2018年   9月 9日   聖霊降臨後第16主日 


      
聖書 : マルコによる福音書         7章 24~30節

      
説教 :  『 主よ、しかし 』    松岡 俊一郎 牧師 (代読説教:大石兄)


 旧約聖書の創世記18章16節以下には  「ソドムのための執り成し」  と表題がつけられた話があります。

 神様が罪深い町ソドムを滅ぼそうとされたとき、アブラハムが神様の前に進み出て、
「あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 
   あの町に正しい者が50人いるとしても、
   それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために町をお赦しにはならないのですか。」
と迫り、
「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
との神様の約束をとりつけます。

 さらにアブラハムは、
正しい人の人数を45人、40人、30人、20人、10人と減らしながらも、ソドムの町を滅ぼさないように求めるのです。 
結果的には、
正しい人がいないということで町は滅びてしまうのですが、ある種のユーモア中にも神様の深い哀れみを語る物語の一つです。

 このお話を読むと、神様は決して杓子定規な方ではなく、人と生きた関係を求めておられるお方であることを感じます。 

 神様は一度決めたことは、てこでも動かない、誰にも変えることは出来ないというのではなく、
神様は人との関係に自由をおかれ、その奥底には愛と哀れみが貫かれているのです。


 さて、今日の福音書は、ティルスという地方の町での出来事を伝えています。 
地中海に面した港町で、昔から外国人の地とされており、
イスラエルと同じローマの支配下にあったものの、文化や宗教事情は大きく異なっていました。 
なぜイエス様がそのような土地に行かれたかは分かりません。


 一行がある家におられたとき、うわさを聞いたギリシャ人でシリア・フェニキア出身の女が、
幼い娘が汚れた霊にとりつかれているので、娘から悪霊を追い出して欲しいとイエス様の足下にひれ伏して願ったのです。
古い伝承によると女の名前はユスタ、娘の名前はベルニケであったと言われています。 
詳しくは分かりませんが、この娘は何かの病気だったかも知れません。 
病気が悪霊の仕業と信じられていたからです。 

 いずれにしてもこの女は、どの親もそうするように、
娘を抱いてあちこちの医者や祈祷師の所を歩き回ったに違いありません。 
そしてその度に冷たい答えにあい、失望を味わい、苦しみ、もはやすがる者のないような状況だったのでしょう。 
外国人であるイエス様をあえて尋ねて来ていることは、普通では考えられないことだったからです。

 ところがこの女の切実さとは対照的に、イエス様一行の態度は大変冷たいものでした。 

 マタイによる福音書の平行記事をみると、
「イエスは何もお答えにならなかった。」
と記していますし、弟子達は
「この女を追い払ってください。 叫びながらついてきますので。」
と、助けるどころか、厄介者扱いをしているのです。 
弟子達は他の所でも群がる群衆を遠ざけようとしたりしていますので、
彼らの行動はいつものことなのでしょうが、
イエス様の態度もいつになく厳しく、私達は失望してしまうほどです。


 イエス様は
「まず子供達に十分食べさせなければならない。」
と言われています。 

 マタイではこの前に
「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」
と言われていますので、
なるほどイエス様は
ご自分の救い主としての使命がまずイスラエル人にあることを強く意識しておられるがゆえに、
外国人のこの女に冷たくされたことが分かります。
しかし、理屈は分かるものの、何となく素直に受け入れられない気持ちです。 

 ところが私達の気持ちを超えて、ここに信仰による大逆転が起こります。 

 この女はイエス様の言葉にも関わらず、あえて
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
と切り返すのです。
小犬というと、私達の感覚ではテーブルの下でじゃれるかわいい小犬をイメージしますが、
ユダヤ人にとって小犬とはそのようなものではありません。 
彼らは羊を飼うにしても牧羊犬などを使いませんでしたから、
犬とはむしろ役にたたない、この場合は卑しい存在として語られているのです。
そしてこの女はあえて自分をそのようなものとして、イエス様の前にさらけ出し、救いを求めているのです。


 信仰とはただ願い事を請求書のごとく神様に送りつけることではありません。 
願い事があろうがなかろうが、聞かれようが聞かれまいが関係なく、自分を神様の前に差し出すことです。
確かにこの女も最初は娘を救って欲しいという直接の願いごとがありました。 

 しかしそれだけだったならば、
弟子やイエス様ご自身による何重もの拒否にあって彼女はとうにあきらめて帰っていたでしょう。 
しかし彼女は願い事以前に、
その絶望的な状況の故に、自分を救うものはイエス様以外にないという絶大な信頼に立っているのです。

外国人であり、ましてやユダヤ人の軽蔑の対象であるカナン人の自分が拒否されるのは当たり前。 
自分はイエス様に堂々と話が出来るような身ではない。 
ただ神様の哀れみのパンくずを一粒いただくだけでいい。 

この彼女の信仰にあっては、自分を卑しい小犬とすることは当然のことだったのです。 
この信仰はイエス様の哀れみの心を大きく揺さぶりました。 
そしてまずイスラエルの民への救いという使命をこえて、神様の愛が女と娘に注がれたのです。


 信仰は神様の心を揺さぶります。 
そして神様は喜んでそのお考えを変えて下さいます。 

 なぜなら神様のみ心は、かたくなに予定を実行することではなく、愛と哀れみを人に注ぐことだからです。

 私達にも切なる願いがあります。 
しかしそれを本気でイエス様に求めているでしょうか。 

 いや、その前に私を本当に救ってくださるのはイエス様しかいないという、信仰に立っているでしょうか。 
この愛にすがりたいと思います。



お祈りいたします。
 神様。 
私たちは様々な思いわずらいや生活の中の具体的な問題で苦しみ、迷っています。 
学校のこと、家族のこと、仕事のこと、人間関係のこと、健康のこと、生活のことなど、
一人では負いきれません。

 しかしあなたは異邦人の女の願いを聞き届けられたようにすべての民の祈りを聞いてくださいますから、
どうぞ私たちにもまたあなたの愛に信頼し、あなたにより頼むことが出来ますように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。     
 アーメン

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