ぱれっとのママさんがPEAC BOATに参加
2002・5・3〜2002・8・14
その間のFAX等で送られてくる旅行記をお留守番のマスターがセッセせっせと書いて行きます。ご期待ください。男はつらいよトホホ。


5・3(金)多治見市小泉駅出発→
5・3(金
)神戸港出航→
5・6(月)上海(中国)入港 
5・7(火)
上海出航→
5・11(土)
ダナン(ベトナム)入港→
5・12(日)ダナン出航 
5・15(水)シンガポール入・出航→
5・21(火)
マーレ(モルディブ)入・出航→ 
5・29(水)
サファガ(エジプト)入港→
5・30(木)
サファガ出航→
5・31(金)
スエズ運河通過→
5・31(金)
ポートサイド(エジプト)入港→
6・1(土)
ポートサイト出航
6・3(月)
ピレウス(ギリシャ)入・出航→
6・5(水)ドブロプニク(クロアチア)入港→
6・6(木)
ドブロプニク出航→
6・8(土)トリポリ(リビア)入・出航→
6・14(金)ビルパオ(スペイン)入・出航→
6・17(月)
ロンドン(イギリス)入港→
6・18(火)
ロンドン出航→
6・19(水)
アムステルダム(オランダ)入港→
6・20(木)
アムステルダム出航→
6・22(土)
オスロ(ノルウェー)入・出航→
6・28(金)
ベルファスト(北アイルランド)入港→
6・29(土)ベルファスト出航→
7・3(水)ポンタデルガータ(ポルトガル)入・出航→
7・11(木)
ハバナ(キューバ)入港→
7・12(金)
ハバナ出航→
7・15(月)
パナマ運河通過→
7・18(木)
アカフトラ(エルサルバドル)入港→
7・19(金)
アカフトラ出航→
7・21(日)
アカプルコ(メキシコ)入港→
7・22(月)
アカプルコ出航→
7・29(月)
バンクーバ(カナダ)入港→
7・30(火
)バンクーバ出航→
8・8(木)ペトロバブロフスク・カムチャツキ(ロシア)入港→
8・9(金)
ペトロバブロフスク出航→
8・13(火)
東京帰港→
8・14(水)
神戸港帰港(14:00)

●5月3日(金) 天候(はれ)
 いろんな想いをむねに抱き、いよいよピースボートの旅に出発。

5・3JR太多線(小泉駅)12:05分発にて
神戸港で待つオリビア号に向け出発。

何処へ行くにも帽子と下駄履きルックなのだ〜。

・ママさん・手を振って(いてきまぁ〜す。)

・見送るマスターは、一瞬(今夜の晩御飯はどうなるの?)
(そらーマスターも調理師だから飯ぐらいはつくれるけど)
 見送ったあと、軽トラを走らせながら、ぶつぶつ、ハァー、
 とため息つく、まぁ〜しょがねーかと、あきらめるマスターでした。

●ピースボート旅行記(はじめに)

ピースボート旅行記    2002・5・3〜8・13
                           安藤 光子
プロローグ   4・29

4日後に 世界旅行をひかえているのにこの余裕!それとも事の一大事さが
解っていないのかもしれない。
104日間って一体全体どのくらいシャンプーを使うんだろう・・・
他人どうし 狭い部屋で3ヶ月余生活するってどんなことだろう・・
もうすぐ我が家に咲くラベンダーの花は 見られないなー・・・
今、白い花を付けているラズベリーの実も食べられないんだな・・・r 
などと ため息をついたりで 準備がはかどらないのだ。

 
昨年暮れ 主人は34年勤めた会社を早期退職をした。結婚と同時に始めた喫茶店を、いわゆる二束のわらじで切り盛りしてきた。常ずね「お父さんが会社を辞めたら私を三ヶ月か六ヶ月自由にさせて!」と訴えてきた。
タウミングよく 知り合いの旅行社が 一枚のパンフレットを持ってきた。
「父さん、三ヶ月の留学のかわりにこれに行かせて!」
「しょうがないやつだな・・」と言いながら顔が笑ってる。
「エエッほんとにいいの!?気の変わらないうちに証文かいてよ!。」
ピースボート世界一周98万円という新聞の切抜きを店の厨房に貼って何年経つのだろう。油煙にまみれセピア色になっていた。
行けっこない・・と思っていたから、いざ今 現実となっているにもかかわらず 感激と程遠い心境だ。
多目的スペースを持つ私の店 ぱれっとでは 音楽会、展覧会、フリーマーケットなどの
企画や 音楽や人形教室の顔も持っている。 その上、パン ケーキ クッキーなども手作業で これらのことをすべて主人に引き継ぐことに この4ヶ月エネルギーを費やしてきた。 昨日もお客さんの注文を作りながら突然、「あれは持ったか? これは持ったか?」と言い出した。「持った・・」と言うと
「お前の出発が近つくとだんだんおれの機嫌が悪くなってくる・・・」と言い出した。 出かける私の決心より送り出す主人の「決心」 「勇気」 のほうがどんなにすごいことなのか・・・
退職した主人は 再雇用の道を断りぱれっとの梃入れをする選択した。
この機会に彼が店の舵を執ってくれることを願っている。
「しばらくは、母さんと ベティーとさくら (我が家の犬たち)の世話やらで ハンドルの遊びのない生活が続くから
明日、天気もよさそうだから開田高原に行ってきたら?」と言うと
「もし、遠出して事故でもしたら お前の旅行ができなくなる・・行きたいけど俺は行かん!」
ああ・・本当に感謝、感謝、感謝 
いいを旅をしてきます。

5月2日 

もうすでに オリビア号は東京晴海ふ頭を出航
しているのに 私はまだ ぱれっとの仕事をして こうして時間を縫ってパソコンをしている。なんだか変な感じだ。相変わらず主人は「あれ持ったか?これ持ったか?」をくりかえしている。
数人の友人が私の出発を心配して顔をみせてくれた。中でも自然食のふりかけを何個か持ってきてくれた やさしさはとてもうれしい。 
船は今どの当たりかしら・・・20時30分 名古屋の近くかな?

5月3日

出発の時間が近づいてきた。
今朝、義父の墓掃除にでかけた。
途中の小学校の ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)の大木が雪のように
真っ白の花をつけていた。なんじゃもんじゃの木は 東農地方
のみ生息する不思議な木で 5月晴れの朝の風に気高くふわふわと揺れていた。

小泉駅まで主人が見送ってくれた。 久しぶりに見る友人が 
孫を連れて 駅にいた。 ハーフらしき赤ちゃんにみえたので
「娘さんのだんなさん なに人?」と聞くと 「アイルランド人で 今、里帰りしているのよ。旅に出るの?どこへ?アジア?」
「アジアもだけどアイルランドも行くの・・・北アイルランドだけどね。」
彼女は「???・・・」
北アイルランドってどんなところなのかしら。イメージではいつも曇天、寒い、紛争が絶えない所・・・未知の世界にやっと 気持ちが動き出した。

JR
小泉駅を発車、1分もするとぱれっとが高台に見えてくる。
主人がビデオを持って立っているのが分かった。そんな気がしていたので窓際席に座ればよかった。大アクションで手が振れたのに・・・
「行ってきます!!留守を頼みます1」

大型連休始まりのわりに新幹線やホーム等は空いていて 順調に神戸 三宮に着いた。  ポートライナーに乗ろうと重い荷物を提げて駅構内を移動していると ワッフル売り場に長蛇の列、匂いに誘われて私も並んだ。
気温がかなり上がっていて汗をぬぐいながら 花壇の淵に腰掛けてソフトクリームとワッフルをほうばった。 お・い・し・か・った!と思った瞬間 1ドル札に両替したお金、持ってきたかしら?・・・・・・1週間前にスーツケースとダンボール2ヶ が
すでに送ってある。たしかあの時、お金は手荷物にしなきゃ・・と別にしたはず・・・となると忘れてきたのかしら・・・だとしたらとんでもない!
ソフトクリームどころではない。早く集合場所のポートターミナルに急がなきゃ。 5時近くなると東京 晴海からピースボート オリビア号がゆったりと近づいてきた。想像したより船が小さい。東京組が甲板に並んで 手を振っている。あの中に両替したお金がまぎれていますように・・・
手荷物検査もなく パスポートをチェックしただけの税関を抜け オリビア号に乗船、いきなりウクライナの民族衣装の美しい女性たちに囲まれて記念撮影、
2090の私の部屋へ案内された。
中には誰もいない。 すでに東京から乗った2人の方の生活がそこにはあった。二段ベッドが二つ 真ん中にロープが張られ 靴下や下着が干してあった。
この雰囲気では 二人は若い人みたい・・・よかった!
この旅で一番気になったことは 船酔いと部屋のメンバー、近い年齢の組み合わせになると聞いていたので 向うは迷惑でも若い人たちと一緒が望みだった。
私の荷物を早く開いてお金を点検しなくては・・・

探していると 息子から電話が入った。
「父さんは 忘れ物ないか?の連発だったのに お金忘れたのよ!でも カードは持っているから心配しないでね。父さんには言わないでね。」
絶対なにかとんでもない失敗をする気がしていたが 早くも・・・
ドアが開いた。 同室になるもう一人の方がスーツケースを持って入ってきた。
自己紹介をした。庄治さんと言う神戸の方で 私より少し年が上にみえた。
お金を忘れてきたようで 荷物をひっくり返していることを告げると 貸してあげるとお金を数え始めた。今会ったばかりの方に・・・一ドル札から二十ドル札で440ドルお借りすることになった。 ありがたい、ありがたい。


東京組から乗船の二人は まだ現れない。 庄司さんは「私、三万円余分に払って下の段のベッドを使うことにしてあるのに・・・」 すでに二つの下段のベッドは使われていた。 スタッフ側は庄司さんのために下段の一つをリザーブしておくべきなのでは。 さて困った!と思っていると一人が帰ってきた。 庄治さんの三万円の件を告げるとジムにいるもう一人を呼びに行った。
帰ってくると「私たちずっと上の段でかまいません。」と言ってくれた。
やれやれ 一件落着。ありがとう。・・・と思いきや庄司さんがスーツケースが開かないと言い出した。 友人から借りたもので暗証番号は000のはずだとか。私は「今なら携帯が通じるからお友達に確認されたら?」と携帯を差し出した。船内アナウンスが 出港式が始まるから甲板にでるよう促している。めったに見られない式だ。神戸大の吹奏楽団が出演するようだ。
庄司さんに お金のお世話になっておきながら 出かけるわけにはいかない。
何度も携帯を試みたが話し中ばかり・・・夕食のタイムリミットもきた。
とにかく夕食を済まそうと庄治さんとレストランに出かけた。 すでに出航して 色とりどりのテープが岸壁にだらしなく垂れていた。
部屋へ帰り 再びスーツケースに挑戦。 若い二人が挑戦するとみごと開いた。
ああーあ、お疲れ様。  
庄司さんといい かよちゃん、さとちゃん、皆いい方達で楽しく旅ができそうだ。

夜になると二つのラウンジでウエルカムフリードリンクという飲み放題パーティがあるというので参加してみた。片方は若者向けで ディスコタイプ もう一方は ピアノやらギターやらロシアの歌やらで中年向きになっていた。
突然 船内アナウンスが入った。「ただ今、神戸の港を外海に出るところでしたが 病人が出ました。神戸にサブの船で送るため 出発が遅れております。」
旅の始まりにもう、病人が出たようだ。 それにしてもとっくに太平洋かと思いきや まだ神戸なのか・・・

5月4日

地震を絶えず感じるような、なんとも言えない振動と横揺れ うとうとで朝が来た。私のいびきでさぞかし皆、つらかったことでしょう。
甲板に出てみると、太極拳をしていた。真似てやっていたが重油の匂いがすごくて続けられない。景色はただ海海海海。空は曇天。
朝食の列に並んだ。 先ほどの重油の匂いと寝不足のせいか 吐き気がしてきた。
とうとうやってきた。船酔いが・・・
朝食も止めて 部屋で横になっているとウクライナ人のスチュワーデスが掃除に入ってきた。 船酔いになったことを告げると 水分をとらないで パンとかビスケットのようなドライなものを食べていたほうがいいことを教えてくれた。 インフォメーションで酔い止めの薬をもらって こんな事をしていちゃいけない・・・と超初級中国語講座を覗いた。

           

上海語のこんにちは(ノンホー)
ありがとう(シャシャノン)さようなら(ジャイウエイ)等などを習った。
午後からは避難訓練で 救命胴衣を持って神戸組が集まった。
気分も回復してきてやれやれだ。
昨日 病人が出航前に出て下船した方は 亡くなられていた。遺族の方の希望で 名前は伏せられた。 最高齢者の93歳の方では・・・と一時うわさになったが その方は健在であった。ミーティングの折皆で黙祷をした。
実際にはその事件で海上保安庁が出航停止命令を出し 現場検証などで
3時間 神戸港に留まったようだ。港の使用時間の問題や、 今から向かう上海では 揚子江の潮の満ちた真夜中の2時までに入港しないとオリビア号は一日入港が遅れてしまう。 関係者はさぞかし気をもんだことでしょう。
海図が リアルタイムで廊下に貼り出されているのを見ると 九州の開聞岳を過ぎた辺りからは 一直線に真横に航路が引かれ 全速力で揚子江を目指していることが分かった。  

すっかり気分の回復した私は 船長主催のウエルカムパーティーに 以前ベトナムで買ったアオザイを着て出ることにした。 船長、コック長などの紹介の後 ウクライナ人乗組員らによる音楽と歌が始まり 社交ダンス好きのおめかしした勇気ある人たちが踊り出た。 「ピースボート何回目?」が合言葉になるほどで 3回目、7回目と生き生きと答える中年組はとにかく元気である。  
 
5月5日 

朱成山さん(歴史学者 大学教授)の「南京大虐殺が残したもの」というテーマのシンポジュウムに出席した。戦争が残したこと 日本人が中国にしたこと
を若者と共に考える、ピースボートに乗っているんだなー・・・
これからどうしたらいいのか! 
・日中の子供の教科書を作れないか?
・日本は中国に対して 正式に国として謝罪していない。国会を通じて謝罪すべき・・・と締めくくられた。となりで聞いていた若者たちが こそっと
・「私たち、もっと勉強しなきゃ・・」とつぶやいた。

船内のオリエンテーションで私はTemSpaceに入ることにした。
午後から船尾のデッキに集合というので出かけた。私 クラスの人は2・3人
あとは若者、寄港地ごとに ダンスやパホーマンスで

平和を訴え民族を超えて仲良くしよう!というわけだ。さてこの若者の中でなにができるのかしら・・・

夕食は すでに席が設定されていた。向かいに座った男の人はまったくしゃべらない。食べる以外は目を閉じている。こういうタイプの人も船に乗るんだ・・・ その隣の方は私の国訛り、聞けば岐阜県 大垣市から参加。奥さんを2年前に亡くされ ふさぎ込んでおられたとか、たまたまピースボートのチラシを見て 「これだ!!と思った。」といわれた。
皆 いろんな人生をかかえてこの船に乗っているんだなあ・・・


 朝、昼はバイキングで食事の内容もかなりいいのに コース料理はお粗末、寝る前なので軽くていいかもしれないけど 若者たちには気の毒すぎる。

5月6日


上海ひとめぐり
久しぶりに動かない地面、朝から非常に蒸し暑い。
バスで出かけた玉仏寺 豫園(庭園) 上海でも5月の連休で とにかく
すごい人、人、人、人 暑さと人数確認のため5列に並ばされることで閉口した。 租界といわれる旧市街に興味を持っていたのに 歩く気力もなく無駄ばかりの一日だった。 Spaceの連中は南京に出かけ65年前 日本人が犯した軌跡をたどり デッキで習ったダンスで南京の若者たちと交流しているはず、
コースの選択ミスで 自分に腹が立つ。
雨の降り出した夜、上海雑技団のショーに出かけた。 何でこうおのぼりさんのコース設定をしていたのか!  とはいえ若者たちの人間を越えた演技に感嘆の連続。

5月7日

水の都 蘇州をたずねて
またまた懲りているにもかかわらず おのぼりさん。
昨日と打って変わって寒い日、バス5台を連ねて高速道路を90キロ
よく写真で見かける斜塔、
かなり広い公園で 例の5列に並んで点呼、点呼でおちおち勝手行動も出来ない。スケッチブックをリュックに入れていても出すこともない。
あんなに点呼をしていたにもかかわらず バスに帰ってこない人があり さんざん待ってスタッフが残った。集合時間と簡単な略図でも渡せばもっと時間をうまく使えるのに・・・
食事の後は シルク工場 そしてお買い物タイム、そんな時はたっぷり時間、
水の都 蘇州らしい所が車窓から随所に見られたのに スケッチタイム、写真タイムももらえない・・・
 
同じコースをとったかよちゃんと部屋へ戻ると フリーにしていたさとちゃんがすでに帰っていた。 船に乗って数日、南京に持っていく3万羽の折鶴つくりや各講座など みんなの波に乗り切れないでいたさとちゃんがついに行動をはじめた。ガラス細工の心を持つさとちゃんが晴れやかな顔で 今日の出来事を話し出した。そこへ 「上海でホームステイ・学生とスポーツで交流」の庄治さんが帰ってきた。こちらも老夫婦にあずかった孫さんの家庭の出来事を満足げに私たちに聞かせてくれた。
昔は テレビも見ないで このように家族が「ねえねえ聞いて!」と一日の出来事を語り合ったんだ・・・と思いながらみんな興奮を聞いていた。
かよちゃんは初日に一人歩きをしたし 私だけが出遅れている。

夜8時、出航のときが来た。 甲板に出てみると みんなが勢ぞろい。2艘の船が船の前と後ろにロープで引いて オリビア号の向きを変えだした。いよいよ 上海と別れて海原へ出て行くのだ。若者が5人そばにいた。今日の上海冒険話を やっている。そこへもう一人の若者、彼は6時半の乗船時間に遅れ 油を絞られたんだそうな。 別の2人の人が出航時間に戻らないので荷物を放り出されてしまったんだとか。 船長命令は絶対で 港の使用時間の期限もあるんだろう。 ピースボートスタッフが一名降りた。彼らの今後の面倒を見るのだろう。ベトナムに追いかけてくるには お金が相当かかるはずだ。

5月8日

船内新聞が毎朝発行される。 新聞係を買って出た人たちは寝る時間を削って毎朝に備えている。一番たいへんなボランティアだ。
何と新聞の名前がパレット 否が応でも毎日自分の店のことを思い出さなければならない。 新聞に出された講座や自主企画のスケジュールをみて 自分の一日の予定を決めるわけだ。 一日中図書館にいてもいいし 映画三昧をしてもいい。 どんどん自主企画が入ってきて 本を十冊、英語のカセットもいっぱい持ってきたけれどぜんぜん触る暇もない。
食事もまずまずで 納豆もお味噌汁も毎朝用意され フルーツもサラダもヨーグルトもある。三回の食事に 午前のお茶タイム、午後のお茶タイム その上夜食まで。調子に乗って食べているととんでもないことになる。

朝食の後 船尾のデッキに出てみると オカリナの音が風に乗って流れてきた。私もハーモニカの練習をしようと持っていったので オカリナと合わせ、ヴァイオリンの方とも合わせてみた。  何にも見えないただ海があるだけ・・・
泡の尾の軌跡が長く引いているだけ・・・


お地蔵さんを書きましょう!という北九州の三宅さんのサークルをのぞき
Space
の歌の練習に出た。 CAN WE SING A SONG OF PEACE?という 英語の歌、私は口をパクパクしているだけで 若者のエネルギーと海に埋もれていた。

 

 午後は 水先案内人のアラン・ウェアさんの 「私が平和運動家になったわけ」というテーマの講義を聴いた。 ニュージーランドで幼稚園の先生をしていた方である。「コップに半分水が入っている。半分しか入っていないと思うか半分もはいっていると思うか?」といわれたのが印象的だった。      

 昼食の後、船の揺れが うとうとタイム、気持ち的には いながらにしていろいろな講師陣のお話、聞かなきゃ損!なのだが 何しろこの適当な揺れ 申し訳ない。
アランさんの後は 大沢則夫さんの「旅の予防接種」と名づけた鍼灸のつぼのお話 実際に自分ではりを使って足の三里に打つ実技をした。 爪楊枝を三本くらい重ねてつぼを刺激してもいいとか 「今夜からレストランの爪楊枝がなくなってしまいそうなので 一本づつ持ち出してください」とみんなを笑わせ、歯切れのいいトークにうとうとタイムにはならなかった。

甲板でSPACEの歌の練習のとき 「イルカだ!」という声に海を見ると 何匹かが映画のワンシーンのごとく 飛び跳ねていた。 急いでカメラを向けると幻であったかのように 海は また何でもなかったように 元の海に戻っていた。  
夕食の後は 高橋和夫さんの「国際政治の中のアフガニスタン」というテーマの講義 コース料理の夕食の際 三つとなりの席に座っておられる方、最初に見たとき びっくりした。 主人にそっくりなのだ。見るたびにそう思っていた方が 何と壇上にいた。 そうか、水先案内人だったのか・・・テレビでアフガニスタン問題を解説している方のようだ。勉強不足だった。
 
パレット新聞には 夜中に「アイドル断髪式」などと書かれてあった。
若者たちは私がたどたどしくパソコンをしているこんな時にも、いろいろイベントを作ってやっているんだ。    

5
9


朝食が終わると英会話の時間、初級、中級と朝830分から始まった。
スペイン語の講座も覗いて次はSPACEの英語の歌の練習 廊下と階段を移動に走っていると すぐに昼食、まったく忙しい。
午後は水先案内人の谷口香代さんの 自きょう術、快医学という耳慣れないお話を聞くことにした。 昨日、お手伝いを買って出て 谷口さんをインタビューして 今日の新聞の記事、「こころとからだ元気ですか?」 というキャッチの文章を私が書いた。  彼女はとても気さくで今日からの講義が楽しみだ。
気持ちがよくなることをする。ただそれだけのこと!・・・と小柄だが誰でも受け入れてくれそうな温かさを持った素敵な方。    
すっかり天候が回復して 海の色は群青色。夕焼けの空を始めてみた。 
夕食の後は「天と地」というベトナム映画を観た。 

 

510

パレット新聞はかなり色々な企画が入ってきて 老眼鏡をかけなければ判らなくなってきた。  英会話の後 谷口香代さんの快医学の講座。午後は 「ぱくぱく人形を作ろう」 というサークルに参加。 靴下をを使って ブレーメンの音楽隊の人形を作って寄港地の子供たちに劇をやってあげようというものだ。
私はロバさんを作ることになった。
いよいよ 明日はベトナム ダナンに入る   。午後は説明会。体はひとつなので自主企画の面白そうなのが 沢山あってもなかなかうまくいかない。
 初めてプールに夜になって同室の庄治さんと行った。 東シナ海の美しい海水になってから 海水プールとなったのだ。 丸くて子供のプールぐらいだが かなり深い。 日本では毎日行かねばならない状態で プール病にかかっていた私が やっと入ることができて 大満足。



511日  日本との時差2時間

ダナン ティエンサ港 AM7時着岸。 アオザイをきたベトナムの学生によるフォークダンスと(上を向いて歩こう)の大合唱で オリビア号は出迎えられた。 いよいよアンコールワット5日間のオーバーランの始まりだ。
まずは ダナン市内のホテルへチェックイン。9階の部屋は 広々してダナン市内が一望、海まで見える素敵な部屋。今夜は久しぶりに
お風呂に入れると思うとワクワクする。懐かしいベトナム料理をいただいて博物館とハン市場。 ものすごい蒸し暑さに加えてものすごい臭い・・・何も買う気になれない。 夕食はハン川に沿ったレストラン、野外でいただく料理は何の感激もなく 間の抜けた間隔で出てくるのにイライラした。   ダナン青年連盟フェステバルに参加するために若者に混じって練習していたのに間に合うのだろうか?
明日からのカンボジアを考えたら早くホテルに戻って休むべきかもしれないが どんな風にベトナムの若者たちと交流するのか 観たいほうが強くて41名の参加者のうち 4名がバスを降りた。
仮設の舞台では ピースボートスタッフと ベトナムの女性が司会、進行係をしていた。、人ごみをかきわけてSPACEのいる所につくとダンスも歌もこれからで間に合った。が、にわかに覚えた日本舞踊はすでに終わっていた。
あわてて いつも履いている下駄を 靴にはきかえて壇上に上がった。 ダンスは前の人のを見ながら何とかやれたけど 英語の歌は口をパクパクで終わった。 その後観客の方へなだれ込んで 輪になって踊った。赤いろうそくをめいめいが持ってフィナーレとなった。同室のサトちゃんを人ごみで見つけたが照れながらも パートナーとなったベトナムの女学生と楽しそうだった。  今夜は 若者たちはこのまま、海へ行ってバーベキュー、テントで寝るというハードな エキサイティングな夜を過ごすんだ。・・・

帰りはタクシーで スタッフの椎名君と帰ることになっていたのに 彼が集合場所にこない・・・ 私たちが踊っている間、彼は明日から行く カンボジアのメンバーさんが忘れた常備薬を船に取りに行ったのだった。
私も添乗員もどきを時折やるのでどのくらい椎名君たちが大変な仕事か理解できる.
いったん船を出たものが忘れ物を取りに帰るということは再入国、出国手続きをすることなのだ。 10時近くになって、やっと現れた彼の話では何年ぶりかでベトナムの友人にこの会場で 再会するようにしていたら 本当にきてくれて 彼のバイクに乗せてもらって船に 戻っていたんだそうだ。つかの間の喜びの会話はバイクの往復の背中を通して・・・と想像すると
かわいそうだ。
4
人の交流メンバーの内の1人は カンボジアへ旅する間同室となる五十嵐さん、ちょっと変わった人・・・と少し不安。
久しぶりのバスタブにつかる気分は格別、けれどすぐ水になってしまい、残念。 明日の朝 早めに起きて 暖かいお湯に入ろう・・・。

5月12日
たった70名ほどしか乗れないベトナムの飛行機。ブータンの飛行機もこんなサイズだ。
昼過ぎに 暑い、暑いシェムリアップ空港に到着。
カンボジアの女性がレイを架けてくれた。早速昼ごはんのレストランへ。バイキング、食材は思ったより豊富。所々に女性が立っている。
ハエを追うためにいるのだ。 すごいことになりそうだ。
アンコールワットは12世紀中頃に王様の墓として建立されたようだが
ジャングルの中に水がはられた堀に囲まれた様は息をのむ姿だ。   以前 日本の石工がアンコールワットに魅せられて修復工事に半生をかけてやっている姿をテレビで見たことがある。 現地ガイドも日本の技術が一番といっていた。
アンコールまでは
ホテルから車で15分ほどで到着できるが 途中の住人の家は高床式、バナナの木が茂る中にハンモックを吊るしている。夕焼けのアンコールは雨季に入っているので無理かも・・・といわれたが まあぼんやりと茜色らし空になった。 ホテルは設備もよく整っているが やはりバスタブのお湯は出ない。・・・・それにしても同室の彼女、しゃべりまくる、ヤレヤレ
 
5月13日
早朝、4時半  熱いシャワーを浴びて彼女にもお湯を入れてあげる。改めて腕時計を見るとなんと1時半、 こんな時間に水をだして・・・と好意が仇になってブツブツ言われた。
5
時に集合、アンコールワットの朝日を観るために 暗いうちに出発。5分遅れた人があり この5分が命取り 日の昇る前の濃い茜色は バスからが一番すごくアンコールへついてからは修復中の青いビニールの隙間から重い雲を掻き分けるように 太陽が出てきた。


秋分の日、春分に日にはアンコールワットの正面からみごとに日が昇るそうである。 他にも
アンコールトムとかバイヨンとかすばらしい遺跡を見て回ったが 途中の道筋に立つ人々の家は写真の被写体に申し分ないものばかりで足早に通り過ぎてしまうのが 非常に残念。!
夕日はバケン山という海抜75メートルの山に登って観るのがすばらしいといわれ かなり急勾配の岩場を登った。
上がり切ったら なんとナンと360度密林、一角にアンコールワットの5本の塔が浮かんでいた。これほど感動的な光景があろうか・・・
日の沈むのを待つ間 哲さんという初老の勉強熱心なひとは  お坊さんに話しかけたり語学を磨いていた。  前日、アンコールワットでお坊さんに話そうとしたら ガイドに「女性はお坊さんの近くに寄ってはいけないし 話しかけてもいけない」といわれていたので 哲さんからかなり離れた位置にいた。 しかし 若いお坊さん3人は私とも話そう、写真も写そうとしてくれた。  2人はタイから来たお坊さんだった。
 
6
20分が日の入りなのに山を降りてバスに集合が6時15分。 一番のおいしい時間がまた バスになる。これだからツアーはしょうがない。日が落ちだすとあの危険な岩場を降りるのに 高齢の方もいるわけだから 一番安全策をとる気持ちもわからなくはないのだが・・・
岩陰に潜むように 地雷で負傷した物乞いさんが所々にいた。
夕食は 野外レストランで カンボジアのショウを観ながらとった。 この暑さ、少しなれてきたかも・・・
「明日は 9時にホテルを出ます。」といわれ 私は「もう一度 アンコールの朝日を観たい。!」と訴えた。ほかにも3名が名乗り出た。同室の彼女には悪いけど また早朝からごそごそしまーす。


5月14日

耳元でGパンを乾かすドライヤーの騒音に悩まされまんじりともせず 朝が来た。彼女は自分のことは棚に上げる性格のようだ。 4時20分のモーニングコールの前には全部身支度をすませておこうと かなり早くから出かける用意をしていたのに間が悪く 4時にコールがあり 彼女がうるさそうに電話をとってしまった。
私はそのまま 単行本を1冊持ってロビーへ降りて ひと気のないソファーに腰を下ろした。  フロントの男性は怪訝そうに私を見ていた。
まだ暗い5時、待っていたガイドがマイクロバスと共に現れた。   ピースボートの椎名君が眠そうに見送ってくれた。
みんなの世話で疲れていて 今朝ぐらいゆっくり眠っていたかろうに・・・申し訳ない。バスの中で少し赤みを帯びて来た空は昨日より条件がよさそうで 無理を言ってよかった!!と4人で言い合った。この一瞬を捕らえるため 各国の旅人がカメラ、ビデオを手に 集まってきた。

  小鳥のさえずりと日の出 火炎樹の真っ赤な花・・・ 満足な朝を過ごして バスに乗った。   ガイドに少しチップを出そうと私が提案して 渡した。 リュックにハーモニカを忍ばせていたので おもむろに今日は別れるガイドにと(蛍の光)を吹いた。
それまでは義務的だった彼が急に笑顔になって 私の座席のそばに座り「上を向いて歩こう」はできないのか?と聞いてきた。
さぐり吹きを途中までして 「ホンとはもっとうまかったら アンコールワットの日の出を待っているとき 吹きたかった。・・・」というと 何でしなかったんだっていわれた。   

 朝の静寂より勝る演奏ができるなら・・・・
昼ごはんは日本人の経営するレストラン、昨日 堵殺したばかりのフレッシュポークのおなべ、昨日の昼はここでざるそばだった。
畳の広間に用意されていて ここはカンボジアという事実に変な錯覚を おぼえた。
午後、おまけといって水上生活者の湖、トンデイサムヘ出かけた。  雨季には琵琶湖の3倍の湖になるとか、40分ぐらいの悪路、とんでもない悪路 船もここまでは揺れないんじゃ・・・と思うほど、マッサージ機にかかったような道を進んだ。途中、蓮の花が見渡す限りという部落でフォトタイム。さらに葦のジャングルを進み船着場へ到着。モーターボートに乗り換え 魚の腐ったような臭いのする湖へ出た。 竹でできた家や家畜小屋、お店屋さんも学校も 病院、警察みなこの湖の中にあるそうだ。豚がせまっくるしそうに寝ていた。
中国、ラオス、カンボジアと
メコン川でつながっているこのトンデイサムは 魚が豊富。 禁猟時期などをもうけて保護をしているようだが 年々、ベトナムからの移民が増えているそうだ。  雨季と乾季の水位は10メートルもあって乾季にはメコン川へ逆流するのだとか。
ラホープという魚をつぶして醗酵させた味噌が この地方の名物で プノンペンあたりからの観光客はみな これを買っていくそうだ。
ホテルの朝食のとき、味噌のような、納豆のような味のものがあった。 きっとあれに違いない。
マッサージ機の道を引き返し 市場へ。初めて雨が降ってきた。スコールになるかと思ったが直ぐにやんだ。空港へ向かう途中、もうひとつの見所、ガジュマロの根が動物のように、オオダコのようにまるで 石の養分を吸うかのように遺跡にくらいついていた。それはそれは圧巻!!。 アンコールワットも発見されるまではこのように 傷んでいたんだ。そう思うと興味深い。

 

 シェムリアップ空港へ着いた。

待てど待てど、飛行機が来ない。 なんとベトナムからのお客さんがないから 2便欠航になったていた。くたびれ果ててホーチミンへ着き 11時ごろにレストランで食事、しかも鍋料理。先にチェックインしてくれてくれれば 希望者だけが食事にいけばいいのに・・・とはいえ
ラッキーなことに最後の夜は一人部屋。あのしゃべりっぱなしのうっとおしい彼女からしばし開放された。部屋へ入るや否や
キングサイズのベッドに埋もれた。

5月15日
ホーチミンの朝。
吐き気、下痢・・・来た!!!!
カンボジアの疲れか、昨夜のあやしげなレストランか・・・・
朝 早く起きて息子が東京、六本木で始めたベトナムカフェ チェングエンカフェの本場を覗いてみたかった。朝食もとれないほど吐き気が襲っていたが 集合時間もきて しかたなくタオルで口をおさえて バスに乗った。
案の定、バスの中で吐いてしまった。でもちょっとすっきり。 空港には別のグループ、アンドゥーら、若者8名でサバイバル旅行、救援物資のゆくえを尋ねていた。私たちが観光をしている時、 地雷で足をなくした人のために日本人の技術者が義足を作っている所を尋ねたりした人達もいた。
シンガポールまでの便はまた左隣に同室のおしゃべり彼女が一緒。右側には東洋人の青年。

彼女のおしゃべりをかわそうと勇気を出して しゃべりかけてみた。 

彼は37歳、香港のかた。2歳の女の子をもつ お父さん。 フルーツの仕事でベトナム、シンガポールを行き来している。 アメリカの生活も8年ほどあったようだ。 東京へは仕事で2回来たことがあり、今度の休暇で 朝鮮に行こうか日本の温泉に行こうか迷っているとか。

 私たちは船で世界を回っていて今、途中下車してカンボジアへ行って来た事を話すと、仕事、仕事でそんな大それたことはできない・・・といった。  弁解がましく 私もあなたぐらいのときは がむしゃらに子供のために働いたこと、 ピースボートは 勉強、ボランティア、もあり 世界旅行と考えたら高くはないことを 話すと解ってくれたようだった。
メールアドレスを交換した。 Justin Wongさんといった。

   

 花の町シンガポールも 暑い、暑い。 船に戻ると狭い船室にとにかく横になった。 体が怪しげだが もう一度下船して庄治さんに借りたお金をシンガポールドルに両替しなければならない。 それを再両替してレートが悪くてもUSドルにする作業がある。 シンガポールをのがすと 再両替をするチャンスがなくなるとスタッフにいわれていた。 借りているお金を早く返さなければならない。
重い体を引きずって表へ出ると、2千人もの大型客船が丁度着いていて サリーを着た人たちでごったがえしていた。 船の仲間がセントーサ島にケーブルカーで行こうとしていた。帰船リミットは10時、両替をする前に彼女たちとケーブルカーに乗った。  先ほど着いた大型船は4つのジャグジープールと大きな長方形のプールを持っていた。 何の感激もないケーブルカーで戻ってきて 両替所を探した。


部屋のカヨチャンは ベトナムの自由行動を満喫し 買い物やパラセーリングまでトライしていた。 交流コースをとったサトちゃんは
ベトナムの若者と熱い、暑いときを過ごし彼らと涙の別れをして シンガポールまで。 庄治さんはシンガポール一人歩きを楽しんでいた。 私が抜けていた5日間の内には 男装、女装パーティーなども船内で企画され皆 楽しんでいたようだ。
3人にアンコールワットのTシャツをおみやげに買ってきたらとても喜んでくれた。


5月16日   時差一時間
寝てばかりいたが 午後にフルーツパーティがあるというので 写真だけでも収めようと出掛けた。 カンボジアへ出かけた人たちに時折出会うと、一様に私の同室だった人の話をしてご苦労様でした といわれる。みんな分かっていてくれたんだ・・・  夜、KOH=TAOという打楽器のグループで 新たにシンガポールから乗船した水先案内人たちが演奏した。 いい気分で部屋へ帰ろうとしたら頭のどこから出る声?という例のカンボジアの同室だった彼女に声をかけられた。せっかくいい気分で寝ようとしていたのに・・・ 
 
5月17日
「600人がナビゲーター」という参加者紹介企画で伊藤邦明、七重ご夫妻が取り上げられた。
時折、船内で白い杖を手に女性の肩にてを当ててゆっくり歩いてみえた。ご夫婦かな? 違うかな?と思っていたので口を利いたことはなかった。カンボジアで 一緒になりやっと話す機会が。 出身地の話になり何と 私のよく知っている多治見のかたと親交があった。
そのかたが 今、アルツハイマーに病んでおられることを告げるとびっくりしてみえた。   あの足場の悪い遺跡を奥さん、ガイド、スタッフと皆の協力もありすべての行程を回られ 写真を心の目で撮って見えた。そのご夫婦が 事故で失明したこと、2年余りの闘病生活からピースボートに出会うまで、 今では8回ものベテランさんになってみえる話などを 撮られた写真をスクリーンに写しながら 話をされた。

5月18日  時差1時間
インド洋の波のせいか カンボジア風邪のせいか 体中の骨が痛い。ただベッドに横になっているだけ・・・・
講座も出ずに、食事もできなくなってきた。 友達、家族のメールだけが楽しみ・・・ 


5月19日
無理やり 起きて 自きょう術のカヨサンの講座に出かけた。 後は波のローリングをベッドの背中で感じながら 寝ているだけ・・・
ミュージックサロンでは 北アイルランド問題、アフガニスタンのカブールから戻ったスタッフの中原さんの報告会、等の企画がなされていたが パレット新聞を眺めているだけだった。 このまま 怠け者病になって行きそうで 不安が一杯。

5月20日
明日は マーレに上陸する。しっかりしなくちゃ・・・
海洋生物学者のハッサン・マニグ氏が 水先人で乗っている。明日のためにも 少しでも講座に出なくては・・・と夕方に行われた彼の講座に出席した。 モルジブのイスラム教について、エルニーニョ現象で死滅したサンゴ礁について等、 を語られた。  一方、
本船を一時離脱して パレスチナへ 行こう  としている人たちがいる。 どんな人たちが名乗りあげたのか 興味があり ミーティングに出てみたかったが 吐き気が治まらず 無理だった。

5月21日
モルジブ・マーレ港に早朝6時30分入港。 7時の入港許可を待って30分もクルクル旋回した。
アッサラーム・アレイクム (コンニチハ)ディベヒ語の挨拶。
シュークリア(アリガトウ) 家庭訪問をするからには これくらいの言葉は覚えて使おう・・・
船のタラップに 足を踏み入れたとたん 被っていたベトナムの三角帽子が 風で飛んで海にポチャン!! 
地上を歩きだすと フワフワと体が揺れる。丘揺れというやつかもしれない・・・・ こんなんで 大丈夫かしら? 一日 炎天下を歩くことは無理じゃないかしらん。・・・
イスラムのモスクも 博物館もどうでもいい。・・・    一般のお家におじゃまして 昼食をいただくことになっていて 受け入れのかたを 木陰で待っていた。 持っていた魔法瓶のお湯を飲みだすと ジワジワと体の細胞一つ一つに沁み込んでいくような気がしてきた。 なんだかこれで生き返りそうだ。 3人ずつグループを作って 受け入れのかたを待っていたが最後になっても誰も現れない・・・
残ったのは 私たち3人と インターナショナルスチューデント(I)の二人だけ。 北アイルランドとユーゴスラビアの学生だ。 FASHANとよばれる モルジブのNGOのお世話でこの企画が実現したのだが 先ほどから仕切っていた太めのおばちゃんが 私たち5人を促した。  待たせてあったタクシーに乗り さかな市場を通り いくつもの狭い路地を曲がっておばちゃんの家に着いた。
私たち3人はおばちゃんの隣に住む妹さんの家に行くことになった。  ガレージから階段を上ると リビングルームになっていた。
奥さんがようこそ!と 出てきた。テーブルには すでに昼食の用意が出来ていた。 子供たちがやってきて 自己紹介をした。9歳と
12歳の男の子、先ほどすれ違った女の子が一番下のようだ。 居候らしき人がいて 画家だといった。 メイドさんも2人、一人は小さな女の子だった。 食事は子供たちと居候と一緒に 席に着いた。奥さんは一緒に食べないのかしら?   
かさごのような大きな魚、チキンの煮付け、サラダ、ピラフ、 カレーのペーストっぽいもの、チャパティー、それらを奥さんがサービスしてくれ 最後に大きなスープボールのようなところから汁っぽいものっを ひとさじかけてくれた。 まったく食欲もなく過ごしてきているので 残したら申し訳ない・・・と思いながら食べだすと 美味しい!!食べられる・・・  食事を終えて マンゴのムースを頂いた。 さて、それからが問題! このマをもたせる為に持参したハーモニカを取り出して 日の丸を吹いた。 子供たちは咳き込みながらも 吹く私のハーモニカを喜んでくれ 貸してほしいと言った。{ 私の風邪がうつるよ。}というと諦めた。 それから 多治見市の観光小雑誌を開いた。これはかなり効果的で 子供たちと居候は 食い入るように雑誌を見た。 写真で日本の家屋や、レストランの料理が 載っているところでは 質問攻め。 天然酵母の我が家のパンと薪ストーブの写真が載ったぱれっとの写真も紹介した。  そうこうしていると お父さんが昼食に帰ってきた。

奥さんはやっと一緒に席に着いた。   電話局にお勤めで 日本に来たことがある と言われた。  奥さんは私たちにネックレスのお土産を 用意してくれていた。 私は 日本の布で作った貝のアクセサリーを娘さんの分と二つ差し上げた。   

隣から太ったおばちゃんが ISの二人を連れて現れた。 奥さんは皆にクローブ,クミンなど数種類の香草のドライなものを一種類づつ口に入れるよう促した。
消化を助けるためかしら? 
モルジブに居ながら、 Cカードのライセンスを持ちながら さんご礁も見ずにいるわけだが 次に来ることがあればこの二人の姉妹の家を訪ねる楽しみが出来たと思うと 気持ちが未来につながった。 おいとまをして 太めのおばちゃんと 一緒にぶらぶら街を歩いた。 病院にも入っていった。  看護婦さんや 検査技師さんに かなり 顔がきくようだ。私は後ろから 「アッサラーム・アレイクム」だけを連発してついていった。

おばちゃんは お土産やさんに入っていって 5人に貝で出来たネックレスを買ってくれた。
タクシーで 集合場所の学校まで 送ってくれたときには 抱き合って別れを惜しんだ。  学校の一室にはFASHNの関係者たちが 大勢いて 各家庭から戻ってきた人たちが  「私の行ったところは こうだったのよ・・・」と自慢しあっていた。 中でも羨ましかったのは 海へ連れって行ってもらい モーターボートで サンゴ礁を一回りして来たかた達がいたことだった。
さて、 これからがこの企画の本題、 モルジブのNGO FASHAN の人たちと モルジブのイスラム教について、HIVについて等 医師と学校の校長先生が中心になって 話し合いが始まった。 彼らの話をピースボートスタッフが通訳し 話が進むのでもどかしく、英語を話せないなさけなさを味わった。当然質問の時間になっても ISのユーゴスラビアのソーニャ等が 中心になって 進められた。
この旅は お客さんは 殆どが日本人と 聞いていたが、 船内ではいつも英語が飛び交っていて もっと話せたら・・・と痛感するばかりだ。 ちなみに国別にすると 韓国、朝鮮、イギリス、オランダ、ロシア、カナダ、インド、イスラエル、オーストリア、アイルランド、ベネズエラ、ニュージーランド、ウクライナ、ユーゴスラビア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、ヨルダン、ノルウエー、モルジブ、クロアチア、アメリカ、キューバ、インドネシア、パレスチナ・・・。
2090の私の部屋へ戻ると、 又、今日のお互いのコースの報告会。 カヨチャンとサトちゃんはさんご礁でシュノーケル。
庄治さんは自由行動で、岩田さんという初老のおじさんと(いつもの彼ではなく)出かけていた。2人で床屋さんへ行き、買い物もし、定期船で サンゴ礁まで見てきたという。岩田さんは 「庄司さんのおかげで 楽しかった。!・・・」を連発していたそうな。

5月22日
昨日、回復したかにみえたが インド洋からアラビア海になりやはり 荒波が すごく 又、怠惰な寝てばかりの生活に戻ってしまった。
ウクライナの料理長、ニコライさんに 本場のピロシキを教わる企画があり 応募者が多くて 明日、抽選会となる。


5月23日

抽選は外れた。サトちゃんが当選。ニコライさんと記念撮影もしてもらえるそうだ。
自きょう術のかよさんが 私を彼女の部屋へ呼んでくれ マッサージをしてくれた。 和裁に使う電気のコテで 体を撫でてもらった。
なんと 気持ちのよいことか・・・ こんな使い方もあるのか・・・ かよさんの無償の好意の感謝、感謝。

5月24日
ついに船内の病院に行った。 吐き気を止める点滴をしてもらった。 薬を一週間分出すといわれたが 多分飲まないからいいというと 医師は いやな顔をした。 点滴を受けながら 看護婦さんが 「早く直すには 薬を飲むことです。 どうしても 飲みたくないといわれるならそれでもかまいませんが・・・」私は 「できるだけ 自分の自然治癒力に頼りたいので・・・生意気なことを言ってて 明日になったら お薬くださいといってくるかもしれませんが・・・」   初診料50ドルも払った。 部屋へ戻ると又、吐き気。

5月25日
点滴が効いてきたのか 波がしずかになってきたせいか 回復の兆し。
講座も徐々に出てみたくなってきた。 カジポンという水先案内人の アメリカの有名人のお墓巡りの苦労話。   17歳でソ連へ ドストエフスキー、チャイコフスキーの墓に行って以来 36歳の現在まで世界の有名人の墓を訪ねているユニークな方。
アメリカ編では 私の息子のアメリカ生活と重なって 興味深く聴いた。
夜、居酒屋 波平でにぎり寿司が 限定50食売られることになった。 庄治さんの彼がご馳走してくれることになり 出かけていった。
なめこ汁までついている。 まだお酒という気分ではないのに 彼は久保田の日本酒をヒノキの匂いのする一合枡になみなみとついでくれた。  モルジブのかつおか 日本からの冷凍か知らないが こんなに早く御寿司が食べられるとは・・・
適当なところで 2人にしなければ・・・と思い部屋へ戻った。
あれから 久保田を5杯も飲んだ庄治さんは かなり酔っ払って 帰ってきた。 不良中年ママ。


5月26日  時差1時間
今日は、お祭り、「後の祭り」と面白いネーミング。
おにぎりの早にぎり、暗算、腕相撲など 波もおだやかになったデッキは エンターテイメント達の競演。
中でも 9歳のあきと君は暗算に挑戦。真っ先に答えを出して(違っていたけど)堂々と6百人の前で 勇姿を披露していた。
夜の部には 花笠温度、炭坑節、とかきごうり まで売られて浴衣姿、ハッピ姿もあでやかに ほんとにここは 海の上なんだろうか・・・と思うほどだった。

5月27日
英会話から一日が始まった。
カジポンの講座は 面白い。今日はエジプト文明のなぞに迫って 映像を使いながらあいかわらず飽きさせない。
ノーベル平和賞を受けながら 暗殺された元イスラエル首相のラビン氏の生い立ちから 落語家桂枝雀まで、彼の持ち込んだ資料の多さに感心してしまう。 
夜には 「憂国日本愛国心は今」と題して水先案内人の後藤和夫氏(映像プロデュサー)が 4年前のNHKで制作した映像が使われた。
終わると聞き手の中から{このような映像を日本の政府が 悪用したらどうなるのか?」という話にまで及び戦争のつらさを思い出した女の人は涙混じりに発言していた。   昨夜の盆踊りの状況とは あまりに違う空気に とまどうばかり・・・・


その後、またカジポンの時間、今度は歌手の歌の歌詞を検証してみようという企画、 お墓に始まって落語、オペラと一日3回は講座を持っている。  初めて夜食を食べた。今夜のメニューはチャーハンとミネストローネ。

 

とんでもないことになった。
寝る前に メールの整理をしていたら19日から26日までが 消えてしまった。 ショックで寝られない。

5月28日
メールが消えたことで頭が一杯で 英会話にも行けない。
パソコン相談室は30日と言われた。ああーあ・・・・

 

過去に差し出したピースボートの救援物資が今現在どのように使われているのか
追跡調査をしたグループUPAの報告会があった。 私のようにカンボジアへ行ったものは他の人たちの行動が分からない。
このように ビデオやスライドを使って報告会が行われると疑似体験も出来ていいことだ。
二十歳前後の若者たちが 車椅子、パソコン 冷蔵庫 テレビ 楽器 学用品等を顔をみて届ける、いい経験をしている。
楽器など全員に渡らないものは問題を残した・・・とも言っていた。
ピースボートの救援物資を船から降ろす作業はバケツリレーのように狭いタラップに UPAのメンバーと手伝いを買ってでた人達が 暑い中を がんばっていた姿は感動的だった。

5月29日 エジプト サファガ港入港 
早朝 5時着岸。 ルクソール観光へ出かけた部屋の3人は6時に 朝ごはんのおにぎりを貰って 出かけていった。  ルクソールは魅力だけれど ベストシーズンは 1月!と聞いたことがあって いつかエジプトだけ来ることがありそうな気もして 選ばなかった。
私は9時過ぎにコンボイと称する護衛と共に 隣町まで約一時間 ハルガダにあるヒルトンプラザホテルまで。
サファガの小さなダウンタウンを抜けると 左は木一本も生えていない山並み、道路の脇は 茶色の砂、右には紅海が見え 時折 モスクのある小さな部落や 建設中のホテル、 たまに白く長い服 白いターバンを巻いたおじいさんがバスから見えた。「アラビアに来たんだ・・・」

 

 ヒルトンホテルは 海沿いの芝生とブーゲンビリアに囲まれていた。  20人ほどの小さな団体なのに ウエルカムドリンクだけでルームキーを貰う手続きに1時間も待った。  今夜の同室の方はどの人かしら?・・・カンボジアは参ったけど 今夜は一晩だけだから・・

 

 さいたま市の辻畑さんという私より少し年上の 静かに一人でソファーに腰をかけていたかただった。 全室オーシャンビューといわれていたが 部屋からは海は殆どみえない女中部屋のようなところに入った。タオルは穴も開いていて「 ほんとに ここはヒルトン?」と思う部屋だ。1時の昼ごはんまで1時間しかない・・・すぐにタクシーでダウンタウンに出かけた人もあったが 私は美しい海辺へ水着に着替えて出かけた。 お金を殆ど持ち合わせない私にとって 街へお買い物・・・は縁がない。 風は冷たく 湿気もなく日差しは強いがいい気持ち。 こちらでは春というせいか 水はかなり冷たくて長くは入っておれない。
モルジブではのがした 珊瑚礁の海が目の前にある。海の色は 七色、空の抜けるような青さを映して うっとりするばかり・・・

昼ごはんは 海辺のホテルのレストラン、マンゴのフレッシュジュースを注文した。 3ドルの価値あるとってもおいしいジュース。
チャパテーのような丸いパンもオイシーーーイ!!!!!  先ほどまでの文句が飛んでいった。  パンを何度もおかわりして 部屋の3人にも食べさせてあげようと こっそりバッグに入れた。 3時から5時までの2時間グラスボートでシュノーケリングに出かけることになった。  同室になった辻畑さんは機材一式 自分のものを持ってきていた。7ドルでシュノーケルのフィンとマスクも付いていると聞いていたのに 船着場の係りは 器具代として2ドルを別に要求してきた。 仲間の1人が 強く抗議をすると 込みで7ドルに戻った。  アラブの商人はしたたかと言われていたが こんなこともその表れなのか?

  
海に出た。七色の海へ・・・ エンジンを止めてパンを投げると美しい魚たちが寄ってきた。テーブル珊瑚、黄色、紫の珊瑚の間から寄ってきた。 シュノーケルポイントで 海に入った。 いきなり塩水を飲んでパニックをおこし 海底をを見るまでもなくボートにしがみついた。 Cカードを持つというのになさけない私、安全なガラスから覗いていると 小さなエイなども見えた。
スコットランド人の男性が一緒で 彼は2週間の休暇で ここに来ていると言った。  次のポイントは魚はいないけど 浅瀬で泳げるところへ連れて行ってあげる と言ってくれたが、 仲間の中から もう帰りたいと言い出した人があり もうひとつのポイントに行かないで帰ることになってしまった。 潜りたい人とただ魚を見たい人の目的が違う人を同じ船に乗せているからこんなことになるのだ。


スコットランド人もよく 文句を言わなかったものだ。 確かに昼食の後 すぐで小船で波に揺られてあまりいい気分ではなかったけど。
船から戻って久々のバスタブに浸かって しあわせ気分を味わっていると 添乗員から電話で部屋をチェンジすることになった。今度は5階のさんご礁が見える快適な部屋だ。  二人で夕食までベッドに横たわって話し込む。


辻畑さんは ご主人の3回忌を済ませて来ている方だった。 「3回忌までは 忙しくて自分のことを考えるゆとりがなかったけど ホッとしたらかなり落ち込んで こんなことをしていてはいけない・・・と思っていたとき 新聞でピースボートの広告をみて これだ!と思ったの。」 といわれた。船の中ですれ違う人たちと挨拶だけをかわしているのだけれど 3ヶ月の旅をしようと思う人は特別な思いで 乗っているのだ。・・・夕食は砂漠で暮らす遊牧民の ベトウインディナー 。
もうひとつのコースの シュノーケリングで小島へ出かけたグループとホテルで合流した。その中のひとりが 国際電話をかけ 料金の件でホテルとトラブルになった。 出発は30分も遅れた。 2,3ドルのことで 2台のバスの人達を待たせるのはどうか!。
コンボイの先導に従って 移動するバスの中で日は沈んでしまい 夕日の落ちるのを観ながらベリーダンスのショウと遊牧民のつくる夕食 という設定が 台無しになってしまった。   
砂の上に敷かれた織物の上に座って 輝く金星を仰ぎ、アラビア人の奏でる音楽を聴いた。 食事は口に合うものではなかったが祈りのダンスという 男性が曲にあわせて 舞う姿は 官能的だった。
暗闇の中、土でできたはと小屋を見上げると なんと星の多いこと!!!・・・


ホテルに戻って 辻畑さんに 「ダウンタウンにも行かなかったから ホテルの売店でも覗いて見ましょう。」といってトルコ石やラピスの美しい宝石やさんに入った。ハンサムな男性がひとり、 私は原石のラピスを4個買った。辻畑さんは ラピスのネックレスを選んだ。私は 持ち前の値下げ病がでて来て 人の買い物なのにエネルギー全開。 35ドルと言い張ったのを 25ドルにさせた。すると彼は 私が指輪をしていないので 結婚していないのか?と聞いた。 首のペンダントトップを見せて 指輪をリフォームしていることを告げると なんと 25ドルにするから ほっぺたに チューをしてくれというのだ。 他人の買い物のために・・・と躊躇したけど 乗りかかった船、まあ 挨拶と思って・・と左頬にチューをさせた。 するともう一方もという。 その手には乗らない!と するような気配をみせてサッと引いた。思った通り 彼は左頬のようにみせて唇にしようと企んでいた。 ヤレヤレ・・・

5
月30日

紅海に朝日が昇った。 部屋のベランダからは角度が悪くて見えない。 カメラをつかんで 飛び出した。
2度と来ることもないこの海のこの朝日・・・ 七色の海とまったくクリアーな空気の向こうから赤みの濃い太陽が昇った。・・・
辻畑さんは 「昨夜がんばってもらったから枕銭は 私が払います」といった。
また シャワーだけの生活が待っている。 出掛けにもう一度バスタブの幸せを味わって 船に朝帰りした。バスの中で 緑のない荒涼とした景色を見ていた。ひょっとしたら ホテルの  「海が見えない」・・といった女中部屋?は緑がうっそうとして とても贅沢な部屋だったのかもしれない・・・帰船リミット9時。10時出港。


部屋へ帰るとカヨチャンと早起きのサトちゃんが寝ていた。 昨日のルクソール観光から帰船したのは PM11時30分だったとか。
洗濯をしていると パソコン相談室のタカサンから電話が入った。 先日 誤ってコードが抜けてしまったからか 19日から26日までが消えてしまっている。 タカサンがずい分頑張ってくれたが どうやら 完全に消えてしまったようだ。 自分の手で書いていたら・・・と思うと 文明の力も もどかしいものだ。 早く復元して日本へ送りたい。 最初の10日分しか送らず主人はさぞかし心配しているに違いない。 寝込んでいた辺りで送ると心配が倍増しそうで イルカも見ないで頑張っていた分が消えたのは本当に悔しい・・・・
夕方に ピースボートスタッフの中原さんが NGO拒否問題の真相 と題して 今年の初めからテレビ、新聞を賑わした 田中真紀子さん、鈴木宗男さん、の辞任劇から始まった外務省の 問題等をからませて 分かりやすい中原流の解説は よかった。
若い人たちの政治に興味を持つきっかけになるのでは・・・
夜には例のカジポンの博識ぶりを 聴きに出かけた。 今夜は 西洋と日本美術究極100選。
レオナルド・ダビンチ、シーラ、ピカソ、セザンヌと話が進み ゴッホになった。 彼のゴッホに対する思い入れは格別のようで 弟のテオの話になったとき 突然どこからか「どうしてお前にそんなことが分かるんや!」と怒鳴り声がした。
どうも酔っているようだ。 カジポンも一時 絶句・・・ 皆が拍手した。カジポン頑張れ! と言っているのだ。 その後もたびたび茶々が入った。スタッフがそばへ行って何か言っているようだった。 私も数回拍手で彼にエールを送ったが 最近の直射日光のせいか 目が沁みる。気にはなったが部屋へ帰って寝ることにした。カジポン ゴメンナサイ。


明日はスエズ運河通過。 安息日となるので 今夜は夜通しライブ、映画と朝まで行事が続くらしい。いつも寝るのは私が一番、11時過ぎても不良ママの庄治さんは帰ってこない。

5
月31日

スエズ運河に朝10時頃 入った。
左岸は街や椰子の林があったりするが 右岸は荒涼とした砂漠が続いていた。 今日は安息日 すべての講座がお休み、映画だけが朝からやっている。  昼ごはんはデッキで 秋刀魚を焼いたり 焼き鳥、ハンバーガー 、フライドポテト、アイスクリーム など、スエズ運河の両岸をながめながら おいしくいただいた。 午後もずーと運河を見ていた。途中、日本の資本の入った長い長い橋が美しかった。
どこから乗り込んだのか アラブの商人がお土産を店開き。アクセサリーからパピルスまで商魂たくましく10ドルを連発していた。
6
45分 日の入り。左舷からのながめは 鉄道が運河に沿ってまっすぐ走っていた。 時折 10両ぐらいの列車が
警笛を鳴らして走り去った。 夕焼けは茜色に空を染めた。  エジプト ポートサイド入港。午後9時半


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