そのように、私たちのところに来てくださる
イエス・キリストご自身が「塩」であって、私たちは自分自身の中に、イエスさまを受け入れることによって、少しず
つイエスさまのようになっていくのです。 この3点の中から、2番目の教会は小さな者をつまずかせてしまう危険
にさらされているということを、イエスさまは繰り返し語っておられますので、今日は、特にその点を取り上げてみ
たいと思っています。 この箇所は、《わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼
を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい》
とあります。 「石臼」 というのは、穀物を砕く
ための道具で、グラインダーと訳されるものです。 大きく、重いもので、これを首に懸けられて、ガリラヤの海に
投げ込まれたら、絶体絶命でしょう。 時々、殺されて、ビニール袋に入れられて、重りをつけて海に投げ込ま
れた死体が上がった、というようなニュースを聞いてぞっとすることがあります。 恐ろしいことです。 イエスさまは
、首から転じて、手、足、目をあげて、その片方がつまずかせるなら、切り捨てなさい、といっておられます。 こ
れは、悪い方の粛正を言っているのではありません。 これは、象徴的な意味であって、肉体の片方を切り取
れば、霊的に清くなるというのではありません。 肉体を無理に傷つけたり、禁欲生活を行ったりして、精神を
鍛える方法などがありますが、それが永遠の生命を受けるための功績となるのではありません。 人間の肉体も
欲求も正しく持ち出で、神と人に仕えるように整えなければならないというのです。

旧名古屋教会に嶋昭江さんという婦人会連盟(現在の女性会連盟)の会計をした人がおられました。 
彼女は、ご子息をルーテル幼稚園に預けて、聖書のこの箇所と出会い、ここからキリスト教の真剣さというもの
を読み取って、洗礼を受けてクリスチャンになった人です。 読む人によっては、この箇所は人の生き方の姿勢
を正し、生きる力を与える、み言葉です。 さて、この物語を解くキーワードは
「つまずく」 という言葉です。 「
つまずき」
は、『広辞苑』 を引きますと、「足のつま先を石に当ててけつまずく」 ということになっておりますが、
ギリシャ語の原文では
「スカンダロン」 という言葉で、英語のスキャンダルに当たります。 「スキャンダル」 は私
たちがよく聞く言葉です。 スキャンダルは
「醜聞」 と訳されて、私たちが顔をしかめるような、よくない出来事を
いいます。 けれども、ギリシャ語の
「スカンダル」 の本来の意味は 「罠」 です。 罠を仕掛けて獣を捕えるあ
「罠」 です。 獣を捕える 「罠」 は、あらかじめ動物が通りそうな場所に仕掛けておいて、何も知らずに飛
び込んで来た動物をぴしゃりと捕らえてしまうのです。 そこから、スキャンダルという言葉が
「つまずき」 と訳され
ております。 思いがけない障害物が、平穏に歩んでいる私たちを「つまずかせ」てしまう。 私たちの歩みをひっ
くり返してしまう。 私たちを傷つけてしまう。
「私を信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる」 と言われる
とき、その
「つまずき」 はそのような意味があります。

ところで、つまずかされた者はどうするかといいますと、当然腹を立てます。 「なぜ、こんなものがここにある
か」
と腹を立てます。 そして、つまずかせた石を蹴飛ばしたりします。 ちいさい子どもは、母親が 「こら、こん
なところにつまずかせる石があって」
と、その石に向かって怒ったりしますと、ついご機嫌を取り直したりします。 
「スキャンダル」
というのは、そういう面があるのです。 スキャンダルというのは、それを聞く人が腹を立てるような
不愉快なことだと申しましたが、もっと特別な面があります。 新聞の三面記事やテレビのワイドショーなどでは
、人気タレントのスキャンダルをこれでもか、これでもか、と言わんばかりにあばき立てます。 どうしてそんなことを
するかと言いますと、残念なことに、スキャンダラスな記事を載せると週刊誌がよく売れ、ワイドショーの視聴率
が上がるということがあるのです。 顔をしかめるような他人の醜聞には、人は内心喜んで聞いてしまうというとこ
ろがあるのです。 さらに言いますと、わたしたちが生きている世界は、人間の価値を測るのが好きなのです。 
人間の大小を測ります。 学歴、財産、地位、有名度を測ります。 そして、人は自分より小さい者がいると
喜ぶわけです。 相手を小さく見ることによって自分を大きく見るのです。 そのように、「小さい者」
を小さく扱
い、あるいはほとんど取るに足りない者と無視してしまうとき、イエスさまは
《これらの小さい者の一人をつまずか
せる》
と言われるのです。 反面、私たちは、他人に対しても自分に対しても、その人の長所とか、美点と思
われるところは受け入れ易いのです。 自分の気持ちがいいからです。 けれども、その人の欠点や醜いと思わ
れる弱点は、だれでも受け入れたくないのです。 ですから、自分に合わせて、他人がその欠点を直したら、ま
た、その人がこのように変わったら受け入れてもよい、と考えます。 けれども、人間というものは面白いことに、
相手に丸ごと受け入れてもらえないと、変わらないものですし、変われないのです。 丸ごとありのままに受け入
れてもらったときに、人は変わり得るし、変えられるものなのです。 他人から、こう変わったらいいと言われても
、決して変われるものではなくて、自分で自分の不足に気が付いたときに、人は自由に変われるものなのです
。 私たちは、イエスさまによって丸ごとありのままに受け入れられた者たちです。 それゆえに、小さい者が小さ
いなりに重んじられるという視点を大切にしていきたいと願っています。

お祈りいたします。

主よ。 あなたは、あなたから見れば欠けだらけの私を受け入れてくださいました。 私から見て、小さく、弱く見
える兄弟を軽んじることがないように、あなたの目と心をもって、兄弟を見ることが出来るように導いてください。 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
    
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