小説 放浪歌(さすらいうた)
(三)雪が舞う、すすきの
 梅の花が咲き終るとすぐ、桜の蕾が大きくふくらんだ。晋三君と何となく話がまとまって、市民温泉場に来たのは丁度そんな季節だった。
 まだ北風が冷たいのだが、空を見ても遠くの山を見ても春がもうそこまで来ているという気がするし、六十四歳にもなり乍ら股間がむずむずし、ああ今日で二週間も出していない、それにしても春なんだなあと改めて思う。
 私は何時ものように少し色のついた湯槽に首まで浸り、晋三君から性器をぴたりと握られている。
     ◇
 晋三君はこの市民温泉に来る道すがら明るい顔でこう言った。
「とうとう工藤さんに入れて貰いましたで」


 右にも左にも行き交う人々が大勢いる商店街の真中で、彼はさりげなくそんな凄いことを話す。
 私の方がびっくりして周囲を見る。そして何となく安心して訊ねる。
「スムーズに入りましたか。随分大変で大騒ぎしたでしょう」
「うーん、でも工藤さんは入れるんがうまいんよのう。最初だけ少しつかえたが、あとはつるりと入ったで」
「それはよかったね」
 その雑踏での話はここで終っている。
     ◇
 晋三君は私の性器、それも亀頭の雁の寸法でも測るように、気忙しく手を動かす。それで私は皮肉をこめて言った。
「工藤さんのものと較べとるんか。小さくてすまないね」
 すると彼は三、四回首を横にふってから、私の耳に口を近付けた。


「おとうさんは、いまさっき蒸し風呂の中でこれを根元まで入れたろうが……」
「見とったのですか」
「そりゃ、あれだけ派手にやられたら見えるんよのう。じゃがおとうさんは相手を誰か知っとって、やったんかいのう」
「そりゃ無理ですよ。私が寝ていたら、上からおりて来て、すっぽりくわえられただけですよ」
「そんなことばあ云うて、それじゃおとうさんは腰も使わんだったようにきこえるんよのう。ふん、けっこう腰が弾んどったで」
「あの暗い所でよう見えましたね。実は私も二週間出してなかったもんでね」
「そりゃええけど、相手の肥った人は警察署の柔道の先生じゃがな」
「それじゃ警察官じゃありませんか」
「そうですよ。けど気持がよかったんじゃろう。おとうさんの口から声が洩れとった


し、これが根元までよう入っとった。おとうさん、よかったろうが」
 晋三君は私の亀頭のくびれを右手の親指と薬指で挾んで、痛くない程度に人差指と中指で亀頭をぐりぐりと揉んだ。
 晋三君は時に私の傍にいるのがわずらわしいと思うこともあるが、飾り気がなくて明るいので、私の心の中を総て話せるかけがえのない友人である。
 それにしてもこの温泉場のむし風呂は、中に入ると腰掛けるのでなく寝られるようになっていて、薄明りしかない。だから大の字になっていると誰かがすぐ舐めてくる。
 そのスリルがたまらない。そんな乱交みたいなことをすれば、モラルがなっとらん、だからホモは人間扱いされない等ともっともらしい講釈をする奴にはさせておけばいい。然しせっかく神様がこれ程高度の性向を与えて下さったのに、それから逃げ


る手はないと思う。
 けど今日の相手はでっぷり肥って年頃も丁度ぴったりの私の理想だったし、狭い所をかき分けて、所々の少しごつごつした場所を避け乍らずるりずるりと入っていく感触は何とも云えぬ位気持がよかったのだ。その人が警察官などということは関係なかった。
「おとうさんは、ええのう」
 晋三君が云ったので、私も言い返した。
「けど晋三君も工藤さんの巨根を入れて貰ったでしょうが………」
 二人は顔を見合わせて笑った。その時、工藤さんの唄声がきこえた。
 私達は急に真面目な顔をして耳を傾けた。
 
 ♪雪が舞うすすきの、心しばれて
  深酒に酔えないで、ただ暦をめくる、  
  どうして人を愛したの


  愛をすてれば楽なのに
  あなた、あなた、あなただけ
  思い出信じて、さすらえば
  幸せに、幸せに、死んで行けますか♪
 
 工藤さんがある種のパンチをきかせて唄うと、民謡の津軽山唄や、切干刈唄に似た哀調が漂って心がふるえて泣きたくなる。
「今日の工藤さんの唄は、何時もより悲しくきこえます」
 私がそう云うと、晋三君は首を傾けて云った。
「ほんとはこの唄は、もっともっとリズミカルに軽く流さにゃならんのんよのう。そりょうあんなに重う唄うんは、やはり工藤さんの心の問題じゃろうて……」
「よほど実蔵さんのことが頭から離れんのでしょうね……」
「そう言えば四、五日前にも、実蔵さんらしい人が北海道の病院に入っとるいう噂を


きいて、近々是非行って確かめてくる云うとった」
「凄いですね、誰だって去る者、日々に疎しと云って、離れて暮せば熱も次第に冷めるものですがねえ………」
「けど工藤さんの場合は、浮気した実蔵さんを連れ戻し二、三ケ月から二、三年間一緒に暮して以前以上の愛を育てた上で、又逃げられるんで日々に疎しとはちょっと違うんじゃのう」
「そう云えば、山谷の忠さんに連いて行った時の話を、晋三君は知ってるでしょう」
「知っとりますよ、じゃがそりゃ松さんの方が詳しく知っとる。松さんはその頃から工藤さんの身辺につきまとったからのう」
 私も晋三君も湯の中に首まで浸っているので少々のぼせ気味で、ぼつぼつ湯槽を出て体を洗う時が近付いていた。然し二人は勝手なことを話しながら視線は絶えず工藤さんの魅力的な体を追いかけていた。


 工藤さんはモップでタイルの床の汚れを落し、手桶でそれを流したり、各湯槽の中に手を入れて温度を見て廻り、適温にする為あちこちのバルブを開けたり締めたりした。
 彼の体は彼の動きにつれて複雑な動きを見せた。
 特に手桶に水を入れて床の汚れを流す時、両股を大きく開いて腰を低くして力を入れるので、両腕や太ももの筋肉が撓み、太鼓腹のふくらみが踏ん張った足の方に移動し、六尺ふんどしが少しゆるんで中のふくらみが太鼓腹のふくらみと反対側に大きく盛りあがって見えた。
 そんな工藤さんの体目当の男達は、目立たないように遠くから眺める人も、まるで求愛でもするように真近かで見る人も、真剣な眼差しを瞬きさえ忘れて注ぐのだった。
 工藤さんもそんな視線を意識して、好み


に近い男がいればその男に近寄り、自分の体をあます所なく見せつけ、更に興に乗り場所さえよければ他の人々に気付かれないよう気を使って、噂の巨根を六尺ふんどしの横から出して見せつけたりした。
     ◇
 私はその夜、松さんの部屋にいた。昼間、蒸し風呂の中で警察官の体の中に射精していたので、男に飢えている訳ではなかったが、私より五歳程年少の松さんは無類のお人好しで、小肥りの体と童顔を見ているとやはり可愛いいと思うし、体の接触をねだられると抱きたいと思う。
 私は松さんを抱いたまま忠さんのことを訊ねた。
「あの人は、どんな人ですか」
 松さんは、ちょっとだけ、又あの話かといった表情をした後、こう言った。
「そりゃ実藏さんが惚れる位の男じゃから、やっぱり忠さんはいい男ですよ。何か


傍にいるだけで、心が落着くんですね」
「おまえも抱かれたことがあるのか」
 私は松さんの体を海老のように曲げた。そうすると松さんがか細い声で泣くのだ。
 男色の受けの男はどんな頑健な男でも女になっている時は、どうしてこんなに可愛いいのかと思う。彼は私にそうされ乍ら、忠さんのことを話そうと思うのだが口をきく所ではない。
 けれども私から解放されると、布団の上で私の体に甘えながら話した。
「あの頃は東京でも男色者の数、といっても表に出て活発に発展する人は顔ぶれが決っていましたので、こちらが泣くようにして頼めば体ぐらいは触らしてくれました。
 然し、忠さんも実藏さんのような五十歳より上の人が好きですから、どもなりませんでした。 あの頃四十歳前でしたが労働で鍛えた肥満体で、股間のものは子供の腕位もありましたよ」


「実藏さんが忠さんと一緒に逃げてから、工藤さんは又連れ戻したそうですが、その間二年以上もかかっていますね。随分苦労したんでしょう」
「草の根まで探すという言葉がありますが、工藤さんは日本中の発展場は総て探しました。
 北は旭川、札幌、函館、南は沖縄、鹿児島、博多と凄い執念です。そしてとうとう見つけたんです。
 実藏さんは忠さんに連れられて北海道の名寄に近い山奥の工事現場にいたのです。
 何だか知らないけど実藏さんの布袋さんのような顔や体は大分小さくなっていたそうですが、忠さんは前よりも肥って、ズボンのベルト等一杯一杯でとても窮屈になっていたそうです。
 口さがない人達は、この時忠さんと工藤さんの間で血の雨が降ったといいますが、果してどんなものでしょうか。


 でも、工藤さんはこの時実藏さんを連れて帰って、それから四年間近くも一緒に暮しましたからね………」
     ◇
 この時のことを工藤さんは後に私にこう言った。
「俺は忠とさしちがえてでも、実藏を連れてかえろうと思った。
 然し、忠の奴は前よりもでっぷり肥って貫禄もあるし、俺の前で正座してただ黙っているだけなんだ。
 工事現場で二、三百人の頭をしていると人間は随分変るもので、俺は実藏が惚れるのも無理ないと思ったよ。
 でも俺もこのままじゃ引きさがれない。引きさがれば実藏を永久に抱けなくなると思った。ただそれだけで、男の面子とか忠に対する憎しみなんて少しもないんだ。
 それで俺は忠に頭をさげたんだ。あの時の俺の気迫はやはり凄かっただろうな」


 工藤さんは、忠さんの前に手をついて頭をさげて言った。
「俺は二年以上もかけて実藏を探して廻った。ただそれだけよ。これ以上は何も言わない。だから俺に実藏を返してくれ。返してさえくれりゃ、俺は実藏を大切にする。実藏は俺の宝なんだ。忠さん、このとおりだ。あんたの心も分るけど、頼む」
 すると忠さんの顔が複雑に歪んで、その視線を実藏の方にゆっくり移した。実藏もじっと忠さんの目を見てそれから工藤さんの目を見た。三人は夫々一筋の涙を流していた。
 実藏はその涙を横なぐりに右腕で拭いてから、からりとした声で云った。
「こうなったら、俺は工藤さんの所に帰らなきゃ、義理がたたないよ………」
 実藏のこの一言で総てが決ったのだ。忠さんは死にたい程実藏を手許から離したくないと思ったが、工藤さんの打算抜きの頼


みと、涙ながらの実藏の決意の前では、如何なる願望も捨てなければならなかった。
「工藤さん、心配かけてほんとにすまなかった。実藏のことはよろしく頼みます」
 こんどは忠さんの方が工藤さんの前で深々と頭をさげた。
 この時工藤さんは四十二歳、忠さんは四十五歳、そして実藏は五十七歳だった。
     ◇
 それからのことを松さんは、次のように話した。
「けどね、実藏さんの浮気はそれからも直らないんですよね。ちょっと好きな男がいると、映画館だろうが風呂屋だろうが、おかまいなしに尻を出してねだるんですよ。そして、そのあと工藤さんが怪我をした尻の後仕末をするんです。実藏さんのような人は、いったい如何なる星のもとに生れたのですかね」
「それよりも、そんな男に一生を踏みにじ


られる工藤さんこそ、如何なる星のもとに生れたのですかね」
 私はそう言って松さんの首をかかえて口を吸った。松さんは子犬のような声を出して私に甘えながら唾液を飲みこんだ。
 私はそれから、改めて訊ねた。
「名寄から松さんを連れて帰ってから十八年にもなるんだが、そりゃ色々あったと思うけど、工藤さんが最後に実藏さんに会ったのは何時頃ですか」
「それはね、五年前の冬で、工藤さんが五十五歳、実藏さんが七十歳の時です。その頃私は今のように工藤さんの嫁さんみたいになっていましたので、よく知っていますよ」
 松さんはそこで一旦言葉を切り、当時を思い出すような目をして、改めて私の乳首を右手でころがし乍ら続けた。
「北海道から帰ったある人が、札幌のすすき野のバーに実藏さんによく似た人がいた


と言ったのです。工藤さんが北海道に行ったのはその日でした。
 実藏さんは北海道の大物政治家をパトロンにもち、Mというスナックのマスターをしていましたが、当時七十歳というのが嘘のように若々しかったそうです。それにウケにしては珍しいはきはきした言葉が評判になって、随分もてていたそうですよ。
 けどこの時工藤さんは札幌に二十日近くいましたが、実藏さんを連れて帰りませんでしたよ。それからですよ、工藤さんが口癖のように、俺が実藏を抱けるのは実藏がその政治家に棄てられた時だと云うようになったのは。実藏さんなんか捨ててしまえばいいのに」
 松さんは、そう云ってしまうと私の乳首をくわえて舌でころがした。私は体がぴくぴくふるえた。
 すすき野のバーのことについて、工藤さんは彼らしくこんなことを言った。


「あの時も連れて帰ろうと思えば、連れて帰られたのですが、実藏の顔や体が生き生きとして、とても楽しそうでしたし、私の祖父とほんとによく似てきて、私にとっては神様のような立派なお爺さんにみえたのです。
 夜中過ぎ私のいる家に帰って来ると、悪いのは俺の尻だ、それをおまえは許してくれて、俺の為に一生を棒にふってしまって、ほんとにすまんと云ってぼろぼろ涙を流して泣くんです。でも私は実藏さんに何もしてあげてないんです。ただ好きだから二十年間も追いまわしただけです。
 そういうと実藏は、違う違うと泣きじゃくり私に体中で甘えてくるんです。彼は七十歳になっても九十キロはありましたし、肌の色もいいし顔など布袋さんそっくりで抱き心地があんなにいいお爺さんを私は知りません。海老のようにして根元まで入れて口を吸うと、そのまま天空にかけ昇って


行くようでした。
 だから私はきつく抱きしめて何時もこう云いました。実藏の死水は俺が必ずとってやると。すると実藏は、すまない、すまないといって泣くのです」
 この時一人で北海道から帰った時のことを工藤さんはこう云った。
「二月の北海道は天も地もしばれるんですね。実藏は駅までついて来ましたよ。いくら元気だと云っても七十歳の老人です。私の体にすっぽり包みこんで東京に帰りたいと思いました。けど私は元気で暮せよとただひとこと云っただけでした。所が実藏は私のその言葉をどう受取めたのか、声をあげて泣きじゃくるのです。あの時は困りましたね。
 でもね、汽車が北海道の原野を走り始めると、雪又雪で凄いんですね。あの長万部という附近は雪が上から落ちるのでなく、下から吹き上げるんですね。それをじっと


見ていると、私と実藏の人生のような気がしてただ無性に泣けてきましたよ。何故これ程運命に逆らって生きるのかと思ったのでしょうね」
     ◇
 私は再び松さんを抱いて訊ねた。
「それから工藤さんは実藏さんに一度も会っていないのですか」
「たぶん会っていません。その後工藤さんと私は一緒に東京を離れ、この温泉場に来ました。ここに来てからしばらくして実蔵さんがMというバーを辞めたという人の噂を聞き、工藤さんはまた何度もすすき野に行きました。けど、実藏さんは既にMというバーにはいませんし、あちこちを転々としたようです。その度工藤さんはがっかり気落ちして帰ってくるのですが、一週間前ある人が実藏さんらしい人が札幌の病院に入院していると連絡をくれたのです。それで近々又札幌に出かける筈です」


 松さんはそういう風に簡単に云うのだが、工藤さんの心はもっともっと複雑だと思う。
     ◇
 それから又二、三日経って私は市民温泉に出かけた。晋三君はたっての用事があって私一人だけだった。
 何時もの湯槽に何時ものように首まで浸って私は十五、六メートル離れた場所で、機敏に動いている工藤さんの六尺ふんどし姿をじっと見ていた。時刻はやっと午後二時を過ぎたばかりだった。
 その時、例の歌声が流れてきた。
 
  ♪雪が舞うすすきの、心しばれて
   深酒に酔えないで、ただ暦をめくる
   どうして人を愛したの
   愛を捨てればらくなのに………♪
 
 工藤さんの声はここで少しかすれて、ぴ


たりと止ってしまったのだ。
 遠くから工藤さんを見ると、仁王立ちしたまま天井をじっと見ているようだった。
 工藤さんの男性的な唄声にききほれていた男達が一斉に彼を見た。私は、ああ工藤さんが泣いているのだと思った。
 私は浴槽から出て工藤さんの傍に近寄って行った。すると彼は、再び唄い出した。然し、工藤さんの声からはさき程のパンチがすっかり消えている。
 
  ♪あなた、あなた、あなただけ、
   思いで信じて、さすらえば、
   幸せに、幸せに、死んで行けますか♪
 私は工藤さんのそばに近寄って、声をかけた。
「工藤さんの唄は、いつきいてもいいですね。特に今日の声は実感がこもっています」


 すると彼は例の両足をふんばって腰をさげ、今度は馬尻一杯にくんだ水をタイルの上にざっと流した。
 何時もはきっちり締めこんでいる六尺ふんどしが少しゆるんでいて、ふんばった右足のももにはね上げられたような格好で型のいい亀頭が半分だけ見えた。それを指摘しようとした一瞬前に、工藤さんの声がした。
「実藏は札幌で死にました」
 今までの会話のうちで一番悲しい声だった。私は何にも云えずにふらふら揺れ乍ら、じっと工藤さんの体をみつめていた。
              (了)
 
       放浪歌 目次へ