サンフランシスコのダウンタウンから、私はそのバスがカストロストリート行きであることを確めて、バスに飛び乗った。私はどこの街でも、何の気なしとか、ふと思いついて等の形容がそのままあてはまるような衝動的な行動をとるのだが、この時は珍らしくちゃんとした目的を持っていた。
運転手は、雲つくような黒人の大男だった。彼は白い歯をむき出しにして、驚くような早口で私に何かを問いかけた。
全神経を耳に集中して大男の言葉をききとろうとする私の耳に、彼の言葉は「シニア・シチズン」ときこえた。それだけでは語学力の乏しい私には何のことかさっぱり分らない。
乗客の視線が一斉に私に注がれているのが、実際には見なくても私の左頬に痛い程感じられた。私一人の為に停車時間が長引くことを思うと、私はいたたまれなくなってバスの料金箱の上に書いてある六十セントを財布から取り出し、料金箱に入れて一つだけ空いている席に腰掛けようと思い、右足を一歩だけ前に進めた。
すると、大男がはっきりした声を出した。
「アーユー、シニア、シチズン」
私は、何だかひどくうるさくなってぷつりと答えた。
「イエス………」
すると大男が両手をひろげて何か小声でいい、バスの乗客が一斉に笑い出した。
私の言葉がひどくぎこちなかったからかと一瞬思ったが、どうやら黒人運転手が米国人特有のジョークをとばした故のようだった。
私は、このような雰囲気が生理的に嫌だった。外国を度々旅行する私にとって、オーストラリアや欧州とはその趣を全く異にする、アメリカ人の解放的な性格が鼻につき、穴があれば入りたい程恥しかった。彼等は、決して言葉の分らない私を軽蔑して笑っているのではないことは十分理解出来るのだが、あまりにざっくばらんに行動されると悲しくなる。
私がやっと一つだけ空いた席に腰掛けると、バスはすぐ動き出した。私のすぐ隣に座っている男が、手帳の上にボールペンで「シニア・シチズン」と書いてみせたあと、小さな声で説明した。
「黒人が喋った言葉の意味は、あなたが六十歳以上なら十セント安くして、五十セントになりますと言ったのです」
完全な日本語で、顔を見なければとてもアメリカ人とは思えない。私は、その人の顔も見ずに、素直に頭をさげた。
「ああ、そうですか。それで、シニア・シチズンという言葉もうなずけますね」
私の左側とその人の右側が、必要以上に接触している。そう感じた瞬間、私が黒人運転手から離れて空席に歩みよった時、私の左手を強く握って自分の傍の席に坐らせてくれたことに気付いたのだ。私は、今度は彼の顔を見てからもう一度頭をさげた。
「ほんとうにありがとうございました」
それから静かに顔をあげてから言った。
「凄くきれいな日本語ですね。いったい何所で勉強なさいましたか」
彼は、それには答えず少しだけ笑ったようだった。私は、改めて彼の顔を見た。
中高で丸い顔だった。白髪を短かめに刈りあげ、鼻下に美しい髭を貯えていた。それはまぎれもない米国紳士の顔だった。坐っているので身長はよく分らないが、米国人にしては小さい方で、せいぜいあって百七十p位だろうと思った。然し、その分だけでっぷり肥っており、体重は八十二、三キロは充分ありそうだった。彼の体の右半分に接した私の左側に、直接彼の体温が感じられた。如何にもその筋肉が固そうに感じられたし、体温も私より高そうだった。年の頃は六十四、五歳にみえた。
彼は、アメリカ人があまり好きでない私にとっても、よだれの出そうな理想の男だった。否、私の最も好きなタイプだった。私は時々、彼の端正な顔を横目で見ながら彼の体温を吸いとっていた。
「所で、貴方はどこまで行きますか」
その人は、一層私に接近して訊ねた。
きれいに刈込んだ口髭の下に部厚い唇があり、話す度に唇が微妙に動いて、口の中の赤い粘膜が見えた。私はその魅力的な口に吸いつきたいと思いながら、ふるえる声で答えた。
「どこと云ってあてはないのですよ。ダウンタウンのバスストップに立っているとこのバスが来たので、ただ飛び乗っただけです」
私は、このバスがカストロストリートに行くことを知って乗ってい乍ら、嘘を言った。
「そうですか、あてもなく乗ったのですか」
彼はそう云うと、小さく口をあけたまま私の体にいっそう接近して、右手を私の膝の上に置いた。肉付きのよい白い手の甲に長い毛が生えていた。私は何故か警戒するような目で周囲を見た。いくら旅の恥はかき捨てとは言っても、男同士が昼日中バスの中でこんなに接近していいものだろうかと思った。
然し、二人が腰掛けている席は運転手のすぐうしろにあり、しかも前方を向いているので私達のうしろからは見えない仕組みになっていた。
私はやや安心して、膝の上にある彼の手を握った。すると彼は逆にその手をとって、それがごく当り前のように自分の股間の上に引っ張ったのだ。私の手は彼の誘導に逆らうことなくずるずると引っ張られて、彼の固くなった股間の上からまるで蓋でもするようにかぶさったまま、彼の男性を意識して心臓がどきどきした。
「あなたを一目見た時から、あなたが男好きの人だということが分りましたよ」
彼はそう言って私の顔を見乍ら、部厚い舌で上下の唇を舐めた。如何にも厚くて真赤な舌が横にひろがった大きめの唇を舐めるのを見ていると、彼の性器を見ているような気がした。
私はぷつりと訊ねた。
「この私が、そんなに男に飢えていたように見えましたか」
「見えましたよ、だからすぐ分りました」
彼は楽しそうにそう言い乍ら、私の左の手の平に自分の性器でこつこつとノックした。
「このバスが、カストロ行きということを知って乗ったのでしょう」
私は、黙っていた。
「ええ?ほんとに知らないで乗ったのですか。まあいいや、そんなこと………」
彼の魅力的な唇が、私のすぐ目の前で拡がったり横長くなったりした。
「このバスの終点が、カストロストリートといって、世界でも有名な場所なんですよ」
私は、日本のこの道の本で、そのことは可成り知ってはいたが、実際にそこに行くのは初めてだった。
「そこは、男同士の同性愛の街なんです」
私は、思わず周囲を見廻した。それは、その言葉がこんな公けのバスの中での話題として、甚だ似つかわしくないものだったからである。私達のすぐうしろには七十歳位の老女がこっくりこっくりと居眠りをしていたし、そのもう一つうしろでは、まだ二十歳をいくらも出ていないと思われる黒人の夫婦が、何がおかしいのかお互いに顔を見つめ合ってくすくす笑っている。
「私も、勿論同性愛者です」
彼は、かなり大きな声ではっきりとそう云った。
彼は、この種の話をするのにそれが日本語である以上、誰にも分りはしないという計算の上で自信を持って発言しているようだった。そのことは私もよく分っていたが、同性愛とか男同士等という日本語が彼の口から飛出すたび、私は周囲をそっと見た。
「私の降りる所はカストロストリートのもう一つ先の住宅街なんですが、今日は私がカストロストリートを案内してあげます」
彼は、サンフランシスコのメインストリートであるマックスロードの街を車窓ごしに見乍ら、さり気なく言った。
私は彼の股間の上に手をかぶせたまま、日本よりサンフランシスコに来て、然も初めてのバスに乗り、こんな素晴らしい男に出会って誘われていることが夢を見ているような気がした。
偶然にしてはあまり出来すぎていると警戒しながらも、人間の生活の中には時として想像もしないような幸運が舞いこむこともあるのだと思った。然も、その相手は私の最も好きな年配の肥満体で、その赤味をおびた中高の健康そのものの顔、それだけでも充分幸福であるのに、私の左手の平をズボンの中からこつこつとノックする力強い感触は、私をこの上なく有頂天にしたのである。
「実は私は、その住宅街で日本人のおとうさんと一緒に暮しているんですよ」
彼はそう言って、椅子に坐り直した。ビニール張りの椅子が大袈娑にぎしぎしと音をたてた。その拍子に私の手が彼の股間から離れて腹にあたった。ぱんぱんに張って恐しい程せり出した腹の感触が、私の左手にもろに伝わって私は思わず、あっと小声で呻った。
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