ぱれっとのママさんがPEAC BOATに参加
 2002・5・3〜2002・8・14
その間のFAX等で送られてくる旅行記をお留守番のマスターがセッセせっせと書いて行きます。ご期待ください。男はつらいよトホホ。

●ピースボート旅行記(6月編)いよいよ地中海に
スエズ運河通過証明書


ピースボード旅行記    2002・5・3〜8・13

                           安藤 光子


6月1日

 朝5時半に集合して カイロのピラミッドを見学に行った。
コンボイに警護されて 砂漠とナツメヤシの道を約3時間。 ピラミッドは街の中ににある・・と聞いていたが
カイロの街のすぐ脇の砂漠にあった。ギザの3大ピラミッドは 朝もやに霞んでいた。ピラミッドをバスから見ながら 更に20分ほど
走ると 一番古いピラミッド 6段の階段を持つピラミッドが現れた。 すごい暑さを想像していたが 風はさわやかで 気持ちがいい。
らくだに観光客を乗せようと 執拗に迫る。 アジアと違って濃くて 険しい顔立ちに らくだに乗りたくても引いてしまう。


ギザのピラミッドに戻る前に途中のレストランの野外で 昼食。 ハト料理は エジプト名物らしいが すぐそばで ハトたちが群れている姿を見ると 「僕のお母さんはどこ?・・」と言っているようで 食べる気にならず カメラを提げて 表の道に出た。
2階から顔を出している女の人を見つけ写真を撮った。 家族が皆出てきて、大騒ぎになった。 カメラを手にしたことが ないようで写させてあげるととても喜んで 私を花の咲いているところに連れて行った。 たいした花ではなかったのでもっと違う所がいいというと解かった!とばかりに牛小屋に案内された。 まだらのやぎまで連れてきて 干草の上でポーズをとったり すごい積極的な女の人。 
日本の布で作ったアクセサリーをプレゼントして別れた。


ギザの ピラミッドやスフィンクスは 感動ものだけれど 私の中では アンコールワットの方が勝っていた。
らくだ乗りには気をつけなさい!と言われていたが お金は要らないと執拗に迫られて つい乗ってしまった。 ほんとに写真だけとおもったら どんどん ピラミッドから遠のいていく。 サトちゃんと庄治さんに大声を出したころには 何人ものらくだ乗りが取り巻いていた。 集団でお金とかパスポートとかを奪う連中のような気がして怖くなった。 無理やり降りた。  やはり皆してお金を要求したが 「ノーマネー」で通してお金の代わりにキャンデーを渡した。怖かった・・・・彼らの憎たらしそうに私を見る目が忘れられない。 

6月2日
イスラエルに出かけた16人は入国許可がでず、それどころか 6時間もの間 拉致状態で ギリシャのアテネに強制送還された。 アテネの大使館で 抗議の記者会見をしたという。 日本から新聞のコピーが届いたようだが 人だかりがすごくって まだ 見ていない。 皆で作った千羽づるはどうなったのだろう。無謀とはいえ 日本大使館のホローは 何もなかったという。


地中海に入って 今までで いちばん美しい夕日を見た。 太陽が8時ごろ クレタ島?に沈んでからも 一時間もの間 空が焼けていた。去りがたくて 風の冷たさに風邪をぶり返すのでは・・・と恐れながらも 空の焦げるショーを見ていた。

6月3日
ギリシャのピレウス港に 12時入港。


カリメラ! (こんにちは)
下船近くに 放送が入った。イスラエル入国拒否に 抗議して アテネでイスラエル大使館まで ピースウオークをすることになり 参加したい人は 集ってという。強制送還された 後藤和夫さんらと共に アテネを デモ行進するわけだが すでに 日本から スニオン岬とポセイドン神殿に行くコースを 申し込んでいたので、おのぼりさんコースに出かけることにした。


エーゲ海の入り江は 白い帆を揚げた小船が 漂って 山際には 瀟洒な別荘やレストランが 並んでいた。  砂漠のエジプトが ハードだったか 夜中から 胃痙攣が始まり
下痢もひどい。 寒気もあり浮かぬ気分で バスに乗っていたが 美しい風景に 心が弾んできた。 乾いた空気、さわやかな風、 日差しは強いが すばらしいロケーションに
ポセイドン神殿は 半ば壊れた状態で建っていた。遺跡のすき間には 紫や赤、黄色の小花が風に揺れて 去りがたい。 

                       
現地ガイドが神話を話してくれた。  昔、エーゲという王様がいた。 クレタ島に毎年7人の男女の若者を年貢として差し出さねばならなかった。クレタ島には モンスターがいて 毎年 7人の男女を食べてしまっていた。 王様は王子にモンスターを退治に行くように命じた。 白い帆を架けて帰ってきたら 退治できたと思い、黒い帆であれば 退治できなかったと思うといった。  王子は退治したのだが 島で恋に落ちてしまい 白い帆を架けることを 忘れて帰ってきた。 岬から見ていた王様は息子がモンスターに食べられ死んでしまったと思い込み エーゲ海に身を投げて死んでしまった。 そこから エーゲ海と名づけられたのだそうな。・・・・・

  1時間もフリータイムを貰ったので レストランに入って チョコレートアイスクリームを注文した。 調子が悪いといいながらも 強烈な 日差しの下で食べる冷たいものは おいしーい。  初めてユーロの圏内に入って 4.7ユーロを 5ドル出したら 115CENT戻ってきた。 その後バスに乗り 美しい海岸線を見ながら 海辺のレストランへ。

今、さっきアイスクリームを食べたばかりで まだ 17時。なのに もう夕食。
パンは 以前イタリアで食べたと同じ味のパンで 主人が一緒だったら さぞかし 感激するだろう・・・と思った。 パンに塗るペーストは ヨーグルトに野菜が刻んだもの、なすを燻してペーストにしたギリシャ独特のもの、魚のすり身をペーストにしたものの3種。
大きな白い豆のトマトソース煮、サラダは山盛り、オリーブオイルとバルサミコで、
白ワインも サービス。   ここまでで もう私のお腹は何も入らないというのに それからがすごい!!。   たこ、いわし、いか、えびが フライになっていて レモンを絞ってめしあがれ!というわけだ。 油の臭いを嗅いだだけで 拒否反応で もったいないけど 部屋のみんなにおみやげに包んだ。 もう終わりかと思ったら 皿一杯の魚の塩焼きににんじんとじゃがいもの湯がしたものが付いていた。 誰もが悲鳴をあげていた。
デザートは 大粒のブラックチェリーといちご。 いちごも食べたことがないほど 濃厚な味。これも部屋の子に持っていこう。

途中に スーパーマーケットがバスから見えた。 こんなところに寄ってみたい・・・
港に着く前に頼んで 街の中で降りた。スーパーマーケットが見つかった。
ワインを買いたい。 TΣANTAAH という蒸留酒、 ,KARAFAKIという白ワインで 氷や 水を入れると白く濁るのだそうだ。 
部屋へ帰るとサトチャンが寝ていた。 自由行動で庄治さんやカヨチャンとアクロポリスの神殿に行ったはずなのに・・・嘔吐と悪寒、下痢、手足のしびれと最悪状態のようだ。

10時の出港の時間が来た。 デッキに出ると 自きょう術の香代さんがが ここギリシャで下船、 色とりどりのテープが 香代さんの手とみんなの手を結んでいた。 ありがとう香代さん、 アイロンで体を温めてくれたことを忘れません。・・・・
サトちゃんが気になるので部屋へ戻ろうとすると 安ちゃん!と声をかけられた。
同じ岐阜県人の田口さんらが 一杯やっていた。 仲間に入って!とビールを かって来てくれた。  ギリシャ、ピレウス港に停泊中のきれいに電飾された船を見ながら酒盛りが始まった。  真夜中に看護婦さんに来てもらって 庄治さんに付き添われて医者にかかった。 あさっては みんなの楽しみにしているドブロブニク 。良くなればいいのだが・・・

6月4日

寄港地が続く場合は お勉強はあまりない。 やっと遅れていたメールもカヨチャンのおかげで 6月2日まで 送れたので 気分も軽くなって デッキでハーモニカの練習。
海の色は 群青色。イルカを見た人もあるが 私は船に乗って一度だけ。  青い海がめを見た!と言われた時は なんで いつも寝てるか、メールをしているのか?・・・と思ったりもする。  昼食のとき、盲目のカメラマン 伊藤さんご夫妻と一緒の席となった。 
昨日のピースウオーク、抗議デモに参加されていた。 「 思いのほか 長い距離で 日差しも 強くて くたびれました。 でも、こんな経験はそうあるものではないので 参加しました」といわれた。   乗船者が70名、ギリシャのNGO 、一般のかた、強制送還された18名の メンバーは もちろんだ。 総勢120名が 行進したのだ。
日本のメディアは この一連の事件をどう取り上げているのだろう。 朝日新聞の切り抜きの FAXでは 3行くらいの記事だった。  後藤和夫さんのような メディア関係の人もグループに居たのだから 黙っているわけではないだろう。・・・一旦、入国許可をしておいて その上に 入国拒否のスタンプが パスポートに押されたということは ブラックリストに載ったということなのでは・・・この後の寄港地にはリビアもあり 彼らの入国はこれから可能なのだろうか・・・・そんなことを のんびりとスニオン岬へ行っておきながら 考えている。                             オリビア号のクルーは 殆どがウクライナ人。 明日の寄港地、クロアチアでクルーの交代になる。  なかでも 料理長のニコライさんは 今夜のフォーマルディナーが最後、70歳で退職される記念すべき夕食だ。
寄港地で求めた チャイナドレス、アオザイ、アラファト議長のスタイル、 など、今夜はカラフルだ。 私たちの部屋の掃除、ベッドメーキングをしてくれたエレーナさんも明日でお別れ、部屋のみんなで おりがみで鶴を作ってさしあげた。
私はメールの修復作業で忙しくて殆ど作ってはいないのだが・・・
情報やさんによると クロアチアで下船して彼らか3日もバスに乗って 故郷へ帰るのだとか。 ほぼ1年間 船の生活は 重労働だけれど ウクライナで働く年収の3倍になるとかで なかなかの競争率で クルーとなるのだそうだ。

 
6月5日   時差1時間

クロアチア、ドブロブニク港朝、8時入港。
双眼鏡でデッキに立ち 未知の国 クロアチアを眺めていた。赤い屋根が海岸にへばりついて 豊かな緑の山々が 重なっていた。  この懐かしさは何だろう・・・
緑の山を本当に久しぶりに見たんだ・・・ギリシャでは オリーブの木とナツメヤシはあったけれど 山を覆うほどの緑ではなかった。
あらためて 日本は 伐採、乱伐とはいえ 緑豊かな国なんだ・・・
岸が近づくと 家々がまじかになってきた。  ドバル ダン (こんにちは)
おとぎの国に ガリバーになって 入っていくのだ。

 1991年 クロアチアが独立した。 遠い国の遠い出来事だったのに 戦争の爪あとを あちらこちらで 目にするのだろうか・・・


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時半、待っていたバスに乗ってリュバチ村へ出かけた。
途中、旧市街をざっと見学。 イタリアのエトナ山を見上げる城砦の街と似た雰囲気。中世にタイムスリップした空気の中を観光客が 重なるようにすれ違った。
雲行きが怪しくなってから 40分ほど山の中に入った。 黄色の花が山全体を覆っていた。フォトタイムをとった所はセージやタイム、ローズマリーなど 野生のハーブが一杯だった。 リュバチ村についた頃は 小雨が降ってきた。 現地ガイドの説明では 80人ほどの集落で22軒、子供は8人、牛が一軒あたり2・5頭だとか。 お邪魔したお宅は すり鉢状になった地形にへばりつくように 建っていた。 形の不揃いな石をうまく積み上げていた。
民族衣装を着けたご夫婦が 出迎えてくれた。

先ほど摘んだハーブが入ったリキュールと  干したいちじくを食べながら 彼らが踊る民族舞踊を楽しんだ。 雨が少し強くなり 食事は納屋の中に用意された。
薄暗い納屋のあかりは ランプシェードが 手作りのたけみ。 乱暴に塗られた石の壁には農機具が飾られていた。 木の枝に刺したベーコンは いろりの火にあぶって暖めた。
自家製の赤ワインとベーコンのほどよい塩辛さが とても好くあった。
オイルサーデェンやソーセージ、野菜の煮付けがパンと共に出てきたが アコーデオンとギターの生演奏が メインディシュらしく ワインを水がわりに飲んでいた私は かなり酔いがまわっていた。隣の席になった大橋さんはとても陽気な人、おいしいワインと楽しい仲間、 他にはなんにもいらない・・・・

 雨も止んで 外でデザートをいただくことになった。 アップルパイの甘さがほどよかった。 帰船リミットは明日の13時、今夜はここに泊っていってもいいとも・・・と 思った。(こんなこともあろうかと 下着の替えも持っていた。)
また、彼らが演奏を始めたので 酔っ払った私は ベートーベンの歓喜の曲をハーモニカで吹いた。  ここしかないワインや ハーブの入った 蒸留酒を200KUNAで5本買った。 (150KUNAが20ドル)  うしろ髪を惹かれる思いで バスに乗った。
旧市街に戻るはずが ワインを買ったこともあり 酔っ払ってしまったこともあり
船に帰った。ベッドに横になると 地球がまわる・・・ 今日も出かけられなかったサトチャンに 何かぺらぺらしゃべっているうちに寝てしまった。気がつくと7時半。
シャトルバスの最終は8時、旧市街の公会堂で行われる民族舞踊を 見に行かなくちゃ・・・まだまだ地球はまわっていたが シャトルバスに乗った。


公会堂は 中世の雰囲気そのまま、案内された3階のボックス席から見下ろすショーは
ここでしか味わえないものだった。
外に出ると大聖堂前の広場で TEAM SPACEのグループが 観光客を前に
ダンスを披露していた。 私はとっくに挫折していたが いつの間にこんなに うまくなっていたのか・・・汗のにじんだ彼らの生き生きとした顔が 素敵だった。
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時ごろ 部屋へ戻ると居るのはサトチャンだけ。  メッセージが向かいの部屋の方から届いた。 「 安いホテルが見つかったので泊まるかもしれません」  自由行動の二人は本当に自由を楽しんでいる。 12時近くに2人が戻ってきた。泊まれそうなホテルは見つからなかったようだ。 それにしても 私が民族舞踊を見ているうち、教会で行われた バイオリン5重奏を 聴いていたという。 2人の行動力に脱帽!


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今日の13時が 帰船リミット。
回復したサトちゃんと 8時に船を出た。 市場に入った。 さくらんぼや野菜が 山盛り、切花もたくさん売られているのは 豊かさの証拠だ。サトちゃんが手招きする方へ行くと
魚が並んでいた。こんな臭い、病み上がりのサトちゃんが耐えられるのか・・・と思ったら やはり飛び出していた。  
途中、郵便局を見つけて キャッシング。 親切に職員が教えてくれた。 45分で旧市街へ着いた  オープンカフェに入ってエスプレッソコーヒーを注文した。 ハトが足元にやってきて もしやエジプトで食べたハトが原因で病気になったのでは・・・と思っているサトチャンはコーヒーの美味しさも味わう気になれないらしくそわそわしていた。。昨日、少し案内を受けていたので 知ったかぶりをして サトチャンに説明をして歩いた。9時に城壁の散歩コースが開けられる。  15KUNAが入場料、石の階段を上ると オレンジ色の屋根、屋根、屋根。 城壁の外はアドリア海。 歩きながら パティオを覗いたり、小さな畑があったり、 爆撃の跡らしきところもあったり、海をみたり家々を覗いたりの
一時間のコースは とても楽しかった。 昼すぎには船に戻らなければならないので
早めに昼ごはんにすることにした。  いかすみのリゾットとワインを注文すると
シーフードのリゾットではあったがいかすみではなかった。 出口のピレ門で おじいさんが お金入れを置いてハーモニカを吹いていた。 私はすかさずリュックから ハーモニカを出して吹き出した。 おじいさんは私のを貸して! というしぐさをしたけれど断ると無視したように自分の商売に戻った。ハーモニカは口にくわえることもあり、他人に貸せないのが たまにキズ。 アイスクリームを食べながら帰り道も歩いてしまった。
サトちゃん、よくがんばりました!!。


千田善さんというジャーナリストが ここ、ドブロブニクで下船された。
民族紛争、国際政治、旧ユーゴスラビア問題など 私には難しいテーマではあったが
できるだけ講義に出席した。 彼に五色のテープで見送られて オリビア号は 出港した。
夕方、アラビアのロレンスの映画を見た。  リビアで行くサハラ砂漠を事前にイメージするにはいい材料・・・と思ったが 2部の途中で出てしまった。
戦争の映画はもういい・・/

6月7日

アドリア海を又、地中海に戻り、イタリアのブーツの底を通ってシシリー島を右側に  船はリビアのトリポリに向けて進んでいる。 インド洋でも味あわなかった揺れが 昨夜から 続いている。 時折 ドーンという音がしたり ミシミシと捻られるような感じがして 船はま二つに千切れるのでは・・・と思うほどだ。 先回りして 船酔いの薬を飲んだせいか 何とか大丈夫だ。
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1日の新聞をみると 昨年、  パキスタンでテロリストに命を奪われたアメリカの記者、ダニエル・パール氏の子供が生れた と書かれてあった。名をアダムという。
「ダニエルが もたらした喜びや愛、慈悲の心がよみがえったようだ。 アダムの名は 
人類の誕生と文明の連続性を象徴している。 アダムの世代が寛容と理解が支配する時代の到来を見ることができるよう願っている。」 と結ばれていた。  私も昨年、 息子が結婚して、 やがて 子供ができる・・・と思うと 切に「アダムの時代」を願っている。

昼過ぎ、明日の寄港地 リビアの説明会があった。
お酒はだめ、写真撮影も制限、着るものも肌を出してはいけない、豚肉、女性のヌード写真はだめ。女性の一人歩きはしないで。・・・とにかくリビア側の言うとおりにしなければならないとのこと。
共産国ではあるが 「緑の書」を軸に政治、経済、産業が急激に推進されているという。
日本からは まだまだ未知の国だ。敬虔なイスラム教徒の国、船内のお酒はすべて 一箇所に集められて 封印してしまわなければならない。 私は ギリシャとクロアチアで
しこたま 飼い込んだ。 封印場所に持っていくのは 恥ずかしいくらいだ。
映像ディレクターの後藤和夫さんが 明日リビアで下船される。
今夜が最後の講義となる。 「ベトナムロード2400キロ」という朝日テレビ系で作られた映像を見て、裏話などをうかがった。 ベトナム戦争で アメリカが落とした地雷の事故が 後を絶たない、枯葉剤の影響か 奇形児がいまだに生れている。
昨年暮れ、ベトナムの少数民族を尋ねる旅をした。 売店の売り子さんや 刺繍屋さんで 体の不自由な方たちを見かけたが 後藤さんの作られた番組に登場する べトコンの拷問にあった人達や 地雷で足を失った人たちの困り果てた姿までは 思わなかった自分が
恥ずかしい。 そして 世界の頂点に立ったアメリカの驕った心が 9・11の事件につながり、アフガニスタンの国をめちゃくちゃにしてしまっているのだ・・・
そして かっては日本も・・・

サファガのホテルで同室になった辻畑さんに出会った。昨日、旧市街から早めに戻って出港まで港近くの裏町を散歩したとか。 「私がよほど疲れた顔を していたのでしょうか。 おばあさんに呼び止められて、上がって休んでいかないか?といわれたけど お茶をご馳走になっても 何もお返しするようなものを持っていなかったし、1人だったし・・
で 辞退してしまったの。 何がおきるか分からないから ちょっとした物をいつも持っているといいかもって思ったわ。」   港の裏町は旧市街を歩くより 面白かった!とも。
名所、旧跡の答え合わせ旅行をしていてはいけない・・・と思いつつ 帰船リミットに
遅れると 自費で次の寄港地へ追っかけていかなければならないので つい、行動力が
鈍ってしまう。


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リビアのトリポリ、シャアブ港に朝、8時入港。
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時の日の出前からデッキに出て 未知の国リビア、トリポリを見ようとしていた。
カメラを提げていたら デッキに居た人たちは 神経質に「撮ってはいけないよ!」と
言った。リビアの大学の先生が丁度来て 大丈夫!と言われたので 撮ってしまうと
「管制塔から今、みていたよ!」と周りの人に脅された。
通貨はディナール、10ドルが15ディナール ということは ベトナムのように
インフレではない、豊かな共産国ということか。
古都ダガーミスとサハラ砂漠 というコースを選んだ私は チャーター機の小さな飛行機、
BURAQと機体に大きく書かれた飛行機に乗って ダガーミスの空港へ昼少し前に
着いた。 暑いが湿気がないので さわやかな暑さ。 30分ほど マイクロバスで 本当に何にもない道、茶色の土と石ころだけの道を道路が まっすぐ伸びているだけ・・・
時折、オアシスがあるのか ナツメヤシのかたまりの ほこりっぽい緑の見える道を走った。  石膏と椰子の枝と泥と石灰で白く塗られたり、土色だったりの塀をくぐると 細い路地が曲がりくねって 迷路のようになっていた。 この集落は 水の道が20年ほど前に 変わってしまい 村人は 新しい町を造って 移ってしまった。 
今では 住む人はなく 私たちのように 訪れる者があれば、 食事を作ってもてなす 
セカンドハウスとして 使う家もあるようだ。正直、もっとノスタルジックなイメージを持っていたので、期待が大きすぎて 少しがっかり・・・
とはいえ、おじゃました家は 白い壁に赤や緑でフリーハンドで描かれた楽しい絵は 心なごむ空間で、カラフルに敷かれたキリムに 直に置かれたミネストローネ風のスープは 
とてもおいしかった。  サラダはきうりとトマトが細かくきざんでオリーブオイルと酢の味付けだったが 水のないここで どのように調理されているのか?と頭をよぎったが
エイ!ままよ!・・と食べてしまった。   メインディッシュは大きなボールにクスクスという味付けした粟のような物の上にじゃがいも、かぼちゃ、ピーマン、ズッキーニ、 そしてぶつ切りの牛肉がなかなかの味付けでおいしくいただいた。
壁がほこらになっていて ベッド風になった一角があった。 説明によると、
新婚初夜のみ二人が使い後は神聖な空間となるとのこと。 ナルホド・・・


さらに30分ほど 荒れた土の道をバスで走ると サハラ砂漠の端っこが見えてきた。
らくだ乗りもいる。 エジプトの記憶が甦ってきた。・・・
映画、シェルタリングスカイに出できそうな 黒いテントがポツンとひとつ、中では
ジャンベなどの打楽器の演奏がされていた。 周りには 黒いぼうしで顔を覆った女性たちが合わせて踊っていた。 物売りも らくだ乗りもうるさくない。
すごい規模の砂漠を想像していたので 工事現場の山盛りの砂!という砂漠の始まりは
息をのむ・・・ということはなく チャーター機とはいえ 28000円のオプションは高すぎる値段。
帰りの飛行機の乗務員も同じメンバーで 飲み物をサービスしてくれたパーサーのハンサムで暖かい雰囲気には大満足。 ・・・なのでしょうがないか・・・
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時半に 港に着くとバラとメッセージカードを配っていた。
リビアの観光にかける意気込みを感じた。そういえば ダガーミスの空港も2週間後には国際空港となってヨーロッパの観光客もは入ってくるそうだ。
時折 見かけたオアシスの水源は ナイル川か?と尋ねると グレイトリバーからで、
1991
年から 治水事業が行われているとも。 数年後に訪れたら あのたいくつな
荒れた土地も 世界の企業が 林立するかもしれない。


出港前のひととき プールのあるデッキで リビア人による歌と踊りの宴が 始まった。
丁度 夕日が落ちる時間と重なり 張りがあって哀愁を帯びた女性の歌は沈む夕日に吸い込まれていった。 踊りの輪はどんどん大きくなり 閉ざされた国リビアと融合する瞬間を見た。 日本大使館の外交官らも挨拶された。 日本を揺るがした外務省のエリートの素顔は爽やかだった。

 

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エーゲ海は 穏やかな海と思っていたが 運悪く低気圧の影響で 揺れがどんどん激しくなり 白い波頭が暴れ始めていた。 デッキに出たくても ドアが開かないほど 風が
強い。  今日、初めて自主企画の窓口に行った。
石粉粘土を10個、アクリル絵の具も持ってきていた。 下船までに 荷物を軽くしなければならない。 クロアチアを過ぎて  次の寄港地まで 5日間ある。 体の調子も
戻ったところだし 今がチャンス、 「粘土であそぼう」 というタイトルで
明日、この手にとまれ・・をすることになった。  早速、パレット新聞に載せる記事を書いた。 
明日は 何人の人が手にとまってくれるのかしら?


昼過ぎに只ならぬ様子の船内放送が入った。乗組員の一人が盲腸、虫垂炎になって 
チュニジアで病院に入れるため 回り道をすることになったようだ。
人の不幸を喜んではいけないが おまけの 国が少し見えることになった。
揺れはどんどん激しくなるのに 湾内に入ったところで ボートが来て病人を渡すのだとか。 港を使用するのは多額のお金がかかるのだろう。
チュニジアの山は海にせり出していて ユニークな造形美の岩山も見えた。
風が強いせいか 景色が、空気が澄んでいて (おまけ)を楽しんだ。
夕食時間に 病人を渡す船が来た為 ドラマチックな場面は見られなかった。


のっけから裏話 という講座に出た。 クロアチアから乗船した水先案内人、
クロアチア人、バスク人、イギリス人など ジャーナリストやNGO関係者や紛争解決専門家、という肩書きの方たち 5名とフラメンコダンサーが一人。
ダンサーのドミンゴさんのご主人 (フィッシャーさん)が その内の一人で5名のフィッシャーさんになりすまして 馴れ初めなどを語らせ 本当のご主人を当てるパロディー形式で 進められた。 我こそはフィッシャー!と大アクションで演技する姿を見ていると 日本人はこうは出来ないなー・・・と思った。
その後、さいころを転がして 一発芸、初恋の話、失敗談などの目が出てきたらそれについて 話をしなければならなかった。 なかでも、 本物のフィッシャーさんの話が面白かった。東京に会議があってグランドホテルに泊まったときのこと、 奥さんのドミンゴさんの住むスペインに電報を打ち 返事の電報を待っていた。ベルボーイが電報を持ってきたとき、彼は裸だった。 ドアの外に置いてくれるように言い、 ベルボーイはもういないと思って裸のままドアの外に出た。電報を拾い上げたとたん 大きな地震がきた。ドアも閉まってしまった。 各部屋から泊り客が飛び出してきた。 その後は想像してみてください・・・ といわれた。紙切れ一枚で前を隠したフィッシャーさんを想像して みなお腹を抱えて笑った。


低気圧は どんどん勢力を増して ついに船は横風を受けてななめになって歩くのもままならないほどで、 インド洋など比ではない。 夜になると縦にドンドンと叩きつけられる感じがした。 けれども すでにインド洋、アラビア海で洗礼を受けたようで 寝ながら、 一日中 遊園地の乗り物に乗っている気持ちくらいで済んだ。
 
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嵐は去って だんだん穏やかな海が戻ってきた。 
いよいよ 今日は 私の自主企画、石粉粘土を使って 「粘土であそぼう」
昨日、企画書を パレット新聞に持っていくと、 スタッフの日高君が親切に応対してくれ サダコラウンジのPM2時を用意してくれた。
どれだけの人が来てくれるのかしら 


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時になった。 続々と人が・・・30名を超えた。 日高君も心配げに来てくれたが       
「すごいですね・・」と目をまるくしていた。 乗船前に丁度 多治見市の茶碗祭りがあり   パンフレット作りに協賛した。30部届けられたが 船で多治見市を紹介する機会が
あるかも・・・と思い 余分にほしいと頼んだ。  そんなことで 来た方たちに 「多治見市の観光課の安藤と申します。安チャンと呼んでください。」と挨拶した。
粘土代3ドル、ほかに1ドルをアフガニスタンの地雷撤去基金に寄付をお願いしてとりあえずの 説明会を終えた。明日の2時に作業をすることにした。


夕食になった。 6人テーブルで 席替えになって5日目、いつも空席が1つあった。
夕食に来ない人は誰なのかしら・・・と思っていた。 今夜初めて席に着いたのは
スタッフの日高君だった。昼間のお礼を言って ロンドンで自由行動をとる時 知り合いの佐藤さんという住職さんを尋ねて行きたいので アフガニスタンの街頭募金の拘束時間を知りたいと言うと 詳しく調べて明日、知らせると言った。
嵐も去り日の入りの9時を待つ間に 地中海も終わりになった海水の 小さなプールに入り サウナで温まった。 穏やかになった海に落ちた太陽はすばらしかった。

●体調も戻り絶好調のママさんは本領発揮
 ピースボートのホームページに ママさん自主企画の様子が掲載された!

6月11日の船内トピックス

 「今回の旅のためにデジカメを買ったはいいけど、使い方がわからない!」。そんな人のために、クルーズ出航まもなく結成されたデジタルカメラの初心者同好会「カメカメ友の会」。
  中には「箱を開けずにそのまま持ってきた!」なんて人もいたが、今ではみんなで助け合って写真の展示を常時開催している。
  「最近は若い方が来てくれて、いろいろ指導していただいて助かってます。私もデジカメやパソコンの使い方がだんだんわかるようになりました」と参加者のひとりは嬉しそうに話してくれた。

 

 朝昼晩とお世話になっているオリビア号のレストラン。このレストランの「裏」ともいえるキッチンを見学できるという「キッチンツアー」が開催された。
  普段は入ることができず、しかも陸でも見る機会のない洋上キッチンということで、参加者は興味津々のようす。
  総料理長の伊藤さんによる、メニュー構成、食材管理、仕入れなどについての説明のあとは、日頃の素朴な疑問をぶつける質問タイム。「『料理も美味しかったし、ピースボートの船旅に参加してよかった』と皆様が下船されるのが一番嬉しいことです」と伊藤シェフ。

 キャビンが即席の「写真展会場」に。写真家のゲンさんがこれまでの寄港地で撮影してきた写真、およそ50枚が展示された「げんさん写真展」。
  ゆったりとした音楽が流れる、白を基調とした部屋。ちょっぴり「癒される」雰囲気のおかげもあってか、訪れた人たちはみんな、しばらく足を止めて写真に見入っていた。

 6月11日21時40分頃、オリビア号はジブラルタル海峡を通過。この日は日の入りが21時30分ということで、この時間でもデッキから船の左右に広がるふたつの大陸を眺めることができた。
  あっという間の地中海。これからオリビア号は大西洋に出て、まだまだ長い航海を続けていく。

 本日の夕食は「どっちの丼ディナー」。まぐろのヅケ丼か親子丼、どちらかを選ぶという趣向のもの。
  夕食前の下馬評ではまぐろのヅケ丼がダントツ一番人気だったが、いざ開けてみたら親子丼の方が数が足りなくなるほどの大人気。
  ちなみに、食後のみなさんの反応は「デザートのナタデココヨーグルトが美味しかった」が多かったとか…。

 勝つか負けるか。ひとつのボールを幾つもの真剣な眼差しが追う…。スポーツデッキでの「バスケ大会」では、16チームによる熱戦が繰り広げられた。出航から1カ月、友人同士で集まったチームのチームワークもなかなかのもの?

 自主企画「粘土で遊ぼう」。石粉粘土を使って形を作り、アクリル絵の具で色をつけるだけで、キレイな粘土細工のできあがり。集まった参加者は「久々の粘土細工で、童心に帰れそう」と、夢中で思い思いの作品を作っていた。
  1週間後、粘土が乾いたら色付けを行い、作品の展示会も企画中。また、この企画の参加費の一部は、アフガニスタンの地雷撤去支援募金にあてられることになっているとか。


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げんさんと呼ばれる若者がいる。 ちょっとクールで 私が日の出、日の入りを見にデッキに出ると 必ず三脚を立てて 立派なカメラを何台も持って遠くを見ている。
今日は、彼の部屋で 彼の作品展があった。 船底に近い彼の4人部屋は私たちの部屋より狭かった。 言葉少ないクールさとは別の何か暖かい臭いのする作品が 壁中に貼られ
パソコンの画面には 次々と作品が映し出されていた。

スペイン バスク生れの25歳、若きNGO活動家のイニゴさんが ゲルニカの叫び と題して 講演をされた。 先日我こそはフィッシャーと名乗った方の一人だ。
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日の寄港地、バスク自治州は日本にキリスト教を始めて伝えた フランシスコ・ザビエルのふるさと、また、初めて世界一周をしたマゼラン(彼は途中で死に 実際にはエウカーノという航海士が成し遂げ マゼランより 現地では有名)もバスク人である。
今現在もスペインとバスクは テロ行為など くすぶり続けている。出発前、バスク物語という本を買って読んだ。  作者の狩野美智子さんは5回あまり バスクに出かけ随筆にまとめてみえた。 私がブータンに思いを寄せて足を運ぶように 彼女をそうさせる何かが あるところなんだろう・・・
イニゴさんは フランコ将軍の独裁政治の話、バスク独特の言語の話、を熱っぽく青年の声で語った。
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日、11日のメールが届いていた。 夫からのがあった。何気に他からも来ていないか確かめていると 日高君に宛てたのが目に入った。他人に来たものを 見ることが出来るとはいえ覗いたことはなかったが 開いてみた。 タイトルは 「ウンとかスンとか言って来い」 忙しくて連絡する暇もないんだ・・・と本文に入ると なんと 「多治見のぱれっとの安藤さんに 元気で旅を続けてと竹尾さんが伝えてといってみえます」 とあるではないか?・・・なんで日高君の家族から私のことを・・・竹尾さんこそ 昨日の夕食の折、日高君に話した 「ロンドンで尋ねたいお寺を紹介してくださった方」なのだ。 そして欄外のコーナーには( またまた日高家がテレビに出演、全国放送で620、22日)
と書かれてあった。 ・・・日高家って何者????
夕食が楽しみだった。ニットの帽子を被って現れた。 彼もメールに目を通していた。
話を聴けば 日高家は今、春日井市が 実家で、同じ市に住む竹尾さんとは 親しいようだ。 テレビ出演の件は 変わった造りの家を建てていることが取り上げられるらしい。
それにしても 船に乗って45日、2日前まで挨拶以外 言葉をかわしたことがなかった
日高君とこんな風に縁ができるとは・・・・ 
  
夜はまたカジポン、「アイ・ラブ仏像」と題して 彼は熱く語った。彼の言葉で
切り崩していく独特のスタイルだ。 学校の先生が先生自身の言葉であのように
授業をすれば もっと楽しく、歴史に興味を持ったり、仏像に魅力を感じたりできるのでは・・・と思って聴いていた。 いったい彼の知識は どのように頭の中に整理されているのかしら・・・今夜はジブラルタル海峡を通過する。カジポンは 話の途中で夕日タイムをとった。

日の入りが9時半 微かにみえる山の稜線に落ちた夕日、
子供のころ、地理の時間に この海峡の名が出てきたっけ・・・そんなところに 今
自分が両岸を見ている不思議・・・ フェリーボートが横切って行った。 やがて暗くなり 灯台の灯りが右も左もはっきりとしてきた 星たちもにぎやかになってきた。 
船でしか味わえないこの景色を 体の芯が 冷えてしまうまで楽しんだ。
 
 612

総合イベント 「融合」 と銘打ったイベントが明日行われる。 アムステルダムで 現地のファッションショーとジョイントするための 下準備も兼ねているとか。
誘われた私は 着物のリフォームや 裂き織りの友人の作品などを持って出かけた。
若者たちの音楽と イベントのイメージが 何かかみ合わなくて、 娘のステージ衣装になるかと思って エジプト、 サファガのホテルのショップで買った ピカピカと光る小さな玉が全身に付いたネット状のドレス(25ドルに値切った)に替えて 出直した。
白い布をまとって それをスクリーンに見立てて映像を映したり、ストッキングを被った人たちが登場して パホーマンスしたりする。  KOH.TAOさんたちの音楽に乗って踊るベトナムのアオザイや チャイナドレス、ハワイアン、・・・私はエジプトのダンスのグループの前に出てきて どんな風に動いてもらってもいい といわれた。
とんでもないことになった。 体の線が まるっと出てくるドレスだ。 ベリーダンスが
踊れたら・・・観客を魅了できるだろうに そのセンスもない。
明日は 旅の恥は掻き捨て!だ。
 
キッチン見学に行った。
伊藤料理長自ら案内をして 厨房内を見学。 少し東北なまりのある 笑うと目と眉がハの字になる伊藤シェフは 気取りのない方。 火災を考え すべて電気で料理され 焼き色はバーナーで付けるという二重手間をかけてみえる。 どんなに揺れても料理は作らなければならない苦労もあるようだ。ウクライナのスタッフと日本人のスタッフを束ねる苦労はきっとたくさんあるだろうに 「この仕事は楽しいです」 と言い切る伊藤さんは
さわやかだった。
   
600
人がナビゲーター(若者が面白い編) に行った。
3
人の若者が登場、 1人目、ロンドンで生まれ、東京で暴走族の仲間になる。その後 探偵社を経営、現在ハワイに住む茶髪の22歳の青年。
2
人目、現在、4つの会社、2つのアメリカの会社の役員、年商7億円 公務員を退職したお父さんにクルーズ代をプレゼントして2人で乗船、今回のクルーズ前の 4月末日 離婚届を出している30歳の青年。  24歳まではシンセサイザーのミュージシャンだった。
音楽をITにするアイディアでIT産業の世界へ入った。 マイクロソフトの社長も彼のアイディアを買ってくれたとのこと。 何度も会っているそうだ。  数年前には一度破産して 追われることも体験している。 お父さんにマイクを向けると 「自分のやりたいようにやれ」と 言ってきたとのこと。

3
人目は髪の長い28歳の女性。北京大学に留学経験あり。 日本の社会は先が見えていると言い、今は香港近くの町で70人規模の会社の人事部長。 殺人依頼が壁に貼られている物騒な町の中にあるとか。 今後 どうしたいですか?という問いに 精神科医の資格を採って
人間を見つめていきたいと言った。
600人の乗船者は様々、暴走族あり、大学教授あり、役者あり、日舞の舞踊家あり・・
これから どんな人がこのコーナーに登場するのか。?????

THE成人式 なるものが開かれた。 誘われたが行かなかった。どんな成人式だったのだろう。 
夕日の時間はドンドン遅くなる。 1020分 私の楽しみな時間だ。そばで見ていた庄治さんの彼?が お酒をちょっと飲もうと誘った。 
デッキの波平に行くと 若者であふれていた。 サダコラウンジへ行くと カラオケでうるさい、 ドニエプルラウンジはどうか?と前方のバーへ移動した。  カウンターでハイネケンを飲んでいる伊藤シェフがいた。  見学のお礼を言って 
3人でおしゃべりが始まった。 とは言っても 伊藤さんとばかり話す私に愛想をつかして 庄治さんの彼は 波平に行ってしまった。


自分の仕事はささやかな店をやっていると自己紹介をした。
伊藤さんのこの旅の楽しみは 寄港地ごとに Tシャツを買っているのだとか。
「リビアではまず買えないだろう・・と思ったが タクシーで街まで行った。30軒まわってやっと見つけた。タクシーの運転手が自分の行きつけの店へ連れて行って 昼ごはんをご馳走してくれた。それがうまかったんですよ・・・」
Tシャツとタクシー代とチップで15ドル使ったと笑って話すシェフはかわいかった。
寄港地の自由時間はせいぜい 2時間という、その限られた時間の内で 彼なりに自分の楽しみ方をしているのだ。ダナンでは バイクタクシーに乗って バナナの木を切りに行って バナナをかついで来たんだとか。 あのデッキで行われたフルーツパーティーの裏話もあるのだ。 きっとバイクの後ろにまたがって バナナを担いだときのシェフはデッキのはなやかなパーティーがメイクドラマされていたに違いない。
私たちとは違うドラマチックな 「旅」をしているんだ・・・・ 

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 「融合」 本番の日。 今夜9時から行われる。
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時、リハーサル、初めて自分の出る曲を聴いた。 ベリーダンスっぽく出来るのかしら。?
ガードルもコルセットもつけない私は  ちょっとでもスリムにみせようと 庄治さんにガードルを借りてお腹を引っ込めた。
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時が来た。 お客さんはミュージックホールいっぱい。 恥ずかしさを少しでも少なくするために 持っていたネット状のスカーフをターバンのように巻きつけ 端をベールのように 前へ垂らした。 こうすると 自分は見えて人からは誰か分かりにくいのでは・・と考えた。 10時近いエンディングの エジプトの踊りが始まった。私と若者の男性(名前を聞き忘れた)が 両サイドから出た。 待ち時間 リズムに乗ろうと 体を動かし続けていたのに 前に出たら硬直状態、若者とすれ違ったら さっさと引っ込んでしまった。 なさけない・・・ 

 「融合」と名づけたイベントは チョゴリあり、英語の先生の和太鼓あり、書道家がKOH.TAOのリズムに乗って融合と書いたり フラメンコダンサーのフィッシャー夫人が踊ったりで終わった。
たった3日間でよくまとめたものだ。 打ち上げに出かける波には入らず 明日のスペイン バスクの山のトレッキングに備えるため部屋へ帰ると 3人は「小学校の学芸会を見に行った親の気持ちだった。 カメラをかまえたら 写す前に引っ込んでしまったじゃないの・・・」 先ほどまでの興奮も 何事もなかったように パソコンに向かう私に そういってからかった。

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スペイン ビルバオ港入港。AM7時。
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時半くらいから デッキに出て着岸を見ていた。緑の耕した畑か牧草地か と思われるなだらかな山が港町、サントルセの町の後ろに連なっていた。 昨夜は星もない空で トレッキングは・・・と思っていたが 気持ちのいい風と温度。  庄治さんと彼?とカヨチャンは自由行動、 サトちゃんと私は トレッキングに。
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時半、バスに乗って ビルバオの街まで30分。両替のために銀行に入った。
ヨーロッパに入った・・・と思う街並み、「バスク物語」の作者、狩野美智子さんは この街の オスタル・イバラという宿に泊まった。 以来彼女はバスクに行くたび この宿を使っている。
そんな余韻に浸る暇もなく トレッキングに向けて 牧歌的な風景の中をバスは走った。

1時間ほどで  Dimaの教会のある700メートルの登山口に着いた。トイレを済ませて 男女の山のガイドと歩き出した。 50人ほどのメンバー、気にせずに自分のペースで行こう!と
やや後ろ組みでスタート。 今までも 御嶽山の登山とかで 張り切りすぎて 失敗した教訓がある。 かわいい高山植物 デイジー、ジキタリス、エリカ、勿忘草も咲いていた。 船の中ではほとんど運動らしいこともしていないので ウオーミングアップもせずに いきなり山なので 歩き始めはかなりきつかった。 10分も歩いたところで 気分が悪くなった人が出た。 先頭のガイドについていた人だ。 もう一人も皆に迷惑をかけそうだから・・と言ってバスへ戻った。
このツアーの担当になっていた日高君が二人の面倒をみることになり バスに残った。
彼も山を楽しみにしていたに違いないのに・・・
男女のガイドの内 女性がまず、みんなのペースをみるように 先頭になればよかったのでは・・ 勢いよく 最初から男性ガイドについていって気分が悪くなったんだ。


カーベルを付けた馬や牛、羊の群れ・・・糞と小花を避けながら登っていくと
十字架のモニュメントのある943メートルのSaibigainという山の頂に着いた。
ジュースとフランスパンにトルティーヤ(スペインオムレツ)が入った食事をした。
遥かにダム湖や海岸線も見えた。 バスクの国歌ではない国歌「ゲルニカの木」を
ここで歌ってほしいと ガイドに私が頼むと、「せっかくいい天気なのに雨になってしまう」と断られた。   
      ゲルニカの木は
      祝福されている
      バスク人の間で
      あまねく愛されている
      汝の実を世界に与え
      広めよ
      われらは汝をたたえる
      聖なる清なる木よ
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世紀の吟遊詩人ホセ・マリア・イバラギレが作詞作曲した バスク人の自由と自治の 
シンボルは八行詞、八分の五拍子ソルツイゴ形式で 実にバスク的と 狩野さんの本に書かれてあったので どんな歌かと興味を持っていたが 雨が降るといわれては 無理強いはできなかった。  イバラギレは 1930年代第一次カルリスタ戦争が起き 12歳の彼は「学校に行く」と家を出てそのまま 北部の戦争に志願し、5年。 バスクの自治権が奪われたことを知ると フランスに亡命し、19482月革命で フランス政府から追放されイタリア、スイス、ドイツと放浪生活。

「学校に行く」といって家を出て13年ぶりに帰ったそうだ。 「ゲルニカの木」を作ったのは母と暮らしたつかの間の平穏な時期でその後も追放され 南米に渡り 羊飼いのまずしい生活をしていた。 望郷の念止みがたく妻子を置いて帰国、1881年に亡くなった。 

「ゲルニカの木」の(国家)は 今もバスクの人たちにとても愛され サ・デ・フンタス(議会場)の中に彼のギターと楽譜が展示されているという。

病人が出たりして 2つの山を越えるはずが 1つになり しかも道なき道をガイドは案内し 鉄縄文のさくをいくつもまたいだ。 カーベルを付けた親馬に寄り添う子馬を何頭も見たし、 ハゲワシのツガイが 羊の赤ちゃんを襲う現場も見た。
わらびが 畑のように生えていて どうしようもないと思いつつ 摘んで行った。
そうだ! 伊藤シェフにおみやげにすればいいのでは・・・と思った。
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時半、ようやくゲルニカ近くのレストランに着いた。 トルティーヤとオリーブの実、シーフードのパエリア、鶏肉のなんとかソース、ワイン、デザートはプリンとアイスクリーム。
更に私は ガイドが勧めたワイルドベリーのリキュールを注文した。

早めに食事を終え、外に出ると プラタナスの木が オブジェのようになって 緑の葉が風と光を透してとても美しかった。  皆がバスに乗ると 店主が入ってきて 写真を写した。 

日本人の客が始めてだったらしい。

ワインと山の疲れで 寝入ってしまい、なんだか分からずバスを降りて  皆の後について 公園の中を歩いた。 立派な建物の中に入った。 すり鉢状にかわいらしい席があり、
ゲルニカの有名な評議場 サ・デ・フンタス、私が是非来てみたかったところ。
ゲルニカの木と農民、漁民、鉄工所で働く人たちがモチーフになったステンドグラスで 
天井一杯に描かれていて 息をのむ美しさだった。 もちろん イバラギレの愛用の
ギターと楽譜が 飾られていた。 本物のゲルニカの樫の木は ただいま。病気にかかっていて 枝がかなり切られていた。 ビルバオの住民は種をもらう権利があり 自分で育てて 「ゲルニカの木」を伝えていくのだという。 バスク人のアイデンティティーだ。
こういう話に私は弱い・・・
フランコ将軍を支援するドイツ軍に無差別爆撃され ゲルニカの街を破壊したことに抗議してできた有名なピカソの「ゲルニカ」も本来ならゲルニカに置かれるべきところ、マドリッド美術館に あるようだ。


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時過ぎ ビルバオに戻った。私とサトちゃんは 他の数名とバスを離脱した。
さあ、これから 帰船リミットの10時までが冒険タイム。まずは旧市街まで 地下鉄で4つ目と聞いていたので 降りていった。 切符を買うのは コンピューター画面で、後ろに並んだ人のアドバイスでなんとかクリアー。 世界に誇る最新鋭の地下鉄らしい。
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つ目と聴いていたのに 3つ目で須崎さんらが降りると言い出した。 私は旧市街・・・と思ったが スペイン語しか 殆ど通じないといわれていたので やむなくサトちゃんと降りた。
階段を上がると サトちゃんがとんでもない声を出した。
目の前に 庄治さんら3人が立っていた。まるで迎えに来たかのように
サトちゃんは大喜びで 「私、カヨチャンと一緒にいたい!!!!」こんな知らない街で
あまりのタイミングの良さに 家族?のきずなを感じた。
他の人たちには悪いけど ファミリーで動くことになった。 旧市街まで橋を渡っていくと 大きな劇場があった。 開演前におめかしした婦人たちがおしゃべりをしていた。
遅い昼食で 夕食より観劇と 何時に終わるか英語で聞いたが通じない。
途中で出てもいいじゃない・・入ろうよといいながらも更に歩いた。


タベルナ を探したが BARで 飲み物を飲んでいる人ばかり。 ピースボートの人たちがチラホラうろついている広場に来て、 庄治さんらが昼食をしたところに落ち着いた。
大型犬を脇にワインやビールを飲むバスクの人達は まったく絵になる。


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時を過ぎて サトちゃんは 帰れそうだから一人で先に帰る・・・と言い出した。 カヨチャンは 別の友達も来たので まだ居たそうにみえたし 庄治さんも彼ともう少し居たいかも・・・などと思って 私はサトちゃんと先に歩き出した。  細い路地を曲がって、また 曲がって2人とも 不安になってきた。 気を利かすんじゃなかった・・・と思って歩いていると 見覚えのある劇場に出た。
橋も渡った。バスのターミナルは あるけれど さて、地上を走る電車のメトロは???
きょろきょろしていると 2階建ての大きな建物を指差し あれっぽい!とサトちゃん、
とにかく行って確かめよう!とその建物の前に、 電車の絵のマークがあった。 ヤレヤレ。 

切符を買っていると 庄治さんらが やって来た。
何だ・・みんな一緒になったんだ・・・
9
45分発が最終らしい、セーフで 帰船リミット。 パスポートも持たず、船に間に合わなかったら どうなったのだろう・・・


シャワーをすると 出港式もどうでもよくなって ベッドの中へ・・・
突然、わらびのことを思い出した。伊藤シェフ・・・サトちゃんが届けてくると言ってくれたので  手紙を書いた。
伊藤シェフ様
先日は 遅くまでおしゃべりをしまして申し訳ありませんでした。
ビルバオではTシャツは見つかりましたか?
私は 今日、バスクの山歩きをしました。 とても600食は無理と思いますので
まかない食にしてください。 2090  安藤光子 

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おくたにさんの企画、 生き続けるジョン・レノンの魂  に出た。
昨年109日ジョン・レノンの生誕61年のイベント、日本のミュージシャンが 集結。
ニューヨーク テロ直後のオノ・ヨーコさんも衛星で出演。
6月17日のロンドン上陸の前に いろいろ企画されている。 
昨日の疲れか 揺れのせいか 昼ごはんも抜いて ごろごろ寝ていた。
フランスを右舷に イギリス海峡に向かっている。 
 
イタリアへオーバーランドした人達が帰ってきた。ローマ法王にお会いできる特別の日にあったって 遠くから拝見できたとか。  空港でスーツケースに入れていたカメラ、お金、奥さんにおみやげのカメオのブローチを 盗られた方がいる。 他にも数名みえるようだ。 組織的な窃盗グループのしわざだろうか?

オランダに設置された国際政治裁判所で働くフィッシャーさん(裸でホテルの廊下に出た方)
は 哲学者、天文学者など いくつもの肩書きを 持っている。
きょうは 最後の講座になった。
「何でも聞こう」 という題で 旧ユーゴ戦犯法廷の話から オランダの売春街の話、
コーヒーショップという看板の店は マリファナなどのドラッグを吸うところだという話など 堅い肩書きのわりにとてもきさくな方だ。  船内でフラメンコダンサーの奥さんと おしどりぶりがもう見られなくなる。

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昨夜、サウナで安城市から参加の若い子が バスクの話をした。
「スペインだけの地球の歩き方」のガイドブックに、インフォメーションセンターで無料の案内をしてもらえる と書いてあったそうだ。 行ってみると アルタミラの洞窟よりやや小さい洞窟や、鍾乳洞などを 無料で案内してもらったそうだ。
どうも 世界中にこのシステムが あるらしい。  もちろん英語がわからなければどうしようもないのだが・・・高いオプショナルツアーを取らなくても お金を使わないで
楽しむ方法が あるのだ。

そういえば 今朝がた 変な夢を見た。
・・・・・2人の人がボールをパスして遊んでいた。落ちたボールを 足のヨボヨボした
おじいさんが 拾っていた。夫が「森繁さんだ・・・」と言って近づいた。
そして さも知人に声をかけるように 「あなたが 亡くなられた後、あなたを思い出したい。 何かふさわしい言葉をください。」  すると 「愛・・・愛する・・・そして許す・・・」と言われた。 夢はたいてい辻褄が合わないものだが とても鮮明で セリフも すべて 憶えていた。 映画で最近見たわけでもなく、誰かと森繁久弥さんの話を
したわけでもなかった。  なんとも不思議な夢だった。   
 
「粘土であそぼう」の時間に 来られなかった2人の方の所へ 出張授業?に出かけた。
丸い窓が2つ付いて 明るい2人部屋、 友達同士で 来ているので安気な分だけれど 他の友達も出来にくい・・・ と話された。 あんな明るい部屋ならば パソコンも楽にできるのに・・・ 2人の作業が終わったとき ようかんとお抹茶を点てていただいた。
か・ん・げ・き・・・・

今夜はサッカー、日本対チュニジア  衛星中継で ここでも見られるのだが
ときどき つながらなくて 画面が消えてしまう。
友人や家族のメールなどでも すごい盛り上がりのようだ。
船の小さなデッキでも若者たちが暑さにめげずサッカーをしている。
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歳で参加しているあきと君もボールの出し入れなど 玉のような汗をたらして頑張っている。


夕方、「ロンドン自由行動勉強会」なるものが とづけんと呼ばれる若者の企画があるというので 出かけてみた。  なんだか ぼやーとした子で「ぼくの企画に参加してくれてありがとう」と挨拶した。 地図など出して 集まった30人くらいの人達は 明日の情報がほしいので 矢つきばやに 質問した。  すると彼の返事は「僕・・・行ったことがないんです・・・」  ずっこけた!  でも、こんな企画を思いつく とづけんが かわいかった。  参加者の中に 先日の年商7億、IT産業の寵児、中島康滋君がいたので 彼に鉾先が向いた。 とづけんは 「お前はもう、座れ!」などとやじられていた。
さすが、康滋君は 留学の経験もあり、若者の行きたそうなエリアを 事もなげに しゃべりだした。 でも、私のほしい情報とは 異なっていた。

明日の訪問を予定している 龍安寺のような石庭を持つ 佐藤さんに電話をかけた。
初めて 通信室に上がっていった。 中には ウクライナのクルーが 3名、パソコンなど
所狭しと並ぶ 明るい部屋だった。 佐藤さんの連絡先を見せ 電話を掛けたいというと
まず、ソファーに座って とやさしく言ってくれた。
相手が出ると 私に受話器を差し出した。 初めて聞く佐藤さんのご主人の声だった。
お庭を修理してみえるとかで 明日の夕方は 奥さんしかいないかもしれない といわれた。 「どこの駅ですか?」というと 「APTONTOUN,ピカデリーラインです」
とあっさりと言われた。 こんな簡単な説明で本当にたどり着けるだろうか・・・
電話料は30ドル、 カードはだめかと聞くと キャッシュだ と言われた。お金を忘れてきている私にとって 30ドルは痛いが 通信室見学代と思うことにする。
語学力があれば せっかくの機会 少しおしゃべり・・・となるところだろうが
サンキュウ!と言うだけで帰ってきたなさけなさ!!!!

夜、明日はロンドン、早く寝なければ・・と思いつつ、「チベット・チベット」の映画を観た。  乗船しているKOH・TAOさんらがサントラを担当していた。

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17日  時差1時間(進める)

朝早くから テムズ川に入港の様子を見ていた。 霧のロンドンかと思ったら
上天気、風もさわやか、日差しは暑いぐらい。 跳ね橋が上がり、ジョギングの女性も
通勤の車も立ち往生、申し訳ない・・・アクロバットさながらの 船の車庫入れ?を見たりしていると 飛行機の旅行では 味わえない魅力を感じることが出来る。
潮の満ち引きまで 計算に入れなければならない。 いくつもの寄港地の着岸の様子を
見るたびに、狂いなく航海を続けていることに ただただ感服する。
 
9
時、庄治さんとサトちゃんと3人で出発。 カヨチャンはGETプログラムを採っているので
ホームステイに出かけた。 港から10分ほどの地下鉄の駅,Shouch・Quayに着いた。
ゾーン別に一日乗車券が 自販機で売られていた。 夕方 佐藤家に行こうとすると
1−4ゾーンを買わねばならなかった。 48ポンド。

 左右を確認せずに電車に乗った。

 おもむろに地図を出すと どうも反対方向に進んでいる。 一日乗り放題なんだから 地下鉄でも 地上を走っている内は 乗っていようか というわけで 4つほどの駅を楽しんだところでUターン、もう少し先にはグリニッジ駅もあったようだ。 サトちゃんは私と庄治さんの様子を見ていて 暗黙の内にナビゲーターとなった。      「後いくつめで降ります。」「乗り換えます」 とか言ってくれるので メガネを掛けないと判らない細かい字を読まなくて済み ずい分助かった。 

さすが他民族国家、 チューブと呼ばれる地下鉄の乗客は さまざま。 行き先のサインを見ていたら、ロンドンブリッジと出た。 明日、私たちはタワーブリッジを オリビア号で通過することになっている。 「岸からの様子も見てみようよ」 とまた、途中下車。 表に出ると、   レンガ造りの重々しい建物が並んでいた。 少し歩くと お化け屋敷のような劇場が見えた。 学生が先生に付き添われて 列を作っていた。 中からおばけの扮装をした人がパホーマンスをしていた。
イギリスは 世界一幽霊の多い国とかで 心霊スポットを巡るツアーもあるそうだ。
もう少し歩くと クリスマスグッズ専門店を見つけた。 中々 ロンドンブリッジに
たどり着けない。 店内に入ると ワー!わー!と3人で喚声、 カヨチャンの誕生日が 明日、18日なので テディーベアを選んだ。  お店のかたに行き方を聞いて 更に少し歩くと 運河に出た。 スターバックスで お茶タイム。


地下道に入って階段を更に上ってみたら、そこはすでに チューブの駅だった。
まだ 着岸から2時間しか経っていないのに まるでロンドンっ子のように 近道が出来たような気がして うれしくなってしまった。 
今回の旅の目的のひとつは 出発前に行った梅木房子さんの油絵展でオークションをした 協力金350ドルを アフガニスタンの子供たちに 渡すことである。(自分のお金は忘れてきているが 梅木さんのお金はしっかりと持ってきていたので すでに責任者の中原さんに渡してある)
更に 船内にて行った粘土遊びの折の協力金25ドルある。 レスタースクエアーの大道芸人たちが集まる広場で ピースボートが行うイベント SPACEのダンス、歌、KOUTAOさんたちの音楽で アフガニスタンの地雷撤去、子供たちにサッカー場を造ろう!と訴えようとしていた。 昨日の話では ロンドンは募金運動をするのに とてもうるさい制約があるとかで あくまで大道芸として行うらしい。
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時からと聞いていたが少し早く着けたので 周囲を散策。中華街がとなりにあり、遅めの昼食がラーメンにしようと3人で決めた。


客寄せの和太鼓が始まり 初めはピースボートの乗客が殆どだったが 道行く人が 少しづつ 立ち止まってくれた。 私の帽子もお金集めに借り出された。 25ドルを5回に分けて「 私もいれてるのよ!」とアピールしながら出した。 集計すると 4万円を越したそうだ。 これで私の責任も終わり ほっとして 中華料理の店に入った。


ラーメンといっても 豚肉がたっぷり付いたようなメニューで さすが庄治さんは
ほぼ日本語で 豚肉を野菜に変えさせた。 こうしてメニューにないラーメンを食べた。


ピカデリーサーカス駅まで歩いて チューブに乗ろうと歩き出した。
ナショナルギャラリーがすぐにあった。 風格ある石の建物の中に入った。
入場料は要らない。 信じられない!。 ゴッホのひまわりと セザンヌの絵は見つかったが モネは 見つけることが出来なかった。 とにかく広い・・・
かなり暑く、一区でもバスに乗りたかったけれど 一方通行で 私たちの歩く方向はバスの逆路線だった。 やっと着いたピカデリーサーカスは 都会のざわめきだけで魅力は感じられず、あわてて 地下鉄に潜った。

 
アクトンタウンに行くのに ピカデリーラインで乗り換えはない、ヒースロー空港に向かう線のせいか すごいラッシュ。 3人は離れ離れになった。 40分ぐらいで 目的のアクトンタウンに着いた。
サトちゃんと私は降りたが庄治さんが出てこない。 混雑している車両のドアが今にも閉まりそうで どきどきしながら 「庄治さーーん!」と怒鳴った。 閉まる寸前に彼女が出てきた。  なんと座れたので 居眠りをしていたそうだ。 やれやれ・・・


駅の外に出て あたりを見回した。 さて、どっちに行ったらいいのかしら・・・
とりあえず、2・3人の人に聞いたが 今年越したばかりで・・とか言われて
駅員さんのところへ行った。 親切に地図を出して 調べてくれた。 左に2ブロック、まっすぐ2ブロック、右へ2ブロックと言った。 意外と近そう・・と歩き出した。
2
ブロック右に曲がろうとしたころ 女性が一人歩いてきた。 念のためと もう一度聞くと 「私の行く方向だからついて来て」と言ってくださった。 知らないところへ
こんなにスムーズに来られるとは思わなかった。(竹尾先生の写真に寄ると イギリス風の玄関のたたずまいだった)

指をさされた家のドアには番地の55が 金の文字で標され 芝生のアプローチには
御影石のオブジェが2つあった。
佐藤とも書かれていないし、お寺の看板もないので 恐る恐る ノックをした。外人の
小さな女の子が出てきた。 どうしよう!・・・・違ったかしら・・・
後ろから 黒い袈裟をつけた佐藤さんが現れた。 奥さんに居間に案内された。


部屋の中は なんとなく日本のにおいがして 落ち着いた空間だった。 一仕事終えた安堵感でいただいたお茶のおいしかったこと。!!! 船旅をかいつまんでお話をし、竹尾さんとのご縁もお話した。  イギリスで客死した竹尾さんの息子さんの絵筆が 安置してある厨子に手を合わせた。 庭に出ると 5・6人の男女が夕食をとっていた。
庭の修理のために 日本から手伝いに来ている方たちだとか。 先ほどのかわいい女の子はまだ2歳、レナちゃんといって ハーフ、お孫さんかと思ったら 知り合いのお子さんだった。 てれながらも 案内役のレナちゃんと お目当てのお庭へ入っていった。


以前、竹尾さんの写真で見た 龍安寺さながらの土塀と 白い細かな砂利が風紋を描く中に 石が4つ5つ・・・東屋は 屋根は藁、床はオーク。 梁はA字に組まれ 釘は使われていないそうだ。 私たちがお邪魔したとき、一人のイギリス人が自己紹介だけして出て行った。 その方がこの庭をデザインした方だった。  佐藤さんのお寺は  正行寺という名の 浄土真宗の寺で 佐藤さんは以前 京都大学の教授であったが ロンドン大学の総長さんとのご縁で 三輪精舎(THREE WHEEIS)という名で2ヶ月に一度 現地の方たちも参加する会などをされ イギリスに住む日本人の駆け込み寺にもなっているようだ。 

 突然だったが 今日は船に帰らなくてもいいので 出来たら田舎っぽいところのB&Bを紹介していただけないか?というと 空いているかどうかわからないけど・・・と言いながら電話をかけてくださった。
OK
がでて 奥さんは2駅隣だからと言って 送っていただくことになった。


レナちゃんに見送られて 車に乗った。 奥さんは「しばらく行ってないから 間違えずにいけるかしら・・」と言いながら明日乗る駅、ターナム・グリーンを経由して送ってくださった。また、「泊まって頂くといいんですが 生憎ボランティアさん達が泊まっているので ごめんなさいね」と大阪出身の関西訛りで言われた。 


B&B
は とても落ち着いたお屋敷街の一角だった。   家主はピーターさん。
英国紳士で76歳と言われた。 鍵の閉め方や、バスルームの使い方 ダイニングルームにも案内して 冷蔵庫もお茶もテレビも好きに使っていいと言ってくださった。
他の泊り客もなさそうで 本当に素敵なB&Bを紹介してくださった佐藤さんご夫妻に
大感謝。

以前、ぱれっとのバイトさんで双子の姉妹がいた。 キルトの勉強がしたいといって イギリスをフリーパスとユースホステル、B&Bを使ってお金をかけない旅をした。その美恵子さんの見せてくれた写真には キルトのベッドカバーが イギリスらしく 私もいつか こんな旅をしてみたい・・・と思っていた。キルトこそ掛かっていないけれど 清潔な白いカバーを掛けたベッドなど、 思っていた通りのB&Bだった。

  お湯が沸いて アールグレイの紅茶をたっぷり飲んで 散歩に出た。
20時近いのに まだまだ明るく 公園もゆったりしていて 栃の大木が 花が終わって緑の小さな実を付けていた。  街のお店の中には すでに閉店しているところもあったが 明日の楽しみにしようと言い合った。  ピザやさんの歩道に張り出した席でビール休憩。 ピザを1皿注文して 夕食代わり、サトちゃんはもっと歩きたいと言って行ってしまった。今夜船に帰らなくてもいいという開放感にビール一杯で酔ってしまった。
探検から帰ったサトちゃんが 2軒のスーパーの場所を教えてくれたので覗いた。おいしそうないちごと クレープ状のサンドイッチ、刻んだ野菜を買って 戻っていった。


今夜は贅沢に お風呂に入れる・・・ 庄治さんが一番に入った。リビングに居たサトちゃんが 私に「お風呂の下の部屋の天井から水が落ちてくるの・・・」と言いに来た。
何で分かったの?と聞くと 猫がその部屋に入ったから 電気をつけてみたら お風呂の真上らしいと言うのだ。お風呂なのに じゅうたんが敷いてある部屋で 庄治さんは
何をしているのだろうとノックをした。 彼女いわく、 「お湯がなかなか抜けないか
ら栓を外したら一気に流れたんだけど・・・」 シャワーしかしない国では バスタブがあるとはいえ いわゆる風呂には入らないから 排水管もきっと細いんだろう。
明日の朝までに乾けばいいのだが・・・
というわけで 少し時間をおいてシャワーを使って バスタブの至福の思いはお預けとなった。

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朝、6時、お風呂の下の部屋のじゅうたんを撫でてみた。 湿り気はわずかになっていた。やれやれ・・・ ヒーターが完備されているので 乾くのも早いようだ。あんなに昨日はいいお天気だったのに、今朝は 小雨模様、庄治さんの話では 夜中に雷も鳴っていたそうだ。 買ってきた イチゴと野菜、とシリアルの朝食。 テレビをつけると トルコと日本のサッカーの試合をやっていた。画面もやはり雨だった。 日本が1対0で負けていた。ピーターさんの太った猫が家族のようにそばに居てくれた。  思わず、さくら!
さっちゃん! ベティー! べっちゃん!などと 恋しい私の愛犬の名前を呼んでいた。 

 小降りになって また散歩に出た。 チェックアウトの時間を聞いたら
ANY TIME
!といわれた。いつまで居てもいいよ!・・・なのだ。

 

古いお屋敷や商店など昼までしっかり散歩して ゆったりとした時間を楽しんだ。
13時過ぎ ピーターさんとお別れの時間が来た。

 彼は「家内は体の具合が悪くて送られなくて ごめんね。」と言った。 昨日、いつもの古布で作った貝をプレゼントしたとき ワイフに渡すよと言ったにもかかわらず、2日間一度も顔を見なかった。病気かもね!と言っていたが やはりそうだったのか・・・記念撮影を2人がしているとき、おもむろに ハーモニカを出して スコットランド民謡のアニーローリーを吹いた。
すると、びっくりしたことに 奥さんが腰に手を当てて ゆっくりと玄関に現れたのだ。 そして、「とてもいいわ、音楽って大好き!」と言ってくださった。
予期せぬ出来事に 私は大感激!!!!!!!!猫とご夫婦に見送られて ターナムグリン駅に向かう間 あらためて ハーモニカの、音楽の力を噛みしめていた。

夕方7時 また跳ね橋を上げ、 車の渋滞をさせ、ジョギングの人の足を止め オリビア号は
テムズ川に出た。

これから なんと タワーブリッジをこのオリビア号がくぐるのだ。 途中で運河の広めのとことで45度回転、川の周囲には 2万人の人たちが住んでいる、この人たちにピースボートをアピールするいい機会、平和を訴えるいい機会というわけで デッキではダンスと歌が始まった。テムズ川クルーズの船も沢山行きかい 汽笛を鳴らしたりして私たちに声援を送ってくれた。

 

 乗客はデッキの前に行ったり、後ろに行ったり忙しく移動した。まじかで仰ぐブリッジは 本当に美しかった。ブリッジをくぐるって バックで再度通過、そのまま運河をバックのまま海原に出て行くのだ。  このクルーズの最大のイベントかもしれないといわれた。 ギネスブックにも申請をしたのだとか。 昨日、川べりから見ていたこともあり 私は感無量だった。
ざわめきが去ったころ、夕焼けの残影が美しく去りがたくて ずーとたたずんでいた。 デッキの奥でワインやら焼酎を持ち出して酒盛りを始めたグループに声をかけられて 座り込んだ。 こんなこともたまにはいいだろう。

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寄港地ラッシュで 余韻に浸る暇がない。
北海に入ってきた。 明日はオランダ、アムステルダム。
明日の説明会があった。 「オランダの文化事情を知る」 というコースを選んでいたので 明日、デッキで オランダのモデルによるファッションショウが 船のデッキで開かれるのに
参加が出来ない。 心は動かされたが予定通り オプショナルツアーに行くことにした。
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時近くに スライド式の水門が開き 運河の中に入っていった。両岸は緑のフラットな畑、 絵本に出てきそうな家が点在。 チューリップの季節だったら さぞかし・・・と 着岸を見守った。 645分、ファッションショーに後ろ髪を引かれながら 
「文化事情を知る」という企画に参加のため 下船した。 港から歩けば10分のところに   総合駅があった。 東京駅はここをモデルにしたというだけあって 赤い煉瓦、
左右対称の堂々とした建物だった。 この総合駅を 扇の要のようにして 扇を広げたように 運河が何本も広がっていて その間に街がある感じだ。 今晩は、「飾り窓」明日一日は「ドラッグ問題の検証」となっている。

  駅前の路地に入っていった。
建物は 隣と隙間がなく 4・5階建て、前に殆どの家が 傾いている。今にも
倒れてくるのでは・・・と思うほど傾いている。 木造で古いからかと思ったら
日本の家屋のように軒先がなく 雨が降ったとき 前に傾けて造れば雨水が つたわないと現地ガイドが言った。 

10ヶ月日本に来て 日本語を学んだというガイドは まだ、18歳の学生、 「(飾り窓)の企画を前からしたくって やっと実現しました」と10ヶ月とは思えない 流暢な日本語で語った。

 

 私たちは一軒の小さなライヴハウスに 案内された。 ホワイトビールを飲んだ。 こちらでは ハイネケンより名が通っているとか。 ビールより軽く、さわやか、ハーブが入っているそうだ。そこで 「飾り窓」について おおよその話を聞いた。 とにかく カメラは向けてはいけないそうだ。 いざ、細い路地へ・・・・


何と、驚いたことに まるでマネキン人形がショーウインドに立っているように
透明のガラスの中に下着姿で立っている。右を見ても・・・左を見ても・・・
赤いネオンで絵の額縁のようになったウインドは カーテンも何もなく
直に彼女たちが見えるようになっていた。 想像をしていたより 強烈だ。
彼女たちの存在を 合法化することにより 性犯罪やエイズを少なくしている
事実を思えば なるほど・・・と思うところもあるが 同じ女性としては辛い。
ポルノショップも隙間を埋めるようにあり、ポストカード売り場には 本当にこんなはがきを買って日本に送れるのかしら???と思うものばかり。


一軒の劇場に前に出た。 入場を待っている長い列、女性も混じっていた。 ディズニーランドの列ののりだ。 ガイドの話では 実際に男女が絡むショーをする所で 
オランダでは有名な劇場とか。 突然、2人の警官に手錠をかけられていく男性が通った。 チューリップとか チーズとかのイメージとあまりに かけ離れた風景に 言葉もない。 こうしてショッキングツアーが終わったと思ったら ガイドが一軒の前に傾いた家に案内した。 中には初老の紳士がいて、 私たちにシナモンの入ったリキュールを
ふるまってくれた。 玄関の一階は台所とトイレ、らせんの階段を上がると居間、いずれも 壁の絵を始め、調度品の趣味のいいこと。 アムステルダムの隙間なく連なった家は 「飾り窓」のような刺激的な場所であり この初老の紳士のように おしゃれな感覚でマンションのようにも使われている。 古い木造を 愛している人たちによって。


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階から上はプライベートらしく上がることは出来なかった。 ベッドルームや、ゲストルーム、書斎などになっているようだ。 いつもこのお宅は公開されているわけではないらしく 特別のはからいであった。 午後10時近くに 今夜のツアーは終了、若者たちはバスを離脱して 自由行動に移った。あたりは やっと夕焼けが始まった。 私は明日のツアー開始、940分までに戻ればいいと思い 今夜、どこか泊まれるところがあればそうしようと 泊まる準備をして 船を出てきていた。しかし、この街の様子はとんでもない!!
せめて 若者たちと一緒に 跳ね橋でも見に行こう と8人で歩き出した。


サト君という東北大 医学部の学生が 夜のツアーリーダーだ。方向音痴・・と言いながらも 地図を片手に迷うことなく跳ね橋に着けた。
電飾で飾られた跳ね橋から見る夕焼けは幻想的だった。 王宮広場から総合駅を抜けて 船に帰ろうと構内に入った。木造の重厚な駅だった。 構内の一角でピースボートの若者、女性5人がストリートライブをやっていた。 意外にも コインが沢山 入っていた。 私たちは手拍子で彼女らに声援を送った。 しばらくすると 保安官みたいな人が2人私の方に歩いてきた。 そして「ここでやってはいけない、やるなら外にして」と言った。 私が一番年長と見て 言いに来たのかも・・・時間はすでに12時、
「いったい 何時からやってるの?」と尋ねると 8時からだと答えた。 保安官は
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時間も見て見ぬ振りをしていたのだろうか??・・・
超、くたびれた一日だった。

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20日  アムステルダム2日目


「文化事情を知る」の2日目、駅前近くの ビル MZRCVRIVSの中に入った。近くにトーマス・クックの旅行社があった。 トーマス・クックは世界で始めて「団体旅行を考えた方。 彼は熱心な禁酒運動家で、19世紀のイギリスは子供たちまで 飲み屋にたちよるという状況で 給料の一部は酒で支払われていたという。 そんな社会を何とかしようと
「飲酒に代わる楽しみを提供しよう」と「団体旅行」を思いついたという。
クックが行った第一回以来150年、世界でも指折りの旅行社に成長した。 けれども、
現在の団体旅行はクックの思いとは裏腹で 魅力のないものになってきている。
ピースボートのOPには いつも消化不良の思いをしている私がここにも居る。


話が逸れたが、 エリネック・センターから所長さんが来て、 
ドラッグに関する政策など レクチャー、コーヒータイムも含め2時間の質疑応答。
 
ソフトドラッグは アルコール、マリファナ、コーヒーなど
ハード・ドラッグは コカイン、ヘロインなど。
1906
年から違法となり 1960年代はオランダの  海運王国 全盛期で 人々は裕福になり余ったお金を ドラッグに使い出した。 20年前には1万人に膨れ上がった中毒者が
昨年の統計では5500人に減らした。  この数字は ドラッグを合法にしない、しかし
規制をしない という政策を採ってきたからだ。

 
アムステルダムには 800軒の COFFEE SHOPが ある。コーヒーショップは コーヒーを飲ませるところではなく マリファナを吸うところ。 法律では 18歳以下は入ってはいけない。  一日に5グラム以上の大麻を売ってはいけない。 500グラム以上の在庫を抱えてはいけない。 大麻以外のドラッグを売ってはいけない。 抜き打ちで警察が入ることもある、となっている。  所長さんは 20年で   葯半数に減ったことを強調した。 メタロンという薬を使い 量を徐々に減らしていく療法をとっているそうだ。 最後に「心はどこへでも旅が出来るけれど 脳みそは自分で管理しなければならない」 エリナック・センターの所長さんが言われたのが印象的だった。

実際、マリファナもコカインも知らない私にはかなり 遠いテーマだった。 木造の古いが良く手入れされた会議室であり、コンサートも出来るのか グランドピアノが置かれた 白が基調の部屋のインテリアに感心するばかりで お勉強の企画を選んだのを 少し後悔していた。 昼食会場のレストランまで雨の中を歩いた。


昨夜、サト君たちと跳ね橋まで歩いたとき 通ったレストランだった。 赤レンガの塔のような形の渋い建物、昨夜は アウトドア席で 皆がビールを飲んでいた・・・
昨日のライブハウス、カサブランカで飲んだ白ビールを注文した。 サーモンはとてもおいしかった。 が、オランダの物価の高いところのツアーのせいか 後はパンとサラダの上に カマンベルチーズが乗っていただけで コーヒーが出て終わりだった。


その後、スマートショップと呼ばれる 民間のドラッグを扱うところへ行った。
ここは ドラッグでおぼれた人に ハーブや きのこを使って直すことを提案している組織。特に、マジックマッシュルームと呼ばれるものは ドライ化されたものだけが 認められていて オーナーは 幾度も逮捕されたりしていると言った。
この2日間で 何度も覚せい剤で 暴れている男女を見た。生々しすぎる光景にシャッターを押すことが出来なかった。  強烈な印象のアムステルダムが終わるころ 総合駅のポストに行った。  昨夜、外でやりなさい!といわれた女の子たちが 地元のストリートミュージシャンのクラリネットと 一緒になって入り口近くで 演奏していた。
暖かく、ほほえましい空気がただよって 救われた気持ちになった。
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時出港、懐かしい 運河の景色を再度見ながら オスロに向かった。

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昼ごはんに 麦とろを食べた。
まさか、船上で食べることが出来るとは 思わなかった。 いつも仲良し四家族でとろろパーティーをする。 帰ったら「四家族の味」のとろろが真っ先に食べたいな。


カジポンの時間、「クラッシクはなぜすごいのか」に出席。 ムソルニスキーの
(展覧会の絵)が なぜ、すごいのか。 38歳で逝った彼の親友、ガルトマンの10枚の遺作を 曲にしたのが (展覧会の絵)であり ソ連崩壊で 現在、5枚になってしまったという。 カジポンは昨夜、カメラとデジカメを 置き忘れて 無くなってしまい かなり しょげていた。 しめくくりの言葉は 「自分がどう生きるか、生きる姿勢は 誰にも奪われない」・・・・・    生きる姿勢、いい言葉だ。

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22日  こんにちは(グ・ダーグ)
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時半、オスロ入港。 遠くに冬季オリンピックのジャンプ場が見えた。
まさに絵のような景色、赤や黄色のかわいい家が緑の中に点在していた。
帰船リミットを気にすると やはりOPを採ってしまった・・・・。


ハイキング日和になった。バスで市内を車窓から少し見学しながら 山に向かった。 
メンバーの中には 今朝、北極から帰った人たちがいて、 もうこのトレッキングに参加している 超スタミナ族がいる。辻畑さんからもおいおい、話が聞けるだろう。


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日から世界銀行会議という 大きなコンベンションが開かれることになり、街にはすでに 乗用車などは 入れなくなっており 閑散とした印象の街並みだった。
市街地を抜けると 牧草地の緑が 目に飛び込んできた。日照時間が長いので 草がすぐに伸びて 収穫も農耕面積のわりに多いとか。 菜種の花の黄色との対比がみごと。


トレッキングの出発地点で トイレを借りようと カフェに行った。
断られた。 現地ガイドによると 明日は夏至、夏至祭で この国では結婚式を多くの人が するそうだ。 けれども、今日は土曜日。一日繰り上げて式をすると 飲みすぎても
日曜日があるということらしい。  自然の中のトイレになって 出発。 のバスクの山より よほどらしい道、小さな花が短い夏を待って 針葉樹の隙間に咲いていた。
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分ほど登ると 展望台に着いた。 氷河が造った 湖の中に 小さい島が5つ6つ
カラフルな別荘が 点在、野尻湖や山中湖を見ているようだった。  私の中では ノルウエーは フィヨルドというイメージがあり 展望台からは切り立ったフィヨルドの景色が
パノラマのように広がっていると思っていたので 少しがっかり。
もう少し 別のルートを歩くのかと思ったら もう、バスで昼食のレストランに案内された。  そこはガラス工場と美術館とレストランが ひとつの敷地の中にあった。


物価の高いノルウエー、 私はクローネに両替をしなかった。 グラスワインが45クローネ、日本円で900円ぐらい。 びっくりして 注文しなかったら カンボジアで一緒だった 宮田さんが ご馳走してくださった。 おいしい赤ワインだった。
料理はワンプレートのみだったが 大きなサーモンと 丸ごとのじゃがいもは おいしかった。

 

  シャガールの弟子というガラス作家の特別展をしていて ガラス工場見学の後にのぞいた。 階段は車椅子で 上がれるように工夫されていて さすが、福祉国家。
しかし、こんな物価の高い土産物屋さんで一時間以上の自由時間をもらっても 困ってしまう・・・ これだからOPはいやだ。 先ほどバスから見た牧草と菜種の花のコントラストが美しかったところに行きたい・・・  現地ガイドのノルウエー人になってしまったMOMOKALLANDさんに 「降りることが出来ないならせめて バスをゆっくり走らせてもらえないか?」と頼んだ。 運転手に言ってみるといってくれた。
お目当ての場所の近くに来た。 バス停のようになった所で 止まった。 2台目のバスにも トランスシーバーで伝えた。 牧草地の周りは 勿忘草、ヤナギラン、ショウマなどが咲いていた。MOMOさんは「 夏至の日に未婚の女性が 7種類の花を枕元に置いて寝ると 未来の夫となる人の夢を見ることが出来るのよ」と言った。 私が無理を言ったことにより 皆さんにおまけが出来た。 18時出港。

 

623

SEEDS
の編集長、岡川さんから メールが届いた。 日高君との縁を不思議がってくれている一人だが 今度は彼女が日高家との縁を 発信してきた。 古家を改造中で 彼女の趣旨を解ってくれる大工さんを探していたら 日高家を紹介されたというのだ。 こんなに短期間に いろいろつながっていっていいのだろうか・・・・


85
回目のカジポンの講座、(なんで 私はこうなってしまったのか)に出た。
彼は 100回の講演を最後に 北アイルランドで船を降りる。真夜中の講演も多くて
聴きたい企画は多いのだが、船酔いで寝ていたこともあり 半分も聴いていないかもしれない。


 月4・2万円の彼の2DKの公団アパートの鳥瞰図が イラストで描かれたものを配られた。
玄関は 入国審査室、居間は 謁見の間、寝室は ファラオの寝室、トイレは会議室、お風呂は 勇者の泉、などと名づけられていた。 ビデオデッキ5台、スピーカー11個、天体望遠鏡 ピアノもある。 家から100メートルのところに 本の倉庫を 3000円で借りていて カジポン正倉院 という名前になっている。ここが彼のエネルギー製造所。


ロンドンーアカプルコの間 水先案内人として乗船の鎌田彗さんが乗っている。         ( オランダのあの「飾り窓」の勉強ツアーで 一緒だった。)
社会派ルポライターの代表的存在で NHK人間講座「反骨のジャーナリスト」に出演している。 今日の講座のテーマは「日本人と自殺」 
聴きながら 私の店に7年前、8ヶ月働いて 明日辞めるという日に自殺してしまった美穂さんのことを思い出していた・・・ 乗船の2週間前、墓参りに行った。
今年は暖かくなるのが早くて、 例年は桜が咲いていないのに 今年は桜もつつじも美しく咲いていた。・・・・

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午前2時、ガイランゲル・フィヨルドに入って パイロットも乗り込んできた。
波も急に静かになった。 メキシコ暖流のせいとはいえ デッキにいても 寒くないのが
地図の位置から考えても 不思議でならない。・・・夜のない しかも塵一つ混じらない空気を吸いながら 未知のフィヨルドの世界へ入っていった。


オリビア号は「カレリア」と名乗っていたころ 欧米人を乗せてここを訪れるクルーズを行っていたとか。  スタッフキャップテンは 「ガイランゲル・フィヨルドの雄大さは
長く船乗りをやってきて 特に印象に残る場所、大自然は人の心を寛容にする。」と語った。
エンヤの曲がデッキに流れ、 「ガイランゲルに牧師はいらない、フィヨルドが神の言葉を語るから・・・」と劇作家ビヨルンソンが語ったという、まさにその言葉を裏付ける景色がここにあった。

 9時半、40名ぐらいづつ順番にタグボートに乗り換えた。 
私は11時乗船、5分でガイランゲル村に到着。 このボート代は往復10ドル、 1210分が タイムリミット。 1時間の自由時間、とにかく白い煙をあげて流れる滝まで行ってみよう!と歩きだした。 教会が丘の上にあり、墓には春を待って植えられた小花が咲いていた。  牧草を真っ白なビニールでくるんだ大きなロールが 面白い造形を作っていた。 こんな所に葬られたら さぞかし静かな眠りにつけるのでは・・・と普段は葬式なんかしないで!とか言っている私が 考えていた。 住宅のある方へ降りていくと 小犬を連れた老婦人と子供づれのお母さんが立ち話をしていた。

 白と茶の斑な子犬を見て思わず、「さくら! ベティー!」 二人の名を呼ぶたびに 愛犬たちの写真を持ってこなかったことを後悔している。  朝露をつけた野の花を撮っていたら 瞬く間に時間が過ぎ、乗船の時間になってしまった。後ろ髪引かれる思いで オリビア号に戻った。
テンダーボートの吊り上げ作業がほぼ終わるころ、一艘が故障して手間取り 先ほどの滝の流れる村をいつまでも 眺めていることができた。

16キロ、9海里をまた4時間かけてゆっくりと フィヨルドの谷間をノルウエー海に向かった。


フィヨルドとは 約100万年前に氷河が創り出したもの。 厚さ1000メートルを超える氷河が 少しずつ流れ動きながら その重みで河床を削り ナイフで切り取ったような深い谷間を創り上げ、やがて氷河期が終わると 掘り下げられた部分に海水が入り込み
フィヨルドが形成されたという。  ダイナミックで厳しさを持った景観も、船内のアナウンスによると 「7人の姉妹の滝」などと やさしさを込めた名がつけられていた。

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25日 時差1時間戻


オクタニさんの企画、「花はどこにいった」はどこから来たの?  に出た。
このフォークソングが 生れた背景が分かった。  アメリカのピーレ・シガーが1から3番を ヒッカーソンが45番を補足してより意味のあるものになったという。
その上 歌詞はショーロホフの「静かなドン」の中から引用されていた。 ショーロホフの故郷 コザック地方の子守唄だとか、 世界中の人たちが反戦歌として歌っているこの歌を 世界中の人々が忘れ去るのはいつの日なのか・・・とオクタニさんのビデオは結んだ。


カジポンの91回 日本の美100選 で高橋竹山さんの言葉が印象的だった。
「毒を飲み込む力がないと きれいなものは咲かない」強烈だが素敵な言葉・・・


本日のスペシャルイベント、北極圏突入、北緯6633度は なだらかな緑の小さな丘の上に 金属製の地球儀で示されていた。 ガイランゲルとは異なって、ここスワルテッセンフィヨルドは やや女性的な景観。  どんどん奥へ入っていくと 岸近くには 小さな花も咲き ノルウエーのカラフルな家もところどころに点在していた


デッキでは フィヨルド遊覧記念の行事、洋上餅つき大会が始まった。 乗客の有志が餅つきをし、丸める人もありで 大変にぎやか。 ぜんざいがキッチンから運ばれて 信じられないほど暖かいデッキで お餅の入ったぜんざいをいただいた。
伊藤シェフが様子を見に来ていた。 「ぜんざい、持って来ましょうか?」というと
「仲間はまだ食べていないから・・・」といわれた。 私は「先に味見も必要でしょ」
といって無理やり持ってきた。 「うまい!」といって眉をへの字にした。 義弟が 秋田出身で 伊藤さんは山形だが 最初に見たときから 顔から声までそっくりで 驚いている。  プールにお湯が入り 入浴剤まで入れられた。 何百人の目に触れるこの場では さすがの私も 勇気はなく水着にはなれなかった。 若い人たちや、外人の人たちに混じって 勇気あるおばさんも入っていた。 

  氷河が見えてきた。ゆっくり進む船の景色は 角度が変わるごとに 微妙に山々の形を変えた。 目をそらすことが出来なくてプールどころではない。  17時になるとテンダーボートが降ろされ 順番に 乗り換えていった。 スワルテッセンは30ドルのボート代、 やはり一時間ぐらいの遊覧だ。


鳥たちが 海面を旋回し出した。 すると魚がグジャグジャと躍りだした。そのかたまりが あちらこちら!!! 鮭の「かたまり」だ。あっけにとられて シャッターを押す間がない。  狭い入り江にボートは進んだ。 ガイランゲルでは見られなかった木や花が咲いている。 前方にボートに乗った2人ずれが見えた。 近づくと老夫婦がつりをしていた。 「おじいさん、今晩の魚を捕りましょう!」という感じかしら・・・
スーパーマーケットに私たちが行くように 小船に乗って(買い物)をしているのかと想像するだけで楽しい。   雪崩のように氷河があちらこちらに迫っている景観と 老夫婦は 厳しさの中に暖かさを感じていつまでも 2人の影を追った。

 

 ガイランゲルのように村に入らないで テンダーボートのみの遊覧と聞いていたが、 一番大きな氷河の脇の船着場にピースボートスタッフが待っていて 「写真を撮ったら直ぐボートに戻ってください!」といってくれた。 野の花が一杯咲いているほうに気が行き 記念撮影どころではない。 少しためらったが 野の花を摘んだ。 ストレスが一気に解消した思いだった。
あっという間の1時間が過ぎた。  デッキではあいかわらず お祭り騒ぎ、カキ氷早食い大会が行われ、 若者たちがフィヨルドの海水を入れたプールに飛び込んだりもした。
こうして2つの異なったタイプのフィヨルド見学が終わり、再び ノルウエー海にもどっていった。
 
ロム・インターナショナル編の「世界地図の楽しい読み方」によると
ノルウエーのノルド岬は北緯70度を超える位置にあり、夏の間は数ヶ月白夜、冬は一日中真っ暗闇の日が何ヶ月も続き、白夜が近づく夏はノルド岬から太陽を見ると何ヶ月もぐるぐるまわっている。 正午に南の空に位置し夕方には西へ移動、夜の12時ごろになっても太陽は北の地平線にぽっかり浮いている。それから東に移動し その12時間後には
再び 南の空に戻る。 このような白夜は 夏至の日には 太陽が通る北回帰線が約北緯23度だから、北緯67度以上の地域では 体験できる。
地球は自転しながら太陽のまわりをまわっているため、地球の半分は太陽に照らされ そこが昼、そして照らされている面は 刻一刻と移動していく。  ところが 地球の回転軸は2327度傾いているため 北極圏の夏は太陽が自転しようとも太陽に照らされっぱなしになる。  これが白夜の状態。・・・・・・あの老夫婦は一日中暗闇を何年体験してきたのかしら・・・・


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昨日までの静けさは何だったのか!というほど 揺れはじめた。 カジポンの
「ペットと人間の科学」にタオルを持って出かけた。 懐かしいベティーやさくらのことを思い出しながら観ていたが たまらず 部屋へ帰って横になった。 「日本百名山」の企画がその後にあったが 残念。

  

 北アイルランドで船を降りるISの留学生たちが
この船に乗って90日で学んだことを 「絆」一期一会と題して プレゼンテーションがあった。 
私はGETプログラムも採らなかったし 大勢の外国人が居ながらも なかなかしゃべる
機会もなく イマイチ彼らとの別れがつらいというところまではいかないのだが、
通訳をしていたCCのメンバーたちは 訳しながら涙声になっていた。
北アイルランド、イスラエル、など問題を抱えた国からの学生たちだ。  ピースボートの水先案内人のレクチャーや ワークショップを通して学んだ非暴力的紛争解決法、寄港地が抱えている問題点、その問題に取り組んでいるNGOとの出会いなど 彼らの多難な今後にどんな形で 反映されるのであろうか・・・・

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半端な揺れではない。 洗面のガラスのコップがすべって2個割れた。 ウクライナ人のスチュワーデスさんに 掃除機を持ってきてもらい 片付けに手間取った。 せっかくフィヨルドで摘んだ野の花も 花瓶の置き場がない。 しかたなく インフォメーションに持っていき もらってほしいというと 彼らも困るというのだ。 北海のしけに出会わなければ まだまだ咲いていたというのに・・・・かわいそうなことをした・・・・
私は 食事がとれる状態ではなく ベッドに入りっぱなし。 フィヨルドの天国を味わった後には とてもつらい。  食堂ではいすが倒れて脳震盪を起こした人もあるそうだ。


夜には立ち直って カジポンの99回「史上最強の名言集」に出た。ベートーベンやゴッホの言葉に励まされて生きてきたと 100の彼を支えた名言を披露した。
そして、100回は「レッツ ボレロ」、譜面も読めない彼が 独学のベートーベンの曲を弾き、ボレロを踊った。 会場に来た皆を巻き込んで カルメンのボレロを踊らせた。
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回の最高出席者がいた。 カジポンもすごいけど 最多出席記録もすごい!!!
カジポンは 芸術作品そのものが持つ魅力だけではなく それを作り出す人類の尊さを、
その作品に出会える感動を私たちに 自分の言葉で伝えた。
彼は、明日、北アイルランドのベルファーストで 下船する。


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28日  こんにちは (ディア・グット)

左舷にスコットランド、右舷に北アイルランド、オリビア号は ノース・チャネル 
北海峡に入った。 ベルファースト入港、午前10時、 2日に渡るしけで2時間の遅れだ。
あまりにも 船酔い、コップの破損、横転などが多発で 航路を変えたという話だ。
 
北アイルランドとは アイルランド島の北部、アイルランドが英国から独立した後も
英国領として残されたアルスター地方の6州のことで ベルファーストは その中の中心都市で、人口40万人の都市である。  この旅に出る朝、 主人に送ってもらって
JR
小泉駅に行ったとき 友人に会った。 孫を紹介して 「この子のパパはアイルランド人なのよ」といった。 「今からアイルランドに行くのよ。北だけどね」と私がいうと 「????」という彼女の表情を 思い出した。・・・・

モーン山脈ハイキングを選んだ私は 天気が気になり 急いでデッキに出た。
雲は多いが 青空もある。 なだらかな山並みの 放牧場の緑が美しかった。
アイルランドという響きは なにか暗く、どんよりしたイメージだったが 港の風景は
さわやかだった。 下船可能の知らせが入ると バスに急いだ。 サンドイッチとお菓子をもらい 11時 出発。 途中の田園風景のすばらしいこと!!!!富良野のような景色がほぼ一時間続いた。 

 バスケット・エッグスと呼ばれている地方を通った。 氷河期が終り、 なだらかな丘がたくさん出来たという説明を受けたガウン地方の村は かごの中に たくさん
たまごが入っている感じがして うまい命名だ。

  

 モーン山脈は 2800フィート、2つの大きなこぶという感じの山の形で 私たちは 山を歩くというより 麓の森を歩く感じだった。渓谷沿いのトレッキングルートは 石楠花の薄紫一色、30分ほど歩いてもう食事。
皆で輪になった。隣に座った方は大阪から乗船の 高木夫妻、スイートルームの方で アンコールワットも一緒だった。 なんと彼らのお弁当はおにぎりと ゆでたまご。 スイートだと特別食があるのかと思ったら 朝食のとき 隅の席に座って ご飯のおかわりを何回もして 味付け海苔を巻き、 ゆでたまごも 持ってきたといわれた。・・・なるほど、
お金持ちになる方は一味違うのだ。

  

 もう育ってしまったわらびがたくさん生えていた。 伊藤シェフにはすでにビルバオで おみやげにしたので 一生懸命摘んでいる高木さんに たまに見つけると さしあげた。 摘んでもどうやって食べようという話になり 
「デッキの居酒屋、波へいにあげてわらびのてんぷらを 一皿だけもらって 後は商売に使いなさいって言うわ」  さすが 高木婦人!!!


途中の池には カルガモが沢山いて みんなで お弁当の残りのパンを投げた。 どこの世界にも 要領のいい奴はいるものだ。 もっとくれといわんばかりに 歩道に這い上がって 請求するものまで出てきた。 ときどき小雨が降ってきたが  大降りにもならず、
快適なトレッキングだった。
 
元々、この巨大公園は 個人の所有物で 世界から色々の植物を集めたというだけあって
うっそうとした森を歩くのは ここちよかった。

バスの中で「ここには温泉はないの?」と私は質問していた。  「ないけれども ヒーリング・ウエルといって冷たい水で沐浴する習慣はある。」と答えていた。 ガイドのフランクさんは 
御影石の彫刻したポールから湧き出る水のところで 私の足を止めさせ 先ほどの話の
ヒーリング・ウエルは これのことだといった。 湧き水は 神からの贈り物だとも・・・


お弁当の時間が短くすんだので 海の見える途中の街、ニューキャッスルで30分のフリータイムが取れることになった。  とりあえず インフォメーションに入った。絵葉書を買って、バスから見ていたお目当てのコーヒーショップに入った。 ブルーベリーのマフィンとコーヒーのスモールサイズを注文して 席に着いた。 家族ずれの地元の人で賑わっていた。 時計を見つつ飲んだ後に 海岸を散歩した。 今夜は船に帰らなくてもいい、時々見かけたB&Bで泊まりたいな・・・と思った。 


船に着いてフランクさんと別れ際、 「明日、フリーなんですが ベルファーストからあまり遠くなくて のどかな田園風景が見られるところを紹介していただけませんか?」というと ホリーウッドの民族資料館がいいよ。ここから40キロぐらいの街で 落ち着いたいいところだよ。」とバスの降りるところと資料館の名前を自分の名詞の裏に書いてくれた。
辻畑さんと明日は一緒に行動することになっている。
 
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時のシャトルバスで ベルファーストのNGOとの交流会場へ向かった。 大きな市場が 会場になっていた。 特設ステージには グランドピアノが置かれ すでにピースボートスタッフと ベルファーストのNGOのメンバーが 司会をしていた。 こちら側は もう何度も人前でやって ダンスも洗練されてきた SPACE、うららさんの振袖を着た日本舞踊などを披露し、アイルランド側は 伝統の民族舞踊が フレッシュな女性たちによって踊られた。最後には 北アイルランドの人気歌手、カラ・ギロンさんの歌と 沢知恵さんの 弾き語りだった。

 

 カラ・ギロンさんの声は アイルランドの景色が目に浮かぶような 涼やかな歌で、 沢さんは 始めて聴く歌声だったが 自分の主張をしっかりと 持った歌い方で 感心した。 花束をピースボートは沢さんにだけあげたのが気になった。
それから、 会場は彼らが歌っているとき かなり騒がしくマナーの悪さも気になった。
GET
を取っている人たちもホームステイ先の方たちと この会場へ来ていたので 聴くというより 交流の場ではあったのかもしれないが・・・・ 


ジャイアント・コーズウエイのOPに出かけていた辻畑さんと合流した。 明日のフリータイムを一緒に行動する約束をしていた。 二人のユーロの持ち合わせでは  明日は土曜日でもあり 不安なのでもう少し両替をしようと 街を歩いたけれども両替所が見つからず、 ヒルトンホテルへ入っていった。 両替をお願いできないか?とフロントマンに尋ねると 宿泊客以外は出来ないと断られた。  先ほどのイベントで カラ・ギロンさんのCDを買っていたことを思い出した。12ポンド払った。  ざわざわしている中で歌うのはさぞかし歌いづらかったのでは・・・という侘びを込めて買った。 サインをしてもらったときの素顔はとてもかわいかった。  会場に戻るとまだ CD売り場にいた。
両替をお願いすると 快くしてくださった。  これで明日のバス代は安心。


629

昨夜 カヨチャンは GETでホームステイ、庄治さんは 二人旅に出かけて帰ってこなかった。  サトちゃんと私は夜中の2時過ぎまで昔話をしていた。
サトちゃんは 娘と一緒の28歳、オリンピック選手の高橋尚子選手と一緒に 事業団で
合宿生活を経験していたせいか 自分を抑える術を若くして知っている。カヨチャンを立てて 毎日生活していることが よく分かる。

朝、7時半 船を出た。 今にも泣き出したそうなアイルランドらしい天気だ。
フランクさんが 丸を付けてくれたバス停は見つけにくくて 結局、中央駅まで地図を見ながら 歩いてしまった。 中心地まで ピースボートの案内では15分としてあったが
45
分かかった。 辻畑さんは「不動産屋の案内と一緒ね。」といった。
トイレを済ますと8時半、バスの出発は9時ジャスト、 一日乗車券を買おうとすると どこか他に行くつもりか?と聞かれたのでホリーウッドだけだと答えると 5ポンドで 往復の乗車券をくれた。 
OUT
 SIDE と聞いて 総合駅なのに本当に 外のなんでもないバス停からなのかしら・・・コーヒーを飲みながら待っていると ボディーをカラフルにペイントしたバスが止まった。 切符を見せて 「降りるところに着いたら サインしてね。」といって座った。
これでひとまず安心。 落ち着いたベルファーストの街はすぐに抜け 左手に海を見ながらバスは走った。  峠にさしかかったとき、 運転手が「次だよ!」と合図してくれた。


バス停の左手の景色に2人は目を見張った。  中世のお城のようなホテルが海を見下ろす丘に建っていた。  案内看板にしたがって少し登っていくと 資料館のゲートがあった。  開場は10時といわれて 30分の時間を先ほどの ホテル見学に当てた。 坂を下って ホテルに着いた。  本当に入っていっていいの・・・という雰囲気の庭で 怒られる前に 写真を撮っちゃおう!と 2人で撮りあった。  グリーンの芝生が 美しいよく手入れされた庭には 色とりどりの花が 植えられていた。 斜面の下には レストランとテニスコートが見えた。 誰も注意をしに出てこないことをいいことに レストランまで歩いた。  周りは始めてみる花が咲いていた。 出勤してきたコックか ウエイター風に男性に このレストランは何時にオープンかと尋ねると 11時と答えた。  今日の昼ごはんは リッチに行こう!とここで 昼食を摂ることにして 再び資料館に戻った。  10ポンドの入場料を払って 資料館の中に入っていった。
等身大の人形が 中世の貴族、農民、職人等のコスチュームを着けて飾られ、馬車からトイレまで 展示されていた。中でも 脱穀機は 私の小さいころ、おばあさんの農家で
使っていたものと 殆ど一緒で興味深かった。  マッチ売りの少女の人形もあって あのかわいそうなお話はアイルランドだったのか・・・と思った。

マップを見ると さながら 明治村のようになっている。 しかも敷地がとてつもなく広いので となりの建物は森の向こうというわけだ。 「この調子では半分見たらいいとこね。」と2人で言い合った。 少し歩くと牧場に出た。 羊や牛が草を食んでいて 牧草を刈り込む仕事をしている人たちがいた。 古い学校の中に入った。 かび臭い臭いがした。
落書きがいっぱいしてある机と椅子。 黒板の横にはそろばんを大きく立てたようなものがあった。 コート掛けには マントや帽子が掛けられていた。
また歩き出した。 白い壁、藁の屋根。 中にはキルティングのベッドカバーを掛けたベッドが しけくさい臭いをさせていて、暖炉の火は赤く燃えていた。 先に入った私は彼女に向かって 「旅の者よ! 温まっていくがよい!」と演劇の役者のようにオーバーに言った。

少し 小雨が降り出して 次の小屋に駆け込んだ。 中には2人の女性とボクサー犬が暖炉の火の前にいた。 先客と思って少し話しているうちに ひょっとしたら モデルさんなのでは・・・と思い始めた。 中世のスタイルで 訪れる者にお話をしたり 記念撮影をしたりする職員なのだ。  ピースボートで世界旅行をしていることと 昨夜 交流会をしたことを いい

かげん英語でいうと テレビなどの報道で知っていた。 写真を一緒に撮ったりする内に 多治見市の例のマガジンを見せ、修道院や 永保寺の写真を見せた。 ついでに 自分の店も紹介した。 写真は 言葉の足らないところを十分カバーしてくれる。  こうして  また次の館が見つかるまで歩いた。次の館にも2人の前掛けをした女性が麻を糸巻き機で紡いでいた。 隣の部屋には 織り機があった。 麻のリネンが有名と聞いていたが こうやって織って産業にしていたのだ。  ここでもまた 同じように 船旅の話と 多治見市のマガジンをあげた。


次は お屋敷。 調度品もすばらしく 2階には 豪華なベッドルームがあった。
ここのおばさまは 暖炉で実際に チーズマフィンを薄く延ばしたようなものを焼いて
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切れづつ 食べさせてくれた。 ホットケーキのようなもので 素朴なおいしさだった。
教会のある広場に来た。 おじさん2人が印刷屋の前でしゃべっていた。  よく見ると
この人たちも モデルさん。 印刷屋の親父は インクで手を汚し エプロンもインクで汚れていた。 まったく芸が細かい!!! 日本人が男の子2人来たといった。  私たちはまだ 一人も出会っていない。  どこの寄港地でもいつもピースボートの人たちに逢うのがちょっといやだったが  ここはいい。 フランクさんに感謝!感謝!  彼らは辻畑さんの デジタルカメラに興味を持った。 いいかげんな英語だがこうして生で使えるのが楽しい。 もう少し沢山の語彙を持っていたら・・・・

 

朝 見つけたホテルに向かった。 
入っていくと 大きなスクリーンでサッカーのワールドカップの試合をしていた。
アイルランドはパブで有名と聞いていたのに 夕べは行く機会もなかったが
座った席は いかにも パブらしい感じだった。
まずは グラスワインを注文して トイレに行った。  途中の席は 窓を広く取ってあって 庭の花たちが見えた。

 そこに席を移して さあ、注文。
ウエイトレスお勧めのポテト料理を一皿、ベジタリアンのキッシュを一皿、アイリッシュシチュウを一皿お願いした。  北極OPに行ってきた辻畑さんの話を聴きながらワインをおかわり。  庭には あの古城のようなホテルで結婚式でもあったのか 美しく着飾った女性たちが通って行った。
ポテトもキッシュもおいしくいただいて デザートのアイスクリームも一つ注文した。
こうして払ったお金は 2人で20ポンド。ホテルの昼食と考えたらとても値打ち。
古城ホテルは Hastings Hotelsという名で リゾートトラストの系列かと思われる
パンフレットだった。


帰りのバスは行きとは違って 古い住宅街を通ったので 2倍景色を楽しんだ。
ベルファーストの中央駅で 降ろされて ポンドの残りを使いに 中心地まで 歩いた。
カーニバルが 行われていて 目抜き通りは 交通規制され  思い思いに派手な装いをした人たちが練り歩いていた。毎年、テーマがあって 今年は帽子とか。
ピースボートも参加していたが すでに終わってしまったようだ。  無理やりお金を使うために CDショップに入った。 カラ・ギロンさんはやはり有名らしく ディスプレイも
目立つところにあった。 値段を見てびっくり! CDに張られていたシールには 1099ポンド・・・私は彼女から直接買ったというのに 12ポンド払った。  NGOとかいわれている行事であったがゆえに いやな感じだった。
・・・・・・こんなわけで ベルファーストの小冒険は終わった。


フランクさんはこんなに沢山の日本人を見たのははじめてだと言った。  ピースボートならではの 寄港地だった。 私を含めて 日本人は どのように この国の人たちに映ったのであろうか・・・ 美しい上辺だけ見ただけで終わった私のベルファーストであった。 ピースウオールと呼ばれる カトリックとプロテスタントとの争いを象徴する壁が 36箇所もあるそうで そこは 壁の前で処刑されたりもした 名前とは裏腹な残酷な壁。
街の中は 国境のように 木で囲いが今でもあり 両者は言葉を交わすことさえもないと聞く。  本物のピースウオールになる日はいつのことだろうか・・・

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大西洋に出た。ポルトガルのポンタデルガーダに向かっている。 覚悟していた波は 午前中までは静かだった。 石粉人形を まだ作っていない人のために 昼食後 手伝った。 ソファーが低く 胃を抑えていたためか 気持ちが悪くなってきた。  低気圧が近づいてきたらしく 早めに横になった。  サウナに夕方入ったら 気分がよくなり 夕食に出た。 今夜から席かえで 女性ばかり4人席。 
鎌田慧さんの 「新聞記事は本当か?」というテーマの講義に出た。
ルポライターとして 生の現場を見ている彼が どのように 圧力がかかり 記事が捻じ曲げられているかを語った。 言論の自由を憲法で謳った日本。  本当の意味の自由はあるのだろうか・・・
 聴いている者は95パーセントが私たち以上の世代。 せっかく ピースボートに乗っているのだから もっと若者がこういうテーマに参加して皆の意見を聴いて 自分で租借する力を養ういい機会なのに残念でならない。  夜中に デッキに出ると 泥酔している若者を時々見かけるし、部屋で寝ないで ソファーにトドのようになって 寝ている人たちもいる。 結局は船に乗ろうが 乗らまいが 本人の「どう生きるか」 という姿勢に かかっているのかもしれない・・・・



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