ぱれっとのママさんがPEAC BOATに参加
 2002・5・3〜2002・8・14
その間のFAX等で送られてくる旅行記をお留守番のマスターがセッセせっせと書いて行きます。ご期待ください。男はつらいよトホホ。

●ピースボート旅行記(7月編)いよいよ大西洋に
 (ポルトガルからキューバへ)7/3〜7/11分更新


●キューバからアカプルコ・メキシコへ 7/12〜7/26分更新

●メキシコからアメリカ西海岸を北上 カナダへ 7/27〜7/31分更新
ピースボートに参加したみなさん


ピースボード旅行記    2002・5・3〜8・13

                           安藤 光子

71日   時差1時間

 とうとう、7月になった。 
この海域で 88年前、 4月14日 ニューヨークに向かった豪華客船 タイタニック号が 沈没した。きょうは、とても風が強く 船は揺れているが 映画を真似して 若者が船頭で タイタニック・ポーズをとるというので カメラを持ってデッキへ出た。  ウクライナの船員も協力するのか 予備のイカリがある最先端に2人がいた。  風が落ち着くのを待っていたが 治まらず、危険と判断されて中止になった。

今夜のディナーは タイタニック・ディナーといって 正装で出席するようにといわれた。
揺れを忘れるためでもあったが タイタニックの映画を今朝、観ておいたので 
ちょっと気取って、おしゃれをすることにした。
中島いつ子さんからお借りした ブータンのキラと織物の合体作。 赤とオレンジの派手な色に 本来は腰に巻くように彼女はデザインしていたものを ターバンのように頭に巻いた。 

 

 食事は タイタニックの食事を再現したというもので 
  カナッペ 提督風
  コンソメ オルガ風
   ポーチドサーモンのムース リーヌソース添え
  シャンパンシャーベット
  フィレミニオン リリ風
  トスド サラダ 
  フレンチバニラのチョコレート
  エクレアとアイリッシュコーヒー

日高君から食事の席が一緒だったとき、 面白い話を聞いた。
船内新聞のパレットは 本当は 「そうなんです」という名前に決まっていたのだとか。
新聞の責任者の名前がそう君でそれをもじって 名づけたらしいが 出航の一日前に
上から そんな名前をつけるな!というお触れがあったらしい。 「遭難」なんてとんでもないというわけだ。 それで第二候補のパレットになったという裏話をしてくれた。
しかし、私の場合 毎朝 新聞を見るたびに 主人は今頃 忙しくしているかしら・・・とか バイトのユキちゃんは休まず来てくれているだろうか・・・とかベティーとさくらは元気かしらとか思い出さなければならない。

夜、 ベルファーストのイベント会場の条件の悪いところで歌った 沢知恵さんのライブが行われた。  韓国と日本の親を持ち 現在はアメリカと日本と韓国を中心に活躍している方。

自分のポリシーを歌で表現する力のある歌い手だ。

7月2日

コロンブスの映画を観た。
地球は丸いと信じ  信念を貫き通した人だったんだ。

「もみじの手」という若い人たちのグループに入って 以前 靴下で作ったパクパク人形を使って 「ブレーメンの音楽隊」をすることになった。  チェルノブイリの子供たちは 被爆の治療をキューバの医療施設を使ってやっている。 その子供たちの前で スペイン語でやろうとしている。 私は{猫の2}になった。ミヤーア・ミヤーア

 

7月3日    こんにちは(ボア・タルジ)

ポルトガル アゾレス諸島のサン・ミシェル島 ポンタデルガーダ港に7時半着岸。
昨日まで天気が悪かったそうだが とりあえず、何とか持ちそうな天気。
8時半にバスでまたハイキングのOP

赤い屋根、白い壁の港町、 アジサイがどこの家にも咲いていた。ポンタデルガーダを抜けると 小さな空港があった。
更に アジサイ一色の道を登っていくと 2つの違った水の色を持ったカルデラ湖に着いた。 ここからが私たちのハイキングのスタート地点。  左に海、右にカルデラ湖。
尾根づたいの道の一番景色のいい所を歩くわけだ。

ところが モトクロスのレースが数日後にあるらしく 砂煙をあげて 何台も入ってきた。 ガイドは無線機で 警察に通報した。 やがてパトカーは来たけれども おかまいなく 彼らはやってくる。 おいしい空気を吸って 山を歩くはずが だいなし、 私はコンタクトレンズなので ほこりで涙が止まらない。  いったい何十台すれ違ったんだろう。・・・・


バスが先回りしていたところに着くと カヨチャンとサトちゃんが 他の2人を誘って
タクシーで来ていた。 彼女たちの方が どんなにか 利巧か・・・・


バスは2つのカルデラ湖に降りていった。 トイレ休憩をするため 人口800人ほどの小さな村に立ち寄った。バンホ村といった。 男性トイレに入って時間をうかせ、小雨の降るバンホ村を歩いた。 ひなびた雰囲気の教会があった。  おばあさんが 玉のれんのようなものが下がっている扉から顔を出した。 カメラを見せると笑顔でうなづいた。
ありがとう!というわけで 数枚シャッターを押す。 一日中歩いていたい村・・・


再び、アジサイロード、アガバンサスの紫と白色もとてもきれい!
このアジサイは 日本から最初の苗が来ているとか。 その他、杉の木も日本からで
見事に育って 谷間を埋めていた。  海沿いの シーフード料理のレストランに行った。
期待はずれの料理だったが やぎのチーズだけはすごくおいしかった。 

今夜は 洋上音楽祭。 なんと 私はハーモニカのソロで 出場するのだ。
だから、 ハイキングも かなり気が重かった。 緊張と昼食のとき、宮田さんにご馳走になったワインの飲みすぎで 肝心なときに 偏頭痛。   
シャワーを浴びて すぐにリハーサル。 オカリナ、合唱、ウクレレ、ゴスペル、手話歌、バイオリン、カリンバ・アラサトの民族楽器など・・・

本来は、フィヨルド音楽祭として フィヨルドクルーズの折に 行われるはずであったが、テンダーボートの都合とかで 日延べされていた。

旅の恥は掻き捨て!とばかり申し出はしたものの ソロでするのは 勇気がいる。
8時になった。 司会者に 一口コメントを出していた。
ロンドンでB&Bに泊まったとき、 二日間出てこなかったピーターさんの奥さんが 私の吹いた アニーローリーで 「ラブリー!!」といって見送りに出てきてくれたエピソードを短くまとめた。  合唱やオカリナの団体が続いた後、ステージに立った。 日高君が 楽譜たてを前に出し、マイクの調整をした。 彼の目は私に「がんばれ!」といっていた。  その間に私の出したコメントを司会の清水さんが読んでいた。  私の前のグループまでは 彼女も緊張していて コメントをとちったりしていたが 私の番のころには 慣れてきたのか 完璧に朗読した。 ざわめきもなくまったくシーンとした場内、400人ぐらいはいたと思う。 最初の2小節ぐらいのうちに、 席がなくて 私の立っているところから1メートルぐらいにしゃがみ込んで見上げている人たちが目に入ってきた。
緊張でどんどん手が震えだした。 するとそのしゃがんでいる人たちに私の震えているのが見えていると思いだしたら なおのこと、震えだした。 バイオリン奏法になると その技法を使わなくても 手が震えていた。 

途中で止めてしまいたい気持ちを抑えて
とにかく 最後まで吹いた。 
ハーモニカの河野先生は 最後をきめれば途中の失敗は消えてしまうから 最後を極めるようにいつも言っていた。  

 自分の番が終わったら 他の人の演奏が落ち着いて聴けるようになった。 ギターで 自作曲を弾き語りした人があった。 普段、目立たない人だったが コメントは 「乗船者の中に 思いを寄せている人があります。 その人に僕の思いを伝えたくて出てきました。」 割れんばかりの声援が飛んだ。  10時にすべての出し物が終わった。 2ヶ月かけてそれぞれ練習してきたことが ここで発揮できて 記念撮影となったときの みんなの開放感と満足そうな笑顔がとてもよかった。

 近くへ駆け寄って 「素敵でした」とか「安ちゃんの緊張が伝わってきて胸がキュンとしたよ」とか いろいろ言ってもらった。 済んだことは開き直ろう・・・・


7月4日  時差1時間

すれ違う人ごとに 「昨日はよかったよ!」とか あのつたないハーモニカに声をかけてもらった。 普段、あまり話さない人からも 話しかけられた。  本当に音楽の持つ力ということか・・・それとも 一人でステージに立った 勇気に対する賞賛か・・・
昨夜と一変して 人の目が変わったことだけは確かだ。
「先のナレーションで泣けたよ」 といってくれた人。    「あの曲は私の若いころ、(才女)という名で習ったんですよ。紫式部と清少納言のことを歌にしていたんです」と スコットランドのアニーローリーが 日本では 私の思いもよらない歌詞になっていたことも知った。  そして 自分の鎧を外すとこんなにも楽になるんだということも知った。

フランシスコ宮坂さんの「男の履歴書」を聴いた。
お父さんの出身は長野県川中島、庭師としてキューバのお金持ちの庭で働き80歳を過ぎると 通訳として活躍されたようだ。 お母さんは更埴市出身。 お父さんの職業柄、家族がいつも一緒にいる時間が多かったので 宮坂さんの日本語は確かなままのこったようだ。 日本大使館のあるビルの会社役員の肩書きを持ち NGOのお手伝い、移民した家族たちの2世、3世は 日本を、日本文化を知らないので これからは 橋渡しに力を入れたいといわれた。 バティスタ政権を倒し、  カストロとゲバラによって確立された社会主義を 宮坂さんは当時、大学生で カストロらと共に語り、共に山に立てこもり革命を推進した一人である。 革命という響きとは違って 穏やかな紳士、 日本人が2世として 異国の地で活躍されていることを 誇りに思うこんな瞬間が 自分が日・本・人であることを再認識するのかもしれない。

鎌田慧さんの「漂流日本」第四弾、(死刑)について。
デッドマン・ウオーキングという映画を先に観た。 内容が重過ぎて辛い。

パクパク人形のブレーメンの音楽隊の練習。

7月5日  時差、1時間 

「私の履歴書」 ピースボートの中原さんの巻。
お父さんの事業失敗、一家で夜逃げ、 家出、ラーメン屋、 へらぶなのルポライターと
波乱に満ちた青春時代。 6年前 東京の街で、ピースボートのポスターを見て 乗船したのが きっかけとか。 長野オリンピックの折、 表彰台の壁に 長野の居酒屋の看板があり オリンピックの期間だけ 地雷募金のピースボートのアピールに変えさせてもらえないかと 居酒屋さんに頼む仕事が 与えられた。 居酒屋に一週間通い 土下座までして 頑張ったが 許可をもらえなかった。 上司にだめだったことを報告すると 「こんな仕事一つ出来ないのか!」と一喝されたのがくやしくて 涙が出たという。
「上司を見返したくて ピースボートにかかわってきた。 そのころの自分は 英語も出来なければ、カンボジアの地雷募金といっても どこにその国があるのか知らなかった」といった。  そんな彼が 今では アフガニスタンや、パレスチナなど 難しい国際問題に取り組んでいる。 若干 26歳で 400名を越す乗船者とスタッフを束ねている。 大したものだ。

居酒屋、波へいで 握りずしの第二回目が開店。庄治さんと彼の中に割り込んでまた
ご馳走になった。 日本食が恋しい・・・と思わないのがありがたい。 けれども、義母の作る煮物と 実家の母の煮あえはここでは味わえない。

7月6日 

朝焼けが 感動的。 船旅の醍醐味を逃してはならないと 殆ど毎朝、顔も洗わず、カメラを持って飛び出していく。 今朝は、本当に面白い雲の形で カメラにはとうてい 収まらない美しさだった。
最近、初級、中級の英会話に行かなくなった。 日本に帰れば 時間を刻む生活が待っている。 せめてここでは 狭い廊下を右へ左へと移動しないで、したいことを思いっきりセイブしてみたくなった。 皆に迷惑のかからないデッキで 海を見てハーモニカを吹いたりしている。 
キューバが近づいてきた。 午前中に「サルサ」という映画をみた。
陽気な社会主義国、キューバは どんな顔で 私を迎えてくれるのかしら。・・・・

「中国知ってるつもり」 を自主企画したのぞみさんを覗いた。
集まったのはたった3人、しかも1人は途中で帰ってしまった。 のぞみさんは 大勢来てくれると思ったのか 資料をたくさんコピーしてきていた。 
彼女は600人のナビゲーターに出演した 香港近くの会社の人事部長をしている才媛。
私は 数度の中国の旅をしてみて 絶対中国がリーダーとなる世界が近い内に来ると確信している。 すでに来ているのかもしれない。・・・・
観光客として つまみ食いではなく 彼女のように北京大学で学び、生活の場を中国に置いている人の話は貴重である。 さすがに 毛沢東から江沢民まで現代史をすらすらと語った。 パクパク人形の稽古もあり 途中で中座してしまったが こんなことが この船に乗る醍醐味かもしれない。

おくたにさんの企画、「もう一つのヘイジュード」のビデオを観た。
ビートルズのあまりに有名な曲を チェコのマハタ・クビショワさんが 反戦歌として歌い続けていた。  チェコのジャンヌ・ダルクといわれていたクビショワは 自分の身の危険も顧みず、ヘイジュードを通して 戦争の悲惨さを訴え続けたのだ。


チェコの ドフチェフ第一書記が失脚し、一日だけの「プラハの春」平穏を取り戻したかに見えたが、 ソ連軍が プラハの街を占拠してしまい 虐殺が繰り返された。
彼女の音楽活動はまったく阻止され、 人々にも忘れ去られたかにみえたが 地下運動家の心の支えとなり続けた ヘイジュード、ソ連からの独立を勝ち取る原動力となっていたとは・・・・  今、彼女は60歳を過ぎたように見えたが、 若者たちのセックスシンボルとしてもてはやされた 華奢な美しさとは違って、 数々の困難を乗り越えた美しさで 深みのあるヘイジュードを 歌っていた。  歌の持つ、音楽の持つ力をまた一つ、
思い知った。  娘の冴も この道を選んだからには 人の心に残る歌を歌い続けてほしいものだ。・・・・・

7月7日

七夕大運動会。
14時から 運動会。 昔から運動会の大嫌いな私、出身地別に 応援の練習が ここ数日されていたが 一度も出席しなかった。 とはいえ 青組のエリアに入る私は、渡されていた青い紐を首に巻いて デッキに出た。 今日のランチはデッキランチ、幕の内弁当が配られて、日差しの強いデッキで食べた。 発泡スチロールに弁当箱を使用しているのが 気になる。

環境汚染をテーマにもしている団体なのに・・・・食べてしまうと クーラーの効いた薄暗い部屋へ 入ってメール日記の遅れを取り戻す作業に没頭した。


それでも デッキでは華やかに応援合戦をやっていると思うと、写真でも撮りたくなって出かけていった。 なにより、 広いとは言えないデッキで どんな大運動会が出来るのか見てみたくもあった。  暑さをものとも思わない乗客たちが 赤組、青組、黄組、白組に分かれて いつ、どこで練習をしていたの?と思うような応援合戦が 行われていた。
障害物・パン食い競争を見て、また部屋へ戻ったが 組体操など、本当に運動会顔負けの種目があり、優勝チームには バーで飲み放題ということだ。面白いことに、青組の打ち上げは22時30分から東京まで、白組は神戸までなどとパレット新聞に書かれており
エスプリの効いた企画につい、笑いを誘った。


今夜の夜空は 七夕にふさわしく 天の川が くっきりと現れて 星たちの饗宴会を観ている気がした。短冊に私の書いた言葉、「日本に帰ったら、浦島太郎になっていませんように・・・」

7月8日

「ブリッジツアー」に出掛けた。

毎朝、7時8分になると 慇懃な口調でアナウンスをする徳本さんが 操縦室を案内してくれた。

意外と機器はあっさりとしていた。

海図は鉛筆で書き、消しゴムで消してまた情報をチャッチして1時間ごとに書き換えているとか。

方位優先のメルカドル図法を採用し 電子チャートを使って記録されている。

 

スエズ運河の使用料を聞いたら なんと 700万円ぐらいとか。

多少の差はあるが 寄港地の港の使用料は 平均300万円といった。

だから 遅れた人を待っているわけにはいかないんだ・・・・

16チャンネルで 海賊情報も 入ってくるそうだ。  「昨日もあったんですよ」といった。

16000トンのオリビア号は平均18ノットで進んでいた。

製造から 26年経過していて 各トイレの便器は 当時最新のものであったとか。

 

スタッフは 4時間勤務、4時間見張りをしたら 4時間休む。 船が出港してクルーズの間、

休みなくそのシフトが続いているわけだ。

また、横揺れ防止装置は 120年前、日本の工学博士が考案した。 世界の船は彼の考案した技術を用いていたのだ。

 
「北極の魅力」という報告会に出た。
出発前、北極のOPをとるか随分悩んだが55万円の上乗せということもあり、あきらめてしまった。 費用の件もだが スエズ運河、アムステルダムを オーバーランドして オスロで 合流ということになり、スエズ運河などの 船旅ならではの魅力を外すことも、
もったいなくて 取りやめてしまった。・・・・が、報告会の映像を観て こんな経験めったに出来なかったんだ・・・と残念、無念。 ぬいぐるみ状態の白熊がノタノタと掘削船に近づいてきた様子は、まったくかわいい。 こんなかわいい白熊に カメラマンの星野さんは殺されてしまったのか・・・とも考えながら観ていた。 流木で作られた最北の郵便局、流氷の青みがかった幻想的な白、へばりつくように咲く蓮華色の小花、 北緯80度を越す初夏の風景は まさに幻想の世界であった。


北極メンバーで パーティーをしている映像が出てきた。 流氷でオンザロックをしていた。 グラスの中で氷がパチパチと 音を立ててはじけるのだそうだ。
北極に参加した 辻畑さんに「そんないい思いをしていたの?」というと 「安ちゃんがきっと羨ましがると思ってそのことだけは言わなかったの・・・」といった。
そういえば、辻畑さんの話を部屋でしていたとき、 「(スジャータさん)って聞こえる」とサトちゃんが言い出したので 以来、辻畑さんは スジャータさんになった。
彼女はスジャータという名がとても気に入ったようだ。
釈迦が悟りを開いたとき、最初に粥のような汁をささげた女性の名がスジャータさんだったこと、名古屋製酪という会社が コーヒーのミルクの名にして売り出したことなどを彼女に話したら、 「スジャータさんに恥じない女性になるように努力するわ」といった。

パクパク人形の練習は、入港の11日が迫ってきたので 皆が真剣になってきた。
私は、カンボジアでガイドに (上を向いて歩こう)を吹いてと請われた話をした。
ロバが出てきて、犬が出てきて、猫が出てくるたびにワンフレーズを皆で口ずさめば 最後には 子供たちが覚えてくれるのでは・・・と提案すると 採用となった。
スペイン語のセリフもレクチャーしてもらい、字幕スーパーのように ロシア語を紙に書く作業も出来てきた。 バックの家とか、木もクレヨンで書きあがった。
被爆に苦しむ子供たちとしばし、楽しい時間を共有することができればいいのだが・・・

アンドゥー君の企画、「日本縦断したときの話」を聴いた。
彼は、乗船してすぐに 気になった人。 息子の友人のイイチロウに こんなに似た人がいていいの?というぐらい似ているのだ。 高三のとき、10泊11日で 鈍行列車のみで 北海道、九州、四国を笑いと涙の旅をした。 いい青春をしているナ!!!

沢知恵さんの ラストライブが 行われた。
彼女は乗船以来、毎日7時から9時はリハーサル、ライブ前の日は午後の殆どの時間を
リハセッティングとリハーサルに使っており ミュージックホールを使いたい人たちにとって、 なんで彼女だけが特別待遇で ホールを独占するのかと文句を言っている人たちも大勢いた。 私もそう思っていた。 
けれども、反面 プロ魂も感じていた。 最高のステージを作るために出来る最大限の努力をしているのだ。 娘の冴に見せたい根性だ。
「こころ」というCDをライブの後 並んでサインをしてもらって買った。

7月9日 (火)  時差1時間

「パン屋 パン好き集まれ」という私のための企画のようなことを 考えた人がいた。
ヒロイチ君という 若者。  12・3人が やってきた。
例の「多治見のパンフレット」がここでも役に立つ。 皆に配って自己紹介。
さすが、パン好きが集まっているだけにパンフレットの天然酵母パンを見て 「食べたい!」の連呼。 パン教室の先生あり、軽井沢のパン屋に勤めていた人ありで すごい情報。
神戸の、コム・シノア、渋谷のルパン、四ツ谷デパ地下の浅野や、ホテルオークラのクロワッサンなどなど・・・ポンポンと出てくる。  パンを作っています!といっているのが 恥ずかしくなってくる。 中でも耳寄りなのが 「パンの会」という全国組織の会報誌があり、年4回発行されて、情報が満載されているとか。
「パンの会」とパソコンで打てばHPが出てくるとも聞いた。 
パン好きのこだわりは とにかくすごくて、 寄港地ごとに食べ歩いている人、 船の食事はしないで パン屋がオープンするのを待っているとナオちゃんがいった。

ナオちゃんは 私のマスコット、 カンボジア以来 OPなど不思議と一緒になる子だ。

同じようなアンテナを持っているのかしら・・・・


寄港地ごとに報告会をしていこうということになった。
全員一致で食べたいパンが あんぱん!!!  オリビア号でも 毎日職人は1時から働いているという。 朝食のパンの山をみるたびに 切ない思いが湧いてくる。

パクパク人形の練習時間に キューバが舞台の「老人と海」の映画が上映されていた。
見られないのが残念!!

7月10日 (水)

ベルファーストを出てハバナまで 長い無寄港地航海のため 船内は 節水を呼びかけている。 トイレの水を流すと赤茶けた色になっている。 白いものを洗濯すると 色が付くほどだ。  寄港地で買う水と 海水を真水にする装置で約800人の水をまかなっているわけだ。 一日当たり 何トンの水を使うのかしら?
「ブルース・ブラザーズ」という映画を観た。
英語講座を放棄すると ハーモニカや イルカウオッチングや 映画など
束縛されない時間が作れるようになった。 

「囚われた5人のヒーロー」と題して ヤエル・ポッタさんのお話を聴いた。
 アメリカにスパイ容疑で捕らえられたキューバ人5人を救おうと 嘆願の署名を皆に
訴えていた。 私は フランシスコ宮坂さんに 折り紙、学用品、などを差し上げたが
自分の出来る範囲のことにとどめようと思って 書名はしなかった。
政治のこと、国際情勢のことを薄っすらとしか 解かっていないのに その場の雰囲気だけで サインをするのは 危険な気がした。

18時半 誕生日会に招待され出かけた。
大阪から参加している 高木さんご夫婦からの招待。 2人はカンボジア以来の方たちで
チャッカリおにぎりを作ってピクニックに出かけた大阪人だ。
10人の招待客の内 9人は社交ダンスの仲間、部外者は私だけ。 たまに 小さめの別室から おめかしして 出てくる人を見かけたりしていたが 今夜は高木さんのおかげで
新しい体験が出来た。  結婚式の披露宴のように 席順が決められていて、一番末席の指定されたところに座った。
献立は 食前酒   梅酒
    先付    順才彩り素麺
    小鉢    珍味三種
    お椀    合鴨葛たたき
    造り    鯛 牡丹海老
    焼き物   一口牛のほう葉味噌焼き
    煮物    鰻柳川仕立て 道明寺庵
    揚げ物   鰈から揚げ
    食事    鮨盛り合わせ
    止椀    赤だし汁
    水菓子   芋羊羹
シャンペン、ワイン、日本酒と 夢のような食材だった。  
けれども、 高木さんの66歳を祝う会にしては 話題がお粗末、 主賓となったダンスの先生の女性は 高木さんを主人公とはせず、 ひたすら今まで乗った船の自慢話に明け暮れた。  その上、 マネージャーとして ウクライナのスタッフの指揮を執っていた徳本さんに ピースボートの不満を訴える会に早代わり、 私は端っこに居たこともあり、イライラしながら 注がれるままにシャンペンやらワインを飲んだ。
「もう、ブツブツはそれくらいでいいんじゃない?」とばかりに 立ち上がり 「一曲お祝いを!」といってハーモニカを取り出した。  
黒田節を吹きかけたら 酔いがまわってきて しどろもどろ。 とはいえ、 皆が歌いだしてくれたので なんとか最後まで吹いた。

それをきっかけに お祝いの会は終わった。

デッキでは  プロダンサードミンゴさんの指導で 老若男女が サルサを 明日のキューバに向けて 踊り狂っていた。

7月11日  こんにちは(ブエナス・タルデス)
 
 ハバナ入港 11時
アメリカは キューバに入国すると 6ヶ月間はアメリカに入国拒否という 経済制裁措置をとっているとか。 ピースボートがアメリカに寄らないわけが解かった。

ハバナ港に 入っていくと 左舷側に カスティージョ要塞が見え、旧市街と 新市街が 一目で分かる情景が 広がった。 アメリカの制裁を40年に渡って受け、旧ソ連の衰退で かなりのダメージを受けながらも 国民に 教育と医療を無償で与える 社会主義国。
フランシスコさんからも 物の無さを聞き続けていたが ビルの林立する様子からは 計り知れなかった。


スジャータさんと一緒に自由行動、入国審査が終わると二人で昼食も採らないで飛び出した。 何と暑いこと!!! 市場へ行ってみようと歩き出したが 旧市街の広さが掴めない。 馬車の客引きが うろうろする私たちに近づいてきた。 たまらない暑さもあり私は、なかば強引にスジャータさんを馬車に誘った。 客引きのガイドは 二人で1時間20ドルといった。二人で10ドルなら乗るというとそれはだめだといった。
14ドルで手を打って クラシックな馬車に乗った。 御者の隣に乗った30歳ぐらいの陽気なガイドは 鉄道中央駅や、革命広場などを英語で説明してくれた。 ヘミングウエイの 愛用したレストランに入った。 カウンターの隅にチェーンで囲ったヘミングウエイの席を写真に収めた。 赤いコスチュームの年配のバーテンダーは 格式ある雰囲気の店にとてもマッチしていた。 ヘミングウエイの愛した「ダイキリ」をここで飲もうとガイドにいうと 「ここは高いから止めたほうがいいよ」といった。私は 高くてもいいから その場の雰囲気を楽しんでみたかったけれど キューバ人の平均月収が12ドルと聞いていたこともあり それ以上はいえなかった。


ほぼ、一回りして  彼の薦めるレストランに入った。 スペイン建築の石の丸い柱がそびえる パティオの中は 木で出来たアンティークな机と椅子があり 、大きな木でうっそうとしていた。   「ダイキリ」を注文して 席に着いた。ガイドにもご馳走した。・ 
パイナップルのスライスをグラスの淵に飾ったシャーベットタイプのラムベースのカクテルはとても美味しかった。 4ドル。こちらの生活レベルからしたら何と高いこと!!!
突然 すばらしい声が響いてきた。 黒人の歌手なのだろうか?・・・・私たちの席に近づいてきた。 バンドも マイクもなく 鼻歌のように歌う声量にはあきれた!!!!!
ダイキリが 効きだして 彼女の歌に合わせて踊りだすと ステップをレクチャーしながら 歌ってくれた。  こんな歌声、娘に聴かせたい!!!!


彼女はCarmen Flores といった。
CD
を10ドルで買って レストランを出た。  そこはもう、市場に近いところではあったが 1時も過ぎてお腹もすいた。 ガイドに安くて美味しい店を紹介してというと 馬車を降りて 歩き出した。 石畳の路地を曲がるごとに 小さなレストランがあり ラテンの生演奏が聞こえてきた。 もう気分は異次元にタイムスリップ。 クラシックなホテルに入った。 修道院を改装したホテルというだけあって 映画のひとこまのような空気が漂っていた。 1泊60ドル、2人なら80ドルといった。 ここで食事かと思ったらまた、歩き出した。 
たどり着いたレストランには ピースボートの連中は 誰もいなかった。 それだけでもうれしい。  席について 魚料理を注文した。 ここでもラテンの生演奏が始まった。 8人ぐらいの編成。 30分ほど演奏すると、かごを持ってチップをねだりに来た。  「日本人か?」と聞いたのでそうだというと 「 僕には日本人の友達がいる」といって隅の席を指差した。 ピースボートの女の子が もうすでにここで バンドの人たちと友達になっているのかと思った。  「よかったらこちらに来ない?」と手招きするとやって来た。      斉藤恵子さんといって 川崎からラテン音楽を勉強に来た27・8歳の人だった。 大学ではマリンバを習い、クラシックとジャズぐらいしか 知らなかったという彼女は 単身でキューバに来るほどの 何かがラテン音楽にあったのだろう・・・・


「どんなところに泊まっているの?」と尋ねると、 「一泊3000円で朝食付、でも月契約だから 少し割引してもらっているの」といった。  更に 「じゃあ、昼とか夕食は 外食ばかり?」とつっこむと 「水だけ飲んでる日もあります・・・」と答えた。
もうすでに、自分の娘と重なってきていて 「きょうの昼ごはんは食べたの? 」と
母親のセリフ。  コーヒーをご馳走して 更に、根堀り歯堀り。
どう見ても
物静かで ラテンという感じではない雰囲気だ。 

 男女のペアーが ラテンのリズムに乗って踊りだした。一日おきに専門学校の授業があるそうで、 他の日はこうやって 耳を肥やしているのだろう。7月の終わりに、大きなフェスティバルがあるとかで それを観てから 日本に帰る」といった。 私たちは持っていたチョコレートとかガムなどを彼女に渡して別れた。 

いつの間にか 雨が降っていた。  雨宿りに 軒先のある建物の前にしばらく立って、様々な皮膚の色の子供たちが 元気に遊ぶ姿を眺めていた。 
 少し小降りになり 雨に洗われた石畳を歩いていくと あちらこちらから ラテンやサルサの生演奏が聞こえてきて、 まさに キューバに「居る」ことを肌で感じた。 先ほどの雨は蒸し暑さを増すだけで (ダイキリ)が恋しくなった。  

「私、どうしてもCarmenFloresの歌をもう一度聴きたいの」とスジャータさんに訴えた。 
彼女も同じことを考えていたらしく すぐに意気投合。 同じような石造りの建物で 記憶を頼って右往左往、 彼女の
CDを見せたり、スジャータさんのデジカメを見せたりしながら 尋ねると みんな違う方向を教えてくれた。


暑さも 最高潮となり 私だけがこだわり続けているのなら スジャータさんに申し訳ないと思い、 船に帰ってシャワーを浴びることを提案した。 そこはハバナ大聖堂の前であった。 「安ちゃんは ここで休んでいて。私この辺りをもう少し捜してみる・・」といって スジャータさんは行ってしまった。  同じアンテナを持つ者同士が行動する安堵感を 疲れと暑さのなかで味わっていた。   教会の石の階段に腰を下ろしていた脇に 中学生ぐらいの女の子が二人座った。 二人のスペイン語の会話を何気に聴いていた。
ひょっとかしてCarmenを知っているかもしれないと思って CDを見せた。
雰囲気で知っていそうだと思った。 彼女の歌うレストランに案内してくれない?というと 少しは英語が判るようで 「連れて行ってあげる」といってくれた。 
スジャータさんは まだもどって来ないので その間 英語とスペイン語のわけの判ったような判らないような会話をお互いにしていた。 突然、一人が「私の家に来ない?」と英語でいった。 
すかさず「行きたい! 連れてって!」

見つからなかった・・・と汗だくで帰ってきたスジャータさんに
「これから この子達の家に行くことになったのよ」 というと事情の解らない彼女は目を白黒。


 女の子たちの家は教会からそんなに離れてはいなかった。深めの緑色にペンキを塗った木の扉を開けると古ぼけたソファーが一つ。  女の子たちはソファーにかけてといった。
辺りを見回すと テレビがあった。 壁には 6号サイズの小さな女の子のセピア色の写真が 掛けてあった。 「あなたの小さいときの写真?」と聞くと 
「おばあちゃんの2歳のときの写真だよ」といった。  ふくよかで 愛ぐるしい写真を見ていると おばあさんが 出てきた。 「おじゃましています!」というと 73歳というおばあさんはマリアさんという名前だった。

 

 よく見ると とても品のいい顔立ちのかたで 写真といい 今のおばあさんといい とても美人といって褒めると 奥から一枚の写真を胸に抱いて しかも抱いた写真と一緒に体を横に揺らしながら・・・・そのしぐさのかわいいったらない!!!!!
その上、その写真にチュッとキスまでした。 「見せて!」と覗き込むと 何と日本人。
背広を着て 帽子を被っていた。写真の淵は角もとれて かなり傷んでいた。
彼女たちの説明を総合すると 写真の男性は 移民してきた日本人で マリアおばあちゃんの旦那さんだった。 写真の年は24歳のときで 36歳で亡くなったようだ。


Carmen
捜しが このような形で 日本人をかって夫としていた女性に引き合わせてくれたのか・・・・・と思うと感慨深い。
なにより 未だに亡くなった日本人の夫を思い続けているのを目の当たりにしたことで こんなに感動できる私は、 私自身「日本人」だと再確認する機会でもあった。

2人の女の子のサルサ教室が始まった。」ドンくさい私は何度も注意された。 
やがて
マリアおばあちゃんとも一緒に踊って遊んだ。スペイン語をもう少し話せたら・・・と思いながら。  

「そうだ!いいことを思いついた!」  

明日、チェルノブイリの子供たちの前ですることになっている 「ブレーメンの音楽隊」の台本を出した。  私のセリフは 「あいつら 泥棒だよ」とか「仕事もしないで寝てばかりいるので 家を追い出されちゃったんだ」などというもので  一向に こんな時の 会話に役に立たない。 そこで思いついたのが 「ブレーメンの音楽隊」のお話を全部、一人でやってみよう!ということだった。 通じているようで、 おばあちゃんと 2人の女の子は 身を乗り出して聴いてくれた。


折り紙や、私のハーモニカでしばらく時を過ごした。 女の子は サルサのリズムをとる竹の楽器を私にプレゼントしてくれた。 その楽器はすでに 市場で買っていたが
「もう、買って持っている」というのは好意を無にしそうだった。
何もなさそうな家の子等からいただくプレゼントは 本当にうれしい!!!!
マリアおばあちゃんとお別れして 彼女らにCarmenの歌う店まで連れて行ってもらった。
おばあちゃんは 振り返ると 緑色の木戸から首だけを出して いつまでも見送ってくれていた。 


両方の頬にキスをし合って かわいい少女たちとも別れた。
やっとたどり着いたレストランでは 違ったラテンのバンドが演奏を始めていた。 Carmenのことを尋ねると 「明日またやるよ」といった。
昼間の時間に契約しているんだ。 だから 尋ねる人ごとに 違う店を教えるのかと納得した。  散々しゃべって 踊った後の「ダイキリ」は 格別美味しかった。

船に帰り シャワーを済ませ 夕食をとった後、再びシャトルバスに乗ってハバナのNGOとピースボートの企画の サルサ・フェスティバルに出かけた。
新市街地域の 高級住宅街にある 会場の建物はステンドグラスをふんだんに使った
非常にレトロな建物で 芝生の広い庭には 大きなアンプなどの 音楽機材が用意されていた。  双方のスピーチばかりが やたらに長くてうんざり、 10ドル払っている有料の会のわりに ピースボートの素人達が 阿波踊りのようにステージで踊っている感じがして スジャータさんと出てしまった。 こんなことなら Carmenの夜のステージを突きとめて 出かければよかった・・・・といいながら。
スジャータさんは 明日は「キューバ文化の魅力に迫る」というOPで 旧市街で自由時間があるから もう一度 マリアおばあちゃんを尋ねてみたいといっていた。

 

7月12日

用意されたバスはフォード社の最新のもの。 日本でも乗ったこともないようなバスだった。  フランス人が設計した海底トンネルを潜ってバスは バラデロビーチ近くの タララという地域に40分ぐらいで着いた。 
施設は 老朽化しているとはいえ、 よく手入れされた芝生の中にあった。

 旅に出る前、OPを決めるとき 迷わずチェルノブイリを採っていた。  私の町へ チェルノブイリの惨状を訴えに来た方の講演を 私は何度も聴いていた。     

 広島に原爆が 投下されたとき、父は 負傷兵として 呉にあった陸軍病院で手当てを受けていた。
戦艦日向の通信士だった時、見張り台に立っていて負傷したのだった。 終戦になり復員して 間もなく結婚して私が生まれた。 「原爆」は 私にとって決して人事ではない。  今現在でも ゴビ砂漠のかなたで 核実験が密かにされたり、 日本の中でも
あちらこちらで 放射能漏れの事故が起きている。 地球の裏側の出来事ではないのだ。
アメリカからの経済制裁、旧ソ連の崩壊による援助停止にもかかわらず 世界一の医療技術を使って チェルノブイリの病んだ子等を受け入れ続けている寛容な{姿}というものをみてみたかった。

待っていた子供たちの中には 髪の毛がまったくなかったり、ケロイド状の火傷の跡が見られる子らもいた。スペイン語、ロシア語、英語と訳しながら、歓迎の挨拶が続いた。
  
このタララの療養所は 1990年に建てられ、すでに19000人のロシア、アルバニア、チェルノブイリなどの人達が 治療を受けたという。 1993年からはウクライナの子供たちと キューバの糖尿病などの病気の子等に限って治療にあたっているようだ。
ウクライナから年に4・5回飛行機が飛び、一回に150人の子供たちが運ばれてくるという。
ウクライナの民族衣装を付けた子等が ダンスを披露してくれた。 将来船長さんになりたいという 小さな男の子が 詩の朗読をした。 紙で作った水兵さんの帽子姿が とても愛らしかった。 朗読が終わって帽子を外して礼をした。 彼の頭の毛はまったくなかった。 船から同行したウクライナのクルーたちも 歌や演奏をした。


そして、私たちのパクパク人形の番が着た。  一枚でも写真がほしいと思って 隣の席に座っていた女の人に 「お願いできますか?」というと 「他の人にも頼まれているんです」と   ムッとしたような返事が返ってきた。  確かに彼女の膝には2・3台のカメラが 乗っていた。 彼女の言い方にびっくりして 「じゃあ、結構です・・・」というと 「人形劇に出られるんですか?」と少し面倒くさそうな言い方で又、言われた。
「そうなんです・・・」と内心頼むんじゃなかったと思いながら返事をした。
「一枚でよければ・・・」と又言葉が返ってきた。 「すみません、お願いします」
普段でも、廊下などですれ違ったとき 挨拶をしても返事がない女の子だった。

気を取り直して 「ブレーメンの音楽隊」が始まった。 (猫その2)の役も マリアおばあちゃんの家の特訓が効いたのか 何とか無事終わった。
「幸せなら手をたたこう」を身振り手振りをまじえて 黒い幕の中から飛び出した私たちとウクライナの人達、キューバの人達、 そして先ほどの愛想の悪い女の子のような (チェルノブイリの子供たちと交流)という OPとして来ている人達とが 大合唱をした。
汗だくで 席へ戻ると カメラを預けた彼女は 驚くほどの笑顔で
「ごくろうさま!とってもよかったですよ。 3・4枚は撮りました!」といった。
「ア・リ・ガ・ト・ウ・・・」と面食らった私は答えた。

交流会が済むと 病棟見学に出かけた。 
まずは、独立した一軒の家のような 建物の中に入っていった。
そこにはまだ手術間がない男の子が 足に器具を付けられて椅子に掛けていた。別の男の子は 一見どこも悪くはなさそうに見えたが 説明によると 生殖機能が損なわれているという。

  このように 
、直ちに治療に当たらねばならない子等は 家庭に居るような環境を作ってあげて
親と一緒に生活をする。 カウンセラーと心理面も同時に治療をしていくという。その上、
付き添いの親も治療を要する場合はしていくのだという。

、全体の17%にあたる子等で 入院を必要としている。  15人に1人の割合で ウクライナのガイドに世話をしてもらっている。 3〜6ヶ月滞在。
  3、60%に当たる子等で 入院を必要としない子等で やはり、 15人の1人の割合で 32の家に滞在。 ウクライナカンパニーという会社により  運営されている。

、20%の子供達で 45〜2ヶ月滞在している。

 14件の心臓手術、7件の骨髄移植が 今までになされ、白血病や甲状腺がんの治療もされている。 サイタイ血というお産のときの母親の胎盤から出る物質を使って 皮膚にしみ込ませる方法もとられている。 
その他、チェルノブイリ症候群という 精神的な治療には 美しいタララのビーチなどの環境が 効を奏している。
もう一つ 注目すべきことは、 子供たちが自分の国に帰って社会復帰が出来るように
ロシア語の教育もされていることだ。

・・・・などと 施設と病院とハバナ市内のリサーチセンターが 一体となって治療にあたっているという。 
まったく、無料で治療をしている国は世界でキューバ一国だけ。 日本の政治家も海外視察に出かけるならば このような国を観て勉強し、議員同士のあら捜しをしていることがどんなに恥ずかしいことなのかを 自覚しなければいけないのでは・・・

 タララのビーチに出た。 ココナッツ椰子の林の向こうは 白い砂浜と青い海が 広がっていた。 ランチボックス(美味しいとはいえない)で昼食。 直ぐ脇では魚や肉を焼く香ばしい匂いが漂ってきていて ピースボートのセンスのなさを感じた。  お金を出せば買って食べることは出来るのだが そんなわけにもいかず、匂いをおかずにした。

 凧揚げの準備を「もみじの手」のグループが始めた。 白い無地の凧に思い思いに ウクライナの子供たちは絵をクレヨンで描いた。 日本とキューバとウクライナの国旗を描く子もいた。

 私のところへ 父親に連れられてきて 「何か描いてやってほしい」といわれた。 凧一杯に オレンジのクレヨンでヨットを描き、青のクレヨンで海の波を描いた。
「君も描きナ!」というしぐさをすると やっとクレヨンを持った。 小さな太陽を描いた。 「ヨットの中も塗ってよ」というと 帆はグレイ、船は黒く塗った・・・・
6・7歳の坊やが こんな暗い色使いをするのか・・・と改めて思うところがあった。
それでも、坊やとお父さんと私のサインを入れて仕上げると とてもうれしそうに抱えていった。 シャボン玉も持っていっていたので 遊んでくれた子もいた。


凧揚げには もってこいの風で 真っ青の雲ひとつない空に 色とりどりの凧が20個も揚った様子はチョベレ!ベルフェクト!ボニーシモ!シ・セニョール!(共に素晴らしいというスペイン語)  中には海の中に入って凧を揚げている子等もいた。  私もTシャツとズボンのままで 海に入り 凧の紐を一緒に引いた。
帰り支度をして 新品のフォードのバスに乗り込もうとすると 砂で汚れた私の姿を苦々しげに運転手は迎えた。


そういえば、ピースボートの停泊している近くの石畳の教会の広場で 昨日、二組の新郎、新婦を見た。 付き添いのおしゃまな女の子たちを新婦の白いドレスと黒い肌が新鮮なキュートさだった。

 機会があったら もう一度訪れてみたい・・・・今度来ることがあったら、ヘミングウエイの軌跡をたどってみたいし、 革命家ゲバラにもう少し迫ってみたい。カストロと共に革命を成功させながら 暖かな布団をよしとせず 「別れの手紙」をカストロに送って キューバを去ったゲバラに・・・・・

7月13日

サンアントニオ岬を朝6時に通過。
パナマ運河に向かっている。  スジャータさんはマリアおばあちゃんに再会は出来なかった。 どうしても 家が見つからなかったそうだ。 
あの笑顔は幻だったのだろうか・・・・
ヒロイチ君の「パン屋パン好き集まれ」は キューバで手に入れてきたナオちゃんのパンをみんなで試食。 やわらかな 甘めのパンだった。 私たちがタララのビーチで食べたパンは 5日前かと思うほどパサパサしていたのだが ・・・

「花はどこへ行った」を英語で歌おうと 先日のオクタニさんの企画に触発された人達がサークルを作った。 私もハーモニカで参加してほしいと頼まれたので OKといった。
ハッシーというギターのうまい人を中心にウクレレとオカリナで ミニ楽団が出来た。
ハッシーは アドリブを入れて吹けというので 海を見ながら 新しい分野に挑戦。  まったくの即興は出来ないので 自分の思いついたメロディーを 五線譜に移していった。
自分の思うままに編曲するって結構たのしいもんだということを初めて知った。
今までは とにかく譜面通りに吹くことばかりに気をとられていたのだが・・・・

「サルバドル」という映画を観た。 
次の寄港地 エルサルバドルで 10年前まで激しい内戦が続いていた。 アメリカ人の「特ダネを求めた新聞記者」を主人公に 内戦の悲惨さを描いたものだった。 

「輝け 我が家の自慢料理大賞」 という応募企画が パレット新聞に載った。
大賞は オリビア号定番メニューになり お友達とフルコース6名となっていた。
応募用紙に書こうとしても 頭の回路が寸断状態で スパイスの名前ひとつ浮かんでこない。 こんな調子で自分の仕事に戻ることが出来るのだろうか・・・・



7月14日 (日)  時差1時間

揺れがひどくて 仮死状態。 
それでも ホセ・ホドリゲスさんの 「エルサルバドル事情」の講座に出た。
今まで、色々な講師の話を聴いてきたが 一番感激した。 通訳を通すとワンバウンドするせいか いつも少し気が抜け気味な内容になりがちなのだが  スペイン語の通訳を通して 聴いていても 彼の思いが伝わってきた。 サルバドルの映画がダブっていた事もあったかもしれないが  彼自身の民族としてのアイデンティティーが沁みてくる思いだった。
 
エルサルバドルについて何も知らなかった私は 彼の話を 大まかにメモをした。
エルサルバドルという意味は スペイン語で「救世主」。 度重なる独裁、クーデター大、地震と あまりに似つかわしくない歴史をたどってきた国のようだ。
ホセさんは 「色々なことがあっても 強く生きてきたことを強調したい」と冒頭にいった。
人口500万人、一平方メートルに300人。14政党あり 5年ごとに選挙。
BC
1200年には サルバドル人が存在していた。
彼らは自然と共にマヤ族の子孫として 生きてきた。  
BC
250年 イロバンゴ火山が噴火し、国土の半分が埋まってしまった。
地形は変化したが 火山灰が肥料となり農業の発展となった。


1522年 スペイン軍が侵入。  黄金を求めて。 しかし サルバドルには黄金はなく 労働力はあった。 アフリカから奴隷を連れてきたスペイン人は 先住民の上に アフリカの奴隷を置き コーヒー、棉、カカオの栽培をさせた。  それは 民族の混血化でもあった。    「14家族」と呼ばれる 大富豪を生むことになった。 人口の2%の富豪層が なんと国土の60%を支配していたとは驚きだ。   300年もの間 植民地化したにもかかわらず サルバドルの人達は自分たちの文化を守ってきた。
20進法、独特の医学、 スペイン人のキリスト教とマヤの自然崇拝との混合など。
 
彼は また、 1980年オスカル・ロメロ大司教の暗殺の頃について語りだした。
1981年 ホセさんの父は軍隊に連れて行かれ 4時間後に殺されてしまった。
そのとき ホセさんは10歳だったという。 「しかしながら 時間というものは過ぎていった」と凝縮した時間の経過をこのような言い回しで語った。
 「兄はアメリカに移民、それ以来国には帰っていない」とも。・・・・そうなのだ、 どんなにつらいことがあっても「時間」は

過ぎていくのだ・・・・・・

12年前から状況が変わってきた。 ソ連の危機、1992年和平合意。実際は戦争後の方が困難な時期が来たのだと、 軍人が戻り、強盗団を組織した。
コレラや天狗熱のまん延、ハリケーン、大地震。
    
 サルバドルのことわざに
 「悪いことはひとつだけではやって来ない」というのがあるという。
けれども 彼は最後をこう締めくくった。
「暴力と貧困のなかで 戦った男女がいた。そこから連帯が芽生えてきた。 自分の生活を犠牲にしてまで他人を助けるという。
大地震のときには 3日間食べずに皆が働いた。

歴史はこれからも続いていく、人々は前進していくもの。 サルバドルの人々が強い意志を持った国であることを証明出来た」と。

マヤ族の 真の叫びを聞いたようだった。

7月15日  パナマ運河  

相変わらずの揺れ、  朝食のとき、隣のテーブルに ホセさんと通訳がいた。 通訳に「昨日の講演は今まで聞いたうち 最高のものでした」と伝えてください。というと   
「彼がとても喜びます」といって伝えてくれた。 ここでも 私の知っているスペイン語は 「あいつら 泥棒だよ」とか「仕事もしないで寝てばかりで家を追い出されちゃったんだ」というもので 使えるセリフではない。

パナマ運河のカリブ海側の入り口、クリストルバドルに10時に着いたオリビア号は 順番待ちのために 夕方まで停泊。 連日の揺れで参っていたので じっとしているのがやけにうれしい。 
夕方、薄暗くなりかけたころ  やっとパナマ運河の通行許可が出た。


最初の水門は ガトゥン水門、 3段式の水門を使って25メートルもこの船を上昇させるという。 周りの景色は うっそうとした緑、ジャングルとは呼べないかもしれないが、黒々と木に鳥が留まっていた。 
オレンジ色の明かりがつき出すと、両岸に待機していたトロッコのような車が 太いロープを船に縛って引っ張りながら ゆっくりと登っていった。 アブト式というのか レールに鉄の溝が付いていて一個一個噛み合わせながら登っていった。立山で乗った乗り物も確かこんなのだった。

両サイドの呼吸が合わなければ とんでもないことになりそうだ。

 デッキで二段まで見ていたが 蚊が寄ってきて 足を攻めだした。 虫に食われやすい体質の私は マラリヤにでもなったらたいへんと 夕食のレストランへ逃げていった。 皆、同じ思いなのかレストランは超満員。 30分以上うんざりして並んでいると、 窓の景色が突然変わってきた。 ドンドン持ち上げられているのか オレンジの街灯が 窓から消えていった。
船が山登りをしているようで とても面白い光景だった。


登りきったところに ガトゥン湖があり、 湖の水を送って水位をコントロールしているのだとか、よく考えられているものだ。  夜になって、ガラパコスへ野生動物を見に行くOPに参加する スジャータさんと宮田さんとで お別れの飲み会をした。 ここパナマのバルボア港で 下船することになっている。 ビールとストレートのウオッカで酔っ払ってしまった私は、 早朝2時までかけて ペドロミゲル水門、ミラフロレンス水門を抜けることになっていたのに 寝てしまった。 「しまった!」と眠気眼で デッキに出ようとすると、庄治さんが帰ってきた。 「ものすごく 幻想的だった!!!」と言って。

 彼女は寝ないで ずーと彼と一緒に見ていたのだ。  残念!

7月16日  時差1時間 

夕べの失敗で すでに船は大西洋から太平洋に替わっていた。
メキシコで合流するまで 宮田さんは 部屋を使ってもいいといってくれたので、
メールの遅れを取り戻そうと 彼の部屋へパソコンを持って移動。 宮田さんの一人部屋は右舷後方にあり 四角の大きな窓が付いて明るい部屋だ。 しかし、男性の部屋のトイレを使う気になれず、 トイレに行きたくなると 慌てて自分の部屋へ戻ったりした。
 
パレット新聞に モルジブでお世話になったマニク・ハッサンさんが 急死されたことを報じていた。 小柄で 肌は真っ黒、愛想のとてもいい方で、NGOの活動を熱心にしていた方だった。  モルジブは 一番私はコンディションが悪いときで、「丘揺れ」を忘れることが出来ない。 娘さんの留学先のオーストラリアで亡くなったそうで 離れていた娘さんに 逢ってから亡くなったのなら せめても・・・・と思いたい。


ジャーナリストの工藤律子さんが 水先案内人としてキューバから乗ってきている。
旅に出る前に OPとして 「メキシコシティーのストリートチルドレンを尋ねる」というのを採っていた。 工藤さんが案内人として同行することになっていた。 ティオティ・ワカン遺跡も行くツアーだった。 チェルノブイリの子供たちのOPの後、精神的にかなり参っていた。全精力を注いだ気持ちがあって またストリートチルドレンの居場所をなくした子供たちの中に入って行くのは止めようと思い キャンセルしてしまった。
キューバが遠ざかっていくと また新たな力が湧いてきて キャンセルを取り消しにいった。 ところが たった10名しか募集しなかったOPだったようで キャンセル待ちが大勢いたということだった。 ・・・・・なんと早まったことをしたのだろうか・・・・

「南十字星 星空ナイト」 デッキで南十字星を皆で見ようという計画は天気が悪くて 延期となってしまった。

7月17日

「飛び出せ 芸達者」
一番びっくりしたのは 今のディナーのシッティングで 初老の夫婦がいる。 食事中も めったに話をしない。 この船に乗っていて楽しいの?と言いたくなる2人だ。
その奥さんが 落語をやったのだ。 成人学校で習って12年 小ばなしから
フーテンの寅さんのあの口上を何も見ないで 朗々とやったには本当にびっくり。
その他、 芸者の着物姿でかつらまで付けて日舞を舞う人、ダンスをする人、手品をする人など まさに 芸達者ぞろい。 「花はどこに行った」の私たちも出演したが 芸達者という部門に出るのは 少し変な気がした。 その他大勢の中で吹くハーモニカは気は楽だった。 新しい編曲の試みも入れて吹いてみた。  後で、「今日の安ちゃんは 大人しかったね!」などと言われた。

そういえば、今朝、また不思議な縁が発覚。
先日のチェルノブイリの子供たちの前でやったパクパク人形のことだが、 私たちがスペイン語をパクパクと練習していたとき、 バックの家やら木やらを描いて裏方さんを担当してもらった方がいた。 デッキで朝、海を見ていたら その方も現れた。
「先日はごくろうさまでした」と挨拶をして世間話をしていた。 出身地の話になり、
「お宅はどちらですか?」というと 「千葉なんです」という返事。 「ずーと多治見ですか?」と聞かれたので 田舎の村の名前を言っても 千葉の方に分かるはずはないと
思って 「多治見よりもっと山の中なんです」と答えた。すると、 私よりいくらか年上に見える彼女は 青山さんという名で 「父親の実家が岐阜で 戦争のとき2度も焼け出されて、父の実家へ身を寄せたんですよ」と言われた。 「岐阜はどちらですか?」というと
「八百津というすごい山の中で、隣がないんですよ。」という答え。 「・・・・・私、その八百津で生れたんです!!!」とびっくりして私は言った。 「 4・5歳のときまでしかいなかったので あんまり覚えてはいないけど、牛やらがいて ずい分田舎だったわよ」


もしかしたら、 37回のこのクルーズに乗り合わせた人達は、話していけば皆、
何らかの縁があるような気がしてきた。 パクパク人形からマリアおばあちゃんといい
不思議な「ご縁」を一杯いただいた。


7月18日  時差1時間 (進める)

ホセさんのスピーチに感激した「救世主」という意味の国、エルサルバドルの
アカフトラ港に 天候が悪かったこともあり、2時間送れ、11時に到着。
私は エルサルバドルは素通りをして OP「マヤ最大の遺跡ティカルへ」に行くことになっていた。 内戦が終わって10年足らずのアカフトラ港には ベースや マリンバの民族楽器の音で歓迎されたが やたら 警官の数も多かった。
海水の水位が具合がよかったのか 始めて船からのはしごが陸と水平で5・6歩で陸に着いたのが 新鮮だった。

強烈な暑さの中、マリンバの演奏に見送られてバスに乗った。 キューバと違って 
かなりぼろいバスは フロントガラスに亀裂が入っていた。 ガイドに加え、警官も乗り込んできた。  サンサルバドル国際空港に向かって 11時45分出発。
 
クーラーのフィルターを いつ掃除したのかと思うような 埃くさい臭いをさせて 左に海岸通、右にオクシデンタル山脈(西の山脈、 反対語がオリエンタル、東)を見てサトウキビの畑の続く道をバスは走った。 
映画「サルバドル」のワンシーン、
特ダネ屋の新聞記者が サルバドルの家族を連れて アメリカへ逃げ帰ろうとして
バスに乗り 国境を越えようとしたとき、検問の警官に引き離され 拷問にあう。
「その時、離れ離れになった奥さんと子供たちを 今でも彼は捜し続けている」とナレーションが入って 映画は終わっている。 
そんな光景を思い出させるような
風景が続くと 急に山道になりドンドン登っていった。

トンネルをくぐると、美しい海岸線が遥か下のほうに 見えてきた。8個のトンネルの合間の海岸の景色が サルバドルでもっとも美しいとガイドのドン・リーンさんは言った。
途中の海の見えるレストランで  船から持ち込んだ幕の内弁当で昼食。時間の遅れを取り戻すため 予め、伊藤シェフが腕によりをかけて作ってくれた幕の内弁当だ。
デッキランチで食べた弁当の4・5倍は材料費をかけたのでは・・・と思われる内容だった。 皆も口々に伊藤シェフを讃えた。私はサルバドルのビールを頼んでみた。
結構、 バドワイザーに似た いける味だった。

ガイドのドン・リーンさんは 空港までのバスの中で サルバドルの歴史や彼の家族の話を熱心に語り、エリックというピースボートスタッフが ドンさんの熱さを的確に訳して 私たちに伝えた。  
先住民族、 マヤのアスティカ族がBC以来住んで栄えていた。
1522年 スペイン船団がコスタリカに到着以来、支配下に置かれた。 
1811年 サンサルバドルの司祭、ホセ・マティアス・デルガードが独立を求め蜂起。
 (インディゴの染料に関しても 採集して生活の糧にしていたが、1800年代になると ヨーロッパで人工的に作られるようになって 高価なインディゴは 求められなくなった。  経済は打撃を受けだした。)
1821年 9月15日に コスタリカ、グアテマラ、ホンジェラス、ニカラグアが同時に スペインから独立。 中南4カ国と共に中南米連合を一時的に出来た。
こうして、 現在のエルサルバドルが 出来た。
1840年 コーヒーの生産が始まった。 自給自足の生活からプランテーションの時代を向かえ、大資本家が闊歩するようになった。 
1932年  ファラブンド・マルティーという共産党の活動家と共に 小作人が立ち上がった。 鎮圧により3万人が殺された。 
自分たちの民族衣装を着ているだけで 共産党員といわれ 殺されたという。
ナチスのような 「死の組織」は 「アカ狩り」を した。
映画「サルバドル」にも出てきたが 修道女4人も 強姦の上殺された。
1880年、ロメロ大司教が暗殺された。 民族解放戦線(FMLM)を結成。
アメリカは 政府軍に経済、軍事援助。 


1992年メキシコシティーで 停戦合意まで 大地震が2度もあり エルサルバドルの人々は どんなに 苦渋をなめていたのだろうか・・・・・
ドンさんの母方は ポーランド系のユダヤ人で エルサルバドルは ユダヤ人でも国籍を与える政策をしていたとき、 ナチスから逃れて この地に移民してきた方だった。
しかし、内戦が続き 1993年まで 12年間グアテマラに更に逃れ、現在はサルバドルに戻っているのだとか。

コーヒー産業に頼りすぎた政策をしていたこの国は 最近ではコーヒーの油から シャンプーなどを作る分野と観光に 手を伸ばしていると 少し明るい話もドンさんはした。
先日の講座のホセさんといい、ドンさんといい 戦乱の中で 国のあり方、自分の行き方を模索してきた人達は 何と気高いのだろう。   


150人乗りの小さな飛行機と聞いていたが 待っていたチャーター機はエアバスだった。 空港の売店を楽しみにしていたが、2時間の遅れはここでもフリータイムを奪われていた。   移動の途中に カメラのフィルムを買うだけがやっとだった。(1個が4・5ドル、とても高い)    すでに、60本を超えている。 帰ってからの現像代を思い ためらいがちながら撮っているのだが・・・    チャーター機で乗客は 全部で私たち60名足らず、一人の席は2・5席。 3人がけに殆どの人が1人という贅沢をして 50分ぐらいのフライトだ。
 
天気も良く 景色もクリアー、緑の濃淡の幾何学模様が織り成す 農村風景がしばらく続き、山岳部に入ると とても大きくて美しい湖が見えてきた。  途中で飲み物とサンドイッチのサービスがあった。 アルコールはないと言われコーヒーの国に来ているからには・・・とコーヒーを注文した。 おいしかった! (船の中は食べるものは美味しいのだが、コーヒーは煮詰まった味でうまいとは言えず、いつもリプトンのイエローラベルの紅茶にしている)


着陸が近くなると 下界の様子が面白くなった。 まるで緑のチョコチップが 平らな土地に無数にあるといった感じ、全てが遺跡か?・・・と思うほどだ。 はじめて見る光景に目を奪われた。

TACAと大きくボディーに描かれた飛行機は スコールの過ぎた後、とみられる
グアテマラのフローレス サンタ・エレーナ空港に 4時に着いた。
フローレスの湖沿いの町までのバスからの風景は 火炎樹の強烈な赤とライラック    に似た薄紫の花などが咲いていて、バオバブか?と思うようなずんぐりとした木肌の大木も時々見られた。 

フローレスに着くと 30分だけ自由行動の時間をもらった。 明日はマヤ遺跡観光で
まったく買い物時間はないといわれていた。 こんな小さな町でカードが使えるのか・・・と思いながら一軒の店に入った。 掛けられている織物はブータンを思わせる色使いで感激。 カードが使えることを確認して 何枚か選んだ。
織りBABAの中島さん、鈴木さんらの顔が浮かんで来た。 メンバーの田口さんが新聞に取り上げられて すごく頑張っていると 鈴木さんのメールに書かれていたことも思い出した。  織りBABAの皆と旅行をするなら 次はここだ!と思った。
瞬く間に30分は過ぎ、後ろ髪惹かれる思いで また、バスに乗った。 ホテルに着いたら またここまで戻ればいい・・・と思っていたら バスは更に湖沿いを30分も走り
散歩などで戻れる距離ではなかった。

Camino Real TIKAL というホテルは湖沿いの急斜面にあった。
丁度 夕日が沈む前で、ウエルカムドリンクのフレッシュジュースは メロンとスイカを割ったようなあっさりとした美味しいもので お代わりまでしてしまった。

おりゅうさんと呼ばれている東京の女性と同室になった。
ルームキーを貰い 私たちのコテージを捜した。 マレーシアのランカウイ島にある ダタイホテルと雰囲気が似ていた。5分ぐらい歩いた。 何と フロントからもプールからも一番遠いコテージだった。 夕食までにひと泳ぎと 水着を持ってきたのがうれしい。
遠いコテージからプールに着くと、すでに2人が泳いでいた。 丁度、夕日が湖に沈む時間になり 優雅な気分で水上のバレーボールと夕焼け空を 水の中から見ていた。

着替えをするにもコテージを往復してやっと夕食のレストランへ着いた。バイキングの種類は多くはなかったが 一つ一つが吟味された味だった。ケーキ類もアップルパイやら ローカルフルーツのゼリーなど見るだけでも楽しめた。 


夕食後、ホテルのショップを覗いてみると フローレスの町の値段より数倍高く そそくさと出てしまった。 隣の小さなコーナーで CDを売っていたので入ってみた。 
マヤの音楽を記念に2つ買い、アクセサリーに目が行った。  珍しい石などが使われていたので 数個買い求めた。 グループの人が来て 私の迷っていたものを さっさと買ってしまった。12ドル払っていた。

 

 店員はまったく英語は通じなくて、 数字を紙に書いたり、身振り手振りで値段交渉をした。 現地通貨で975ケッツアル(1米ドルが7・5ケッツアル)だったので 900ケッツアルで交渉成立。  カードで処理を頼むと 909ケッツアルで計算されていた。 9ケッツアルは手数料か?と思ってサインした。  フロントから降りていくと おりゅうさんはバーでお酒を飲んでいた。 ビリヤードをやっている人達もいた。 その奥で 地元の店が出張販売でみやげ物を売っていた。  やはり私は織物が気になるので つい足を止めた。 こんな所ではカードは使えないと思って 2枚選んで65ドルというのを 50ドル丁度で手を打った。     美しい民族衣装を着た売り手の女性の脇に 小さな女の子がいた。 かわいい笑顔だった。
その時、飛行機で出されたサンドイッチを まだ 持っていたことを思い出した。
コテージまでの往復を考えると 少し躊躇したが 傷んでしまうより 少女に食べてもらおうと 取りに帰った。  オーバーなアクションで手を広げ 飛行機のまねをすると 解かってくれたようだった。 
早速アルミを外して食べだした。お父さんらしき人も来て 一家3人で ホテルに行商に来ていたことが分かった。


 また長いコテージまでの道を歩き部屋へ戻った。 懐かしいバスタブにゆっくりと浸かり 明日のマヤ遺跡に備えて 「もう寝よう!」とベッドカバーを外すと 電話が鳴った。
一瞬、おりゅうさんが「バーに飲みに来ない?」と言ってきたのかと思ったら フロントからだった。  「用があるから来てほしい」というのだ。 「今すぐか?」と聞くと
「そうです」と答えた。 時計を見ると11時近い。 家に何かあったのだろうか・・・と思った。 また長い道を行くのかとうんざりしながら 駆け足でフロントに行った。

CD売り場の女の人がいて、本当は990ケッツアルだったと紙に書いて 前のカード会社の領収書を目の前で破いた。 10%も手数料がかかるのか・・・と交渉の上75ケッツアル得したと思っていたのに・・・と不承不承990ケッツアルにサインした。
すると、 それがまだ間違いで12%の手数料だと フロントが言い出した。 もう、買った品物を返したい心境だ。 そこへ 添乗員の伊藤さんが 通訳のCCさんとやってきた。 伊藤さんに事情を話した。  「フロントは ホテルはカード1枚にも現金で買っても12%の手数料を上乗せしている と言っています」とフロントマンの言葉を伊藤さんは訳した。


「でも、さっき私と一緒にネックレスを買った人は 12ドルポッキリで手数料はまったく払っていないんですよ!」 と私は抗議した。 CCの通訳は黙ったままだった。
更に私は、「日本で私は商売をしています。 領収書を出したからには 一時間も経って間違っていました、しかも10%だの12%だのとあやふやなことを(お客様)に向かっていえません。まずは{沢山お買いいただきましてありがとうございました}から始まるのではありませんか? 間違っているのは そちら側なのに 私が遠いコテージから呼びつけるというのは 考えられませんが・・・」と言った。

 
伊藤さんは私のセリフを訳すふうもなく、「間違っているのは ホテル側だから、12%を10%にすると言っています」とだけ言った。  いったいこのホテルについてから何往復したのだろう・・・ 疲れがどっと出てきた。 居合わせている皆に憤りを感じた。
添乗員も付けない旅行をいつもしている私は いいかげんな私の英語でも言いたいことを伝えてきたつもりだ。 遠慮をしていなくたっていいんだ!!とばかりに フロントマンに向かって、 「ミスをしたのは 彼女やあなた達だ。  私がここへ来るのではなく 私の部屋へ あなたが来るべきではないのか?」と英語で言った。すると彼は「夜のシフトは 人が少ないので あなたの部屋へ行けなかった」と弁解した。
言うだけは言ったと思って 「おやすみなさい」といった。   ホテルのフロントを経験していた息子や嫁なら こんな時 私のとった行動をどう思うのかしら・・・などとすっきりしないまま歩いていった。 

やっと、ベッドに入れる、と思ったとたん おりゅうさんが戻ってきた。
お酒も入っていい気分のようだ。 それに比べて 今の私ったら・・・・
ベッドに足を入れると 何だか右足がチクチクする。 何か虫でも居るのかと恐る恐る手を入れると 何とガラスの破片があるではないか!!!!!!
なんというホテルなのだ・・・・


「ウエルカムドリンクを飲んでいたときは なんていいホテル!と思ったんです。 9・11のテロで伸びてしまった息子たちの結婚式ですが、1年遅れ出計画しています。 カリブを予定している彼らに是非、推薦してやろう!とパンフレットを余分にもらっていたぐらいです」と伊藤さんに補足していたことを思い出した。  推薦なんてとんでもない!!!!!
ファミリールームとして使うようになっているコテージのせいか 朝まで隣の部屋の男性の往復いびきまで重なって 恐ろしい夜だった。

7月19日 

おりゅうさんを促して 朝もやの湖を散歩した。 夕べ以来のもやもやが 飛んでいきそうな朝だった。     朝食のレストランへ行くと 伊藤さんは私を人のいない隅に連れて行った。  「安藤さんが帰ってから、ずい分長い間、フロントと話し合ったんです。 こちらが悪かったと言って、こんなものを預かりました」といって 小さな包みを渡した。
更に「グアテマラの五つ星です、まだまだいろいろと至らない点があると思いますががお気を悪くさせてすみませんでした」 といった。

 私は「グアテマラの五つ星」という言い方が気に入らなかった。 仮にもウエスティンの配下にある 外国人を受け入れるホテルなのだ。 とはいえ彼女は (物)を貰ってしまっていた。 私の前で抗議をなぜしてくれなかったのかと釈然とはしなかったが これ以上言い張るのも大人気ないか・・・と木造の置物を貰った。裏には40ケッツアルの定価がが貼られていた。
「そうそう、もう言いがかりとしか思ってもらえないかもしれないけど、ベッドの中に ガラスの破片が入っていたのですよ」と付け加えた。

7時にバスに乗った。 伊藤さんと見知らぬ現地の女性が私の座席に来た。このホテルの最高責任者だと紹介された。 昨日以来の件を詫びて、 また何やら包みを渡した。 「もう、いただきましたので・・・」と困った顔を伊藤さんに向けた。 
ふいのことだっただけに 気の利いた英語のセリフも出ず、 「分かりました」とだけ答えた。  握手ぐらいするべきだったのかしら・・・
包みを開くと マヤの女性がパンの生地を伸ばしているところを 木彫りされていた。
途端に、主人が天然酵母パンを伸ばしている光景と重なった。

今朝までの出来事から気分が転換できたのは、 バスの前に スパイダーモンキーが群れをなして横切っていこうとし、 バスが急停車した時からだった。
こんな素晴らしいジャングルの中にいて 細かいことでとやかく悩んでいる場合ではない。
ナショナルパークのガイド、アントニオさんの声に耳を傾けだした。
この辺りの マヤ族は マヤケチシュ族、マヤモパン族、イッツア族という3つの種族がいて  マヤ文明は いくつもの 宗教的な意味で集合体だったという。 また ホテルの前の湖は チャルツンファン(白い石灰の水という意味)と言った。
20年に一度水面が上がってくるそうだ。 30種ほどの魚がいて 地元の人は獲れた魚をホテルに売りに来たりするとも言った。  ブランコという白い魚はここにしか生息しないそうだ。     
 
ティカルの遺跡を発見した人は ラオドル・マーラというドイツの人類学者で16平方キロメートルに3000の建物が発見されているが 30%しか発掘されていないそうだ。
「ティカル」とはマヤ語で声、エコーという意味。 「声の都」だったのか・・・
時間の単位は 20年を一つのサイクルとしていたという、 湖の水位も関係しているのかもしれないと思った。 

 
ガイドと共に ジャングルの中に入っていった。 思ったより蒸し暑くもなく 蚊のようなものもいないようだ。 道も整備されていた。
空港からたまに見かけたバオバブ風の木は ジャングルの中では とてつもなく大きい。
CEIBAと言う名前で  マヤの人達には重要な木であった。 葉は天国へ、根は死の世界へ続いていると考えられていた。 オルミンゴというマリンバを作る木で7年もの間、水の中に入れてから 楽器にしたという。 セイバの中には バクテリアの一種が付着しているものもあり ものすごいオブジェとなっていた。
また、アマティという名前の木は 紙を作る木だと言った。

ガイドのアントニオさんは マヤ語を教えてくれた。
  マサーラチョール (こんにちは)
  チャリンチャリン (急いで  )
  チャンチャクエル (友達同士 )
  ラウーズ     (げんき? )

私は殆どの寄港地で ベトナムの笠を被っているので すれ違う人は たいてい声をかけてくれる。 税関の人にまで 欲しいと言われたりした。ここでも、そんな人達に
「ラウーズ!」「マサーラチョール」を連呼した。

第一の遺跡に到着。 ジャングルの中にBC1100年〜700年頃まで栄え 忽然と消えてしまった マヤの遺跡が目の前にあった。 カサワカン・カウエル王、通称、アカカウ王の建立したもの。
アンコールワットとは別の感激が湧いてきた。 石灰岩で 50年ごとに 上に被せるように造られていったというから驚きだ。 遺跡によっては 半ば発掘、発掘されない状態と比較できるものもあった。 飛行機から見たあのチョコチップ状の緑の小山は 皆、この遺跡であったのか?とガイドに質問すると 「よくそう聞かれるけれども あれは石灰岩の山に過ぎない」という答えだった。  発掘されていない遺跡は 大きな木が茂ってしまっていて よく見ないと遺跡と判別出来なかった。 

第二の遺跡に到着。 アクロポリスの広場と呼ばれているところ。
高さ、45メートルの修復されていない第1遺跡と 38メートルの
第2遺跡が東西にあり  人や動物をいけにえにした丸い石の台が 不気味だった。 第2の方は登ることが出来るので 挑戦した。 太陽をさえぎるものは何もなく、日焼け止めも塗らない私は すでに、前と後ろの区別ができないほどだ。 南北はお墓と住居といわれていたが 上からの眺めは気持ちが良かった。   降りてくると、添乗員の伊藤さんが 荷物の番をしていた。  私が荷物番を申し出て、彼女の登っていくのをデジカメに納めてあげた。  茂みの中から2匹のハウラーモンキーが出てきた。
人間を恐れない様子なので ここでも「ベティー! サクラ!」  なんと近寄ってきた。

アントニオさんは興味深い話をした。
太陽暦では365日、太陰暦では260日、 太陰暦は農作業に打ってつけであり
差の100日あまりの日が この神殿の建設にあたったのではないかと。
神殿は 漆喰が当時塗られていて 赤、白、青、黄色と彩色されていたようだ。
修復によっては 「今は見ていよう、20〜30年待ってみよう」という姿勢らしく、
時間がいかに ゆっくりと流れているところかが 窺い知れる。

第三の遺跡に到着。  1822年に第3神殿を発見。 高さ55メートル。
ヒスイなどを売買して ティカル貿易の中心地ではなかったか?とガイドは言っていた。
ジャングルの中に とんでもない大きさの しろありの巣を見た。
シロアリの巣に住む鳥がいるようで あちらこちらに穴が開いていた。 巣は燻して蚊よけにしたり 釣りの道具にもなるという。
一緒のグループで行動していた若者が  「フィルムが無くなった、お前、まだあっていいなあ・・・」といいながら歩いているのが聞こえた。 口をきいたこともなかった子だったが 「よかったら使って、私 空港で買ったんです」と申し出た。 困ったときはおたがいさま。

第四の遺跡に到着。 1848年に発見された。 70メートルもあり、22万立方メートル石灰石が使われているそうだ。 
ここだけは 木の手すりが付いていたが この急な階段を登る力は残っていなかった。
先ほど、フィルムを渡した男の子に 「申し訳ないけど、私のカメラを持っていって 写してきてくれない?」と頼んだ。 快く返事をくれたので、先に登ったグループの人達の中に入って 腰を下ろした。 カメラだけが登ることを話すと 隣に座っていたおじさんが 「ぜひ、登るべきです! カメラだけなんてもったいない。手すりがあるから思ったより楽ですよ」といってくれた。  「そうか!もうひとふんばりするか・・・」とカメラを預けた男の子に追いついて お礼を言って登りだした。 なるほど、確かに手すりの力は大きい。 それにしても この手すりの真っ黒なこと! 何万人の手垢なのだろう・・・・


登りきったところは 感動の景色だった。!!!!
青い空と緑のジャングル。 今まで観てきた神殿がジャングルの中から頭を出していた。
アンコールワットも ジャングルの中に こうして遺跡が顔を出していた・・・・
足元はかなり怪しい状態だったが 壁面に掴まりながら360度を廻ってみた。
地上から70メートル近いところから観るジャングルは 言葉では表せない感動だった。
鳥の声がいたる所から聞こえてきて 風に揺れる木々はピカピカと輝いていた。
「登るべきです!」と断言してくれた方に大感謝!!!

第4神殿は BC748年にジキンカ・アンカウナル王によって建立。
第1神殿を造った アカカウ王の息子で、身長は180センチもあったという。 180種類の
7キログラムにも及ぶヒスイのネックレスが出土したとも。  貴族階級の身長は、
160〜175センチメートル、  農民は150センチメートルぐらいであったそうだ。  栄養事情によるのだろうか。 また、当時は 寄り目で、頭が尖がっているのを美人の条件にしたようで 薄い石の板を 頭の前と後ろに縛り付けて 目の前にいつも玉のようなものをぶら下げて 目を寄せる訓練をしていたそうだ。
首長族とか 耳を垂れさせる族とか 世界には滑稽と思われる 美人像があるんだと改めて感じた。  現在の美人像は果たしてどんなのをいうのだろうか・・・・

神殿の構図は ジグザグとへびの動きを表し、王が神になる中間点を表していたとガイドは説明した。 
マヤの人達が 時の流れを記録しだしたのは、BC3114年。 数字学、ゼロ(0)を考え出していた。
近くには、アカカウ王と王妃の人生を刻んだとても大きな石像もあった。 
大きな鳥が2羽、藪の中にいたので誰かが「孔雀じゃないの?」というと
野生の七面鳥だとアントニオさんは答えた。 

「失われた世界」と名づけられた場所へ着いた。
秋分の日、冬至、春分の日、夏至など明確にできる日時計があった。
今でも、マヤ族の人々は 夏至の日に各地から集まってきて 儀式をしているとか。
 また、「失われた世界」の雛形というものが 西暦200年に見つかっていて
プラモデルのようなものを作ってから 建設にかかっているということも解かったという。  
また、ティカルは 4本の大きな川に囲まれていて、地方との貿易に最適な地を選んで建設されていた。 13の高さが違う人口の池も造られていた。 石灰岩で囲った池は
数箇所の仕切りを造り 石灰のフィルターを順番に通すことにより 飲み水として浄化された水に変わる術を 心得ていたのだ。 池の周りには木を植えて 池の水が蒸発するのを 防いでいたとも、アントニオさんは木陰で紙を出し、絵を描いて私たちに説明した。(私の店の下水の浄化装置と同じ理屈の絵であった)

その様子は、 自分たちの祖先を誇りに思う気持ちに満ち溢れていた。
グアテマラの周りには カリブプレートなど3つの海溝があり、 フィーフィー、ミツィー、アイリスという大型のハリケーンにも襲われているが マヤ族は この地が災害のない場所であることを 心得ていたのではないかと 彼は話を締めくくった。

現在、グアテマラは人口1200万人、海抜0〜4800メートル 
民族はヨーロッパからの混血化をしてきたが 4部族が 純粋な血を守っているそうだ。 


7月20日    海の記念日    55歳になってしまった。

 朝、雨模様、
「パン好き集まれ」は エルサルバドルでゲットしたパンを皆で持ち寄って 試食会。
私は グアテマラの 例のホテルのパンを持っていった。 評判は良かった。

「実はメキシコって?」という ジャーナリスト工藤律子さんの講座に出席。
終わりを見計らって 近くに行き、地球の歩き方で調べた 「ピエ・デ・ラ・クエスタ」へ行こうと思っていますが いかがでしょうか?と尋ねた。 イヒー・ニョ・ムノスというメキシコ先住民のかたも やって来て 「とても、美しいところですよ。 ローカルのバスよりタクシーをお勧めします。 20キロメートルぐらいですから」 と言われた。
「地球の歩き方」に 静かに自然を鑑賞しながら のんびりしたいならお勧め、と書いてあった。 明日のパートナーは須崎さん。 乗船して間もないころ、自主企画で 「上海」を取り上げた方。  中国語をたくみに操るすごい女性。 時々廊下などで出会っても 
挨拶もろくに返ってこなかった方。 何かの折、私が話しかけた。 (そういう人になぜか闘志が湧く)  中国から ブータンの話題になり 彼女が興味をもった。 アア・・やっとこちらを向いた・・・というわけで 時々話をするようになっていた。


スジャータさんは ガラパゴスのOPに行ってしまっていたし、 庄治さんは 彼と行動するばかりになっていた。 
 須崎さんが「メキシコ、どうするの?」と聞いてきたので 私の計画を話すと 乗ってくれた。

これで、主人から「絶対、一人で行動するな!」と言われていたことに 申し開きが出来る。

「赤い薔薇のソースの伝説」という映画をみた。

メキシコ映画というので出かけたが 中世のアイルランドを思わせるようなコスチュームだった。 料理のシーンが多くて 興味深く観た。


 夕食のとき、本来はバースデーケーキが 私のところに来ることになっていた。
証明が落とされ ウクライナのスタッフがケーキを持って ハッピバスディー・・・唄いながら 列を作って・・・・
が、予め断っておいた。 今の夕食の席は 話題の合わない人が多くて いつも、
食事が終わるや否や サウナに走っていくぐらいなので ケーキを届けて貰いたくないと思っていた。 時々替わる食事の席だが いつも憂鬱、 バイキングで済ました方がよほどいい。   いかにも楽しんでいるな という席もあり 私の性格の問題なのだろうか・・・・・
 海の記念日なのに 何も、ピースボートの企画がなかったことも 変と思った。

7月21日

メキシコ、アカプルコ港に11時入港。
上陸許可が下りるとすぐに 飛び出した。須崎さんは川崎さんと三宅さんを誘っていて
他にも3名が ピエ・ラ・デ・クエスタまで行ってみたいというので 7名の大所帯で行動することになった。  外は、半端な暑さではない。 例のベトナム帽子を被って歩き出したところ、 すかさず、タクシーの勧誘が来た。 大型のワゴン車で皆乗れるというのだ。  「 クエスタまで行きたいの・・・ 」というと「乗って、乗って!」と促された。乗ってから細かく 旧市街のソカロも観て、クエスタまで 10ドルぐらいで行って」と言うと 「10ドルばかしでとてもクエスタには行けない」と言い出した。
乗る前に「一人1ドルよ! ピエ・ラ・デ・クエスタまで行ける?」と言ったら「OK」と言っていたので
「約束が違うから皆ここで降りよう!」とドアに手をかけると 「ちょっと待って」と言った。 結局、1人10ドルで 3時間彼をキープして この辺りを少し観光してから
クエスタまで行き、3人はアカプルコの街まで戻す、ということで話が着いた。
彼は、70ドルでも不服らしく、チップも要求した。  私は あなたのガイドが良かったら 上乗せしてあげると言った。

車窓から 市場や、貧しい人達の仕事と運転手が説明した洗濯場などを通り、
「決死のクリフ・ダイビングショー」の会場へ行った。
アカプルコ名物で 45メートルものラケプラダの断崖から 荒波が押し寄せる海へ飛び込むショーだ。  2・5ドルの入場料を払うと 飲み物を2個くれる。 私はビールを2缶もらった。 日本の ビール代の感覚だと 「いいの?こんなにいただいて・・・」ということになるのだが・・・
断崖の頂上や、途中に 若者が合図を待っていた。 一番上には 無事を祈るほこらが 見えた。 1人飛び込むたびに見物人が拍手。  すでに時間は1時をまわり、 お腹がペコペコ。 地元の食材を食べようよと 昼食を抜いて船を降りていたので 灼熱の太陽の下の空き腹に沁み込むビールは美味しかった。

 
須崎さんは用意がよく、 朝食のパンにハムやレタスはさんで 持ってきていた。
その一口の美味しかったこと!!!

ダイビングを成功させた男の子たちが 次々と私の脇を誇らしげに駆け上がっていく。
ホンの少年も混じっていたのには驚いた。  彼らは命がけで生活をしているのだ。
トリの 一番上から飛び込もうとしている男性は ほこらに手を合わせお祈りをしてから 飛び込んだ。 飛び込んでからはあっけなく、 それよりも、私の脇をしずくを付けて 息を切らして駆け上がる彼らに感動した。

ここでも、見物客が 私の笠を見て盛んに話しかけてきた。
皆、陽気でフレンドリーだ。 底抜けの明るさがここにはある。

タクシーは 半島を越えていった。 昨日の工藤さんの話の中で メキシコのバースデーソング  「マチャニータス 」   があると言っていたことを思い出した。 「昨日、私の誕生日だったの、誕生日に唄う歌があるって聞いたんだけど・・・」と運転手に言うと
唄いだした。 彼の歌は甘いラブソング風で 中々素敵だった。 アンコールを頼んでいる内に 目的地の クエスタに着いた。  インフォメーションで宿を紹介してもらってから タクシーに乗るはずだったのに、 行きがかり上、先にタクシーに乗ってしまったので 彼の推薦するホテルに入った。 須崎さんと川崎さんが 交渉に出かけた。   私は道の反対側のレストランの様子を見に行った。  コユーカ・ラグーンと呼ばれる湖沿いのレストランに近づくと 2時半にもなろうとしていたので、 魚料理の美味しそうな匂いがたまらなかった。  
車に戻っていくと 満室で断られたことを告げられた。 2件離れたカサブランカというホテルに入っていった。  別棟になった道沿いの4人部屋が1部屋だけ空いていた。
オーナーは 始めて日本人が来たと言って 1人素泊まり10ドルにおまけすると言った。
プールもあるということなので 値段にも心を動かされ 部屋を見せてもらった。
クーラーはなく、天井にファンが回っていた。 どこかを修理していたのか はしごがかけてあった。  シャワーとトイレはあった。  2時間も時間をくれたら ベッドやらきれいにしておくと言われて 手付け金を払って、 先ほど私の偵察したレストランで昼食をとることにした。


アカプルコに帰る3人は 3時間の契約時間内に帰ることが出来ると判断したのか
このまま、帰るといいだした。 
私たち4人だけで レストランに入っていった。
 オープンなレストランは 椰子の葉で葺いた天井も高く、ラグーンから吹く風もあり
気持ちが良かった。 メニューには ロブスターもあり、 OPで一万円使ったと思えば贅沢が出来るといって、 ロブスターを半分ずつローストしてもらうことにした。
えびやタコスやサラダやらを注文すると、 料理前のロブスターと一緒に記念撮影をしろと 太ったウエイターが言った。 
タコスにかけたソースは 緑色ををしていた。 グリーントマトを使ってあるそうで
辛さも上品だった。   満足した私たちは、モーターボートに30分の契約で乗った。 
海に続くのかと思ったら まったくの淡水湖のようだった。マングローブの茂みで
モーターを止めてくれると 真っ白なサギが 幾羽も羽を休めていた。 美しかった。
この辺りは ハハローズ(スペイン語で鳥の意味)と呼ばれ 野鳥保護区になっているようだ。

ホテル、カサブランカに帰ると 部屋ははしごも取り除かれて 白いシーツがかけてあった。  上布団はなく、バスタオルの小型のものが置いてあった。
水着に着替えて飛び出した。  
映画「ランボー」の撮影に使われたビーチとかで クールベの油絵「波」を髣髴とさせる景色が 目の前にあった。  遊泳には不向きと聞いていたが 眺めているには
一度たりとも同じ波は来ず、 いつまで見ていても飽きることはない海だった。

4人で 海を見ていると、 様々な物売りがやって来た。
貝細工売り、Tシャツ売り、籠売り、・・・小さな子供がマンゴやTシャツを売りにも来た。  中には ペコペコとお腹を出したり引っ込めたりして 芸をしているつもりの男の子もいた。  馬やロバを連れた青年が来て 盛んに乗馬を勧めた。
三宅さんと川崎さんは乗って出かけた。2キロメートルも真っ直ぐに続く海岸線をゆっくりと 消えて行った。  ハンモックが吊るされて 椰子の屋根が葺かれているところでは ギター弾きが 8人ぐらいの地元のグループの中で 唄い、引き続けていた。
私たちは チップも払わず、 生演奏を聞きながら 海を眺めることが出来た。
時折、野良犬や、散歩で犬を連れてきた人たちも通って行った。

3人を残して プールに行くと メキシカンのカップルが水の中で 辺りもはばからず熱いキスを繰り返していた。
彼らが去ってやれやれと思ったころ 青年が一人泳ぎだした。 時々は飛び込みもした。
私は 今日、ダイビングショーを観たと話しかけた。
英語が出来るみたいで 私にも「ダイビングをしたら?」と言った。  出来もしないけど 「コンタクトレンズを付けているから・・・」と言った。 
年は20歳、メキシコの青年ということが判った。  中々の男前ではにかみながら
話すのがかわいい。  たどたどしい同士の英語で 話につまったりした。
3人が現れたので、 「今いいところだから 邪魔しないで!」とはしゃいだ。
雨が降り出したので 着替えに帰った。

通り雨はすぐに止み、 夕食の席に着くと 花火が上がりだした。4・5個上がったかと思ったら それっきりになってしまった。
3人が「安ちゃんの誕生日だから ワインを一本取ろう!」と言った。大きめの魚を塩焼きしてもらって 4人でつついた。
オーナーに メキシコのバースデーソングを唄って!というと、彼は知らなかった。
プールで知り合った20歳の青年に 矛先を向けると、 恥ずかしそうに途中まで唄ってくれた。  オーナーに「昨日で55歳になったんです」というともう一本ワインを持って来て サービスしてくれた。 「そして40歳にしか見えない」とお世辞を言った。

ワインの量もオーバーして隣のソファーでウトウト。
起されて 部屋へ帰るころは 月がとてもきれいだった。  「こんな美しい月を見てないで寝るなんてもったいない!」と言って 川崎さんと須崎さんは再び出て行ってしまった。  私と三宅さんは月よりも寝る方を選んでしまった。

そして、真夜中のこと。 ピチャピチャと音がしている。 外が雨が降っていることは
判るけれども、 部屋の中で音がしているような気がした。
三宅さんも飛び起きた。 いびきを気にして 一人トイレ側に寝た三宅さんのベッド附近の天井から ひどい雨漏りが始まったのだ。  月見で寝たのが遅いのか 他の2人は私たちが騒いでいてもびくともしない。  とんでもない10ドルホテルだ。

7月22日

あんなに雨漏りしたというのに 気温が高いせいか、その痕跡も何もない朝が来た。
一番に起きて 水着に着替えて 海岸に行った。
女性が一人、コーヒーカップを持って海を観ていた。
挨拶をした。 たどたどしい私の英語力だが、 彼女はメキシコシティーから来ていて 職業はリサーチ、ライター、ティーチと言った。子供の頃からこの海が好きで来ていること、犬を2匹飼っているが バスで来ているので 犬連れは無理。 家の前からバスが出るので 4・5時間かかるけれども ここに来るのは便利だとか。 
日本には99年に東京と京都に行って、 京都の旅館と料理が気に入ったこと、
盆踊りも浴衣を着てやったといって しぐさを始めた。
私に「アカプルコがありながら どうしてここに来たの?」と聞いた。
街はあまり好きではないと答えると、 「私もよ」と笑った。

昨日の雨漏りを文句が言いたくても オーナーが来ない。 朝食は誰が作るのか・・・というほど のんびりしている。 やっと10時ごろになって キッチンの人が出勤してきた。  マンゴのフレッシュジュースと チョコレートソースのクレープで朝食。
美味しかった!!!


何気に 昨日の青年を捜したけれど、見当たらなかった。
11時過ぎて やっと現れたオーナーに 雨漏りを直しなさいと告げて バスに乗ることにした。  「バス停はどこにあるのかしら?」と歩き出すとすぐに 緑色のおんぼろバスが来た。 手を挙げると止まった。 「アカプルコに行きますか?」と言って乗った。
運転席の周りはトールペイントでカラフルに彩られていた。  少年が車掌をしていた。
昨日の雨はよほどひどかったみたいで 水はけの悪い道は 至る所で大きな水溜りを作っていた。  若い男性が乗ってきたと思ったら、乗客にビラを配りだした。
後ろの方に立って 何やら演説を始めた。しばらくすると ビラを回収して降りていった。 何だったのだろう???
又違うおじさんが乗ってきて 小さな手帳のようなものをセールスしだした。誰か後ろの方で買ったのか コインの音がした。 そのおじさんも2区ぐらい乗って降りていった。渋滞がひどく、1時間ぐらいかかってソカロで降りた。料金はたった1ペソ。
10円ぐらいで1時間のれたとは・・・・

ざわめきの街中に入った。とりあえずは時計のベルトが壊れてしまっていたので 皆に「時計屋さんを見つけたら教えて!」と言った。  言ったとたん見つかった。 昔、時計屋さんで見かけたように、 ルーペを目にはさんで 修理をしていた。
私のベルトの金具も全て取り替えてくれて 6ドル払った。
ウクライナのクルー、ユーリーさんに手紙を投函するように頼まれていた。どうせ郵便局にいくのなら・・・と私も主人に手紙を書いていた。  猛暑の中を10分ほど歩くと郵便局が見つかった。 中に入ると どこの船員さんか知らないが大きなマップにスタンプラリーの手続きをしていた。  マップと船員さんと記念撮影をした。

メキシコのプロレス、ルチャリブレや、先住民族が虐待に遭っているというので
メキシコ大統領に署名をしよう、証言集会に出よう、などと ピースボート独自の企画はあったが参加はせず、 思いっきり郊外でリゾートして使ったお金は 交通費からロブスター、今日の昼食まで全てで 何と60ドルだった。
色々な出会いもあったし、まあ、これもいいのでは・・・・

夜、「イパネマの娘」 ボサノバの起源を探るオクタニさんの企画に出た。
ライブで 娘も時々唄っているボサノバの曲の誕生までの秘話を聴いた。 作曲家と新しい音楽を求めていたギター弾きの青年が 劇的な出会いの後に生れた曲だったとは・・・・

7月23日

「パン好き集まれ」アカプルコ編。
ここは色々な菓子パンがすごく豊富で 私も昨日の昼食のレストランでクロワッサンなどを買っていた。 皆で試食してランキングをした。 私のクロワッサンが1位になった。

「南米音楽の魂」と題して 小林隆平さんのギターライブを聴いた。
彼はエクアドルに20年余り住んでいて グアヤキル市の音楽院の教授。 70回以上ガラパゴスを訪れ 観光ガイドも兼ねている。 今回スジャータさん達が行ったのはピースボートとして 5回目の彼のガイドだったとか。  世界でも珍しい8弦のクラシックギターの音色は 繊細で大胆。ギターという楽器の魅力を充分聴かせてくれた。
彼は、義足を着けているようだ。 それにもきっと、すごいドラマがあるにちがいない。
 
「600人がナビゲーター、ハン・チュソンさんの巻」
ミュージカルの指導をし、英語の先生もしているチュソンさんは 韓国の血が4分の1
お爺さんが斉州島から 日本に帰化した人で 学校時代は 差別とかで苦労をしたようだ。  
大学を卒業すると 「アップイズピープル」というアメリカの団体に所属した。    ミュージカルをしながら世界中を廻るというスローガンで 22か国の人が集まり、 70か国を旅していたとか。  各国を歩いて、ショックだったのは韓国から子供のない夫婦に養子縁組が 至るところでされていたことだったと語り、  各地でホームステイをした話になり ゲイのカップルのところでお世話になったりもしたとか。 
「自分が出会ったすべての出来事がすべて自分の身になっている」と断言した彼女は清々しかった。

7月24日   時差1時間戻す。

メキシコを過ぎて 私は丸尾さんという京都から乗船の女性の部屋で パソコンに向かっている。 明るい一人部屋で仕事?が出来ることは 本当にうれしい。
メキシコからカナダにオーバーランドのOPを採った彼女は 私が暗い4人部屋で
パソコンをしていることを知って 快く部屋を提供してくれたのだ。  すれ違えば挨拶をしていた彼女が 私の開いた「粘土で遊ぼう」に参加した。  かなり口うるさいというか、屁理屈というか、 「私には教えられないって言うのね!」「こんな形は 私には無理っていうのね!」などという口の利き方をする方だった。  私は先生ではないし、直じゅ師匠のまねをしないで自分の個性を出す作品を作ってもらいたいと 皆にアドバイスをしていた。 批判的だった彼女が 鯨の上に乗ったかえる(外観は直じゅさんの形だったが)をブツブツ言いながら作り上げ、彩色すると素晴らしい作品となった。・・・・彼女の私に対する態度が一変した。

ガラパゴスに行った宮田さんがその間 私に部屋を使わせてくれていたが、 彼の部屋に張り紙がされていた。 「この部屋を宮田さん以外の方が使っているように見受けられます。 心当たりの方は レセプションまでお越しください」と。


「安藤さんでしたか・・・規定ではいけないんです」といわれた。 そんなこともあって又、とやかく言われたくなかった。 丸尾さんの気持ちはとてもありがたいのだが、
彼女の出発前に部屋の使用を断っていた。ところが 昨日の昼過ぎにドアの下に手紙が入っていた。 見ると、丸尾さんからの手紙で 「最高責任者、中原さんの許可をもらいましたので、安心して私の部屋を使ってください。鍵はレセプションに預けておきました」と書かれていた。 こんなにまでして 私に鍵をかしてくださるとは・・・・
本当にありがたい。 この1週間がんばってみよう!

7月24日  時差1時間戻す

「え?カナダにも先住民?」の ビバリーマニエルさんとネスキーさん親子の話を聴いた。  彼らはカナダの先住民族 セクエップムの方で マニエルさんは鹿皮のワンピースに鹿皮のブーツを履いていた。      セクエップムとは 水の溢れる国の人々という意味があり バンクーバーから車で3時間かかるところにある。  狩猟や漁業などをしているが 捕りすぎないように自分たちで管理している。、
家族=部族=国(彼らの言う意味の)からなっており オカマガン、ハイダー、チルコテン、ストローという国があるそうだ。
冬は ハックルベリー、黒すぐりなど木の実を採集し、ヘラジカ、アヒル、の猟をし、鮭、鱒や 湖の魚などを獲って厳しい長い冬に備える。
「キクリ」と呼ばれる家に冬は住む。 1メートルぐらい穴を掘り、男性の入り口と女性と子供の入り口は違い、4本の柱を立てて 囲炉裏を置き 木の皮で屋根を葺く。
穴を掘った家は母親の子宮に戻るという意味にもつながるそうだ。
夏は「ティピー」という3本の柱を杉の皮で覆った建物で 移動式。
カヌーは カバノキの皮を張ったものと 杉の木をくりぬいたガッグアウトカヌーというタイプがある。 
また、パッチワークは 創造主の光が全てに行き渡るように・・という祈りを込めて
作られ、カバノキのかごは ベリーを摘むときに最適である。

文化面では 精神面を重要視し、自らをトランス状態に陥らせ、治療をするシャーマンの存在が 大きな位置を占める。
赤ちゃんが生れると、セレモニーを行い、 成人式(聞き漏らしたが 確か10歳〜15歳くらい)には メディスンマンから薬草を与えたれ 4日間断食をし、神の啓示を受ける。 新しい名前をシャーマンからもらい、薬草を扱う人になるか、ハンターになるかを決める。
「スエットロッジの儀式」というものがあり「太陽の踊り」を踊る。天然の素材で塗られた赤とか青の石を温めて 出たり入ったりを4回するのだとか。

8月に皆が集まる時期がある。
ゲームやダンスなどで交流を深め、結婚式も行われる。これは自分のコミュニティーだけではなく、他のコミュニティーも参加する。 

セクエップムの教育は  「人のしていることを見て学ぶ」
春には木の根などの薬草を野山に一緒に行って採るなど、子供たちは親の行動を見て育つ。  このように1,900年頃まで行われてきた方法もフランスやイギリスから来た人達により「学校」が建てられ 自分たちの言語を禁止されてしまった。
が、今また 伝統的教育を見直そうと、子供たちを山の中へ連れて行ってチームアサム(昔の酋長の名)という教育方法を取り戻そうとしていると ネスキーさんは語った。

お母さんのマニエルさんは 子供の頃の話をした。
「私が小さい頃、おじいさんとおばあさんと一緒に荷車で山の上に行った。 ティピーを作ってキャンプを4日ぐらいした。 私たち子供は杉の小枝を集めてベッドを作った。
1日で6〜8ガロンの野いちごが採れた。
おじいさんは 鹿がキャンプに近づかないか見張りをしたり、猟をしたりした。
今は 森林の伐採で野いちごが採れなくなってとても残念。 ハックルベリーはガンや糖尿を防ぎ、ソープベリーは コレステロールを分解する力を持っている。 
ソープベリーはとても苦くてすっぱいが ジュースやアイスクリームを作るとおいしい」・・・・・と。
ハックルベリーやソープベリーとウルゲングルーズという小魚と交換するために 北の方へ交易にも行っていたとも語った。 

マニエルさんは 書くのではなく伝える民話についても話した。 時代によって変わっていくけれども 「道徳」が含まれているということを。
そしてこんな昔話を話し出した。
「コヨーテとクモ」
人々が誕生する前のお話。 ある日 コヨーテが森の中を歩いていた。 クモの巣を発見した。 クモにどうやって巣を作るのか教えて欲しいと言った。 クモは変な質問と思ったが 降りてきた。 お尻から物を出して巣を作ろうとした。コヨーテは自分の毛が
木にからまって動けなくなってしまって 「助けてー」と叫んだ。クモはからまった毛を解いてやり「あなたはコヨーテなんだから クモのように巣は出来ない」
・・・・イソップ物語を思い出させるお話だった。

一連の2人の話を聴いていて思い出すのが 「大地の子・エイラ」である。
クロマニヨン人とネアンデルタール人の誕生した頃の話だが 未だにこの小説は続いていて 私の愛読書である。 物語の中の話を聴いているようで 本当に興味深く聴かせて貰った。 そして ファーストネイションの生活、文化は 現代人の忘れてしまった「大事な物や事」を気付かせてくれている。
カナダの国策は彼らを囲いの中に入れてしまって こんな「大事な物と事」を葬ろうとしている。  

7月25日

海がやっと穏やかになった。 小さな亀を一匹だけ見た。
GETプログラムを採っている人達の運動会があった。 私はひたすらパソコンに向かい 丸尾さんのお部屋を借りている内に遅れを取り戻す作業に専心していた。  
落ち着いて彼女の部屋を見回すと、亡くなったご主人の写真が飾って会った。遺影と共に旅をしてみえるのか・・・と彼女の人生を思った。 結婚してすぐから 体の弱いご主人を 支えて会社経営をサポートし 職を辞して今、やっと彼女の時間が出来てこの船に乗っていると聞いていた。
船はアメリカの西海岸に沿って北上している。 私の息子がネバタ州の大学を卒業したとき、主人と息子と3人で 国道1号線の美しい海岸をサンフランシスコまで レンタカーでドライブした。 途中、モントレーというオランダ村に立ち寄り、カーメルでは 「ハイランド・イン」というホテルに泊まった。 全ての点でこのホテルを勝るホテルに泊まったことはないと断言するほど 印象深いところであった。
そんなことを思い出しながら時折現れる海岸線を見に パソコンに疲れるとデッキに出た。

7月26日 

風がとても強くて 一日どんよりした雲が覆っている。 丸尾さんの部屋は丸窓が2個付いているので 外の様子がすぐに判る。 朝晩入っていた小さなプールも波が強いせいか 夕方のサウナタイムの時は水が抜いてあった。 いつも揺れだすとすぐにばてていた私が 意外と元気でいる。 揺れも縦と横があり どうやら縦揺れには平気でいられるようだ。 夜、寝ていると波の山に船底があたるときなのか クジラに船体がぶつかっているのでは?と思うほどだ。


「魔法の島・ガラパゴス」 OPで 宮田さんやスジャータさんが出かけた赤道付近の島々を ビデオをつかって 水先案内人 ギタリストの小林隆平さんが紹介をした。
エクアドルに20年も住む小林さんは ガラパゴスに100回も行っているそうだ。


1835年  イギリスのダーウィンがビーグル号に乗ってサンクリストバル島を訪れたことが 「進化論」のきっかけを作った。 著書「種の起源」の中で 「変化しながら子孫に伝わることが進化である」と書いているが、 25年間持論の発表をしなかったそうだ。 キリスト教が 全盛期で「人は神を似せて作られている」と訓えられてきたことを ダーウィンは ここに来てそれぞれの島を調査し、フィンチというホオジロ科の鳥を5週間ガラパゴスに滞在する中で研究し、後の「進化論」を発表する裏づけを作った。
「人はサルから自然淘汰の末、進化した者」と唱えたのだ。 当時としたら とんでもない考えだったのだろう。


ガラパゴスは地球で一番若い島。 500万年しかたっていない。
ゴエヤキルから飛行機で1・5時間の位置にあり  エスパニョーラ島(起源の一番古い島、アホウドリの繁殖地で有名)、 サンタクルス島(空港の島)
サンクリストバル島(ガラパゴスの行政の中心地) イザベラ島(アンデスと同時に噴火する火山がある)
ヘノベサ島、 フローレアナ島(一番初めに人が入った島で人口80人)ピンタ島、サンタフェ島、フェルナンディナ島、などの島がある。 
小林さんは 「1830年にエクアドルが 自分の国の領地であると宣言したが 他の国から なんら、異議もなかったので エクアドルのものになった」といった。

ビデオを観ながら 彼の説明が始まった。 出てきた動物の名前を書きとめてみた。
ダーウィンフィンチ、オオグンカンドリ、イグアナ、アシカ、青足かつお鳥、赤足かつお鳥、オットセイ、ヨーガンササゴイ、オオアオサギ、フラミンゴ、夜光カモメ、青目鳩、青面かつお鳥、マスクかつお鳥、アザラシ、マネシツグミ、カニ、あほう鳥、ピケーロ、グーピー、ぞうがめ、陸イグアナ、倉型ガメ、ネズミ、 コバネウは 必ずメスに花束を持って来るように何かプレゼントを運んでくるのだとか。      高いところにしか食べ物がないようなところに住んでいるカメは甲羅の首の辺りが極端にカーブしていた。 チャールズ・ダーウィン研究所で保護や研究されているゾウガメは 200年〜250年の寿命があり、 7万頭もいたのが 今では1万頭になってしまったとも 小林さんは語った。
ビデオを観ていると ツアー客の足元を平気で卵を温めている青足かつお鳥、本当に美しい空色のあしだ。 ひなの産毛が風にそよそよとなびいていた。かわいい!!!
ガラパゴスアシカのそばに行って 人形を目の前でチラチラさせた人がいた。 「何をするの・・・ねむいよ・・・」といった感じで 目線だけが動いた。 
私も中国の奥地でパンダを抱いたことがある。  宮田さんとスジャータさんは目の前で見ていたのか・・・・・うらやまし・・・・・い!!!!!

GETスピーチコンテストがあった。
いきなりバリ島のダンスから始める女の子、 合気道のパホーマンスをして袴姿の女の子、 メキシコのソンブレロスタイル、フラッグに誕生日の寄せ書きをしてもらって うれしさを語る人、看護婦さんのスタイルで現れる人、お父さんの思い出を語って泣き声になってしまった人など、パホーマンスで訴える人、素のままで内容で勝負!という人ありで
とても面白かった。 中には、スペイン語と英語の両方に出演する人までいた。 又、福家さんという60歳はとっくに過ぎた男の人は 侍姿で堂々とスピーチした。
その外にも3名ぐらい中年の男性が出演、 若い人たちの中で 頑張っている姿に感激だ。

聴き終わって 廊下に出ると、 後ろから私を羽交い絞めにする人があった。 お酒臭いし、いったい誰?!と振りほどすと、 伊藤シェフ。
かなり酔っていた。 まずはソファーに座らせると ロシアのクルーが 2人誕生日でパーティーをしてきたとか。 ロシア式は お互いの腕を絡ませてウオッカの杯を呑みあうとか。デジカメを持ってきて クルーと楽しんでいる様子を私に見せた。 中にはシェフとクルーのキスシーンもあった。 ひやかすと 「これはコミュニケーションなんだ!」とさかんに言い訳をした。  「もう、見せてもらった」というのに 何と4回も 「これはパン職人・・・」などと説明を繰り返した。  ヤレヤレ・・・・

 

7月27日 

すごい揺れ、半端ではない。 右舷側には サンフランシスコ、見えはしないが・・・

「カナダへのご招待」などで公演されるピーターさんを捕まえたりしてビクトリアに行く方法を聞いたが「4〜5時間はかかるよ、遠いから帰船リミットを考えると無理じゃないかなあ・・・」といわれた。  洋上で、 知人の成田さんの叔父様がビクトリアで「B&B森の宿」を経営してみえることを思いつき メールやFAXで宿と主人に連絡を取ってきた。   バンクーバーの港に入るのだから ビクトリアにだってすぐに船で行けるぐらいに思っていた。  以前、行ったことがあるだけに軽く考えていたのだ。 

着岸はカナダプレイス 港の中では一等地にあたる。 ビクトリアに行くBCフェリーの港はトッワッセン、2時間もあればビクトリアに着けると思っていたのに トッワッセンまでのバスと ビクトリアのダウンタウンまでの時間をまったく頭に入れていなかったのだ。 

とは言え、まだ希望的に、4時に下船のOKが出たら スカイトレインで4つ目のメインストリート駅まで行きビクトリア行きのチケットを買い、バスに乗る。 1時間に一本と聞いたが 出発した後であれば なお遅れるかもしれないが、 そのバスに乗ってしまえばバスごとフェリーに乗るわけなので問題はない。 おそらく到着は9時から10時になってしまうかもしれないが 日の入りは9時半なので 10時といっても外は明るいので 真っ暗な街に入って心細い思いはないだろう・・・とか考えていた。

 

 アカプルコで10ドルのホテルに泊まった経験を 共にした川崎さんは 83歳のお母さんと乗船しているのだが ビクトリアにも一緒に行きたいと言っていた。  数日前に 主人にメールをして 宿泊人数を増やせるか聞いていたが 中々返事が来ない。  川崎さんは「私たちはいいから三宅さんだけ連れて行ってよ。私はカビラノ渓谷のつり橋に行くことにしたから気にしないで」と言い出した。

 

スジャータさんは 私に任せている風で 4時間の時間の件も何も言わない。

三宅さんは不安が募ってきたのか 「行って帰るだけになるみたいだから つり橋に変更しない?」と言い出し始めた。  「もし帰船リミットに間に合わないとどうなるのか?」と 事務局に尋ねると 「荷物を放り出して自力で帰ってもらいます」とあっさりと言った。   気持ちの中に「メキシコのストリートチルドレンとティオティワカン遺跡」を止めた理由の中に カナダの2日間が使えないということもあった。

近くのスタンレー公園で妥協したくなかった。が、昨日辺りから考え込んで眠れない。

自分一人ならともかく、2人を巻き添えにすることは出来ない。

止めるべきか、バスとBCフェリーで5時間か、 それとも フェリー乗り場までタクシーで行き、フェリーの少しでも早いのに乗ることにするか・・・・・

 真っ赤な夕日を見た。

  

7月28日

丸尾さんの部屋も今日まで、 パレット新聞の行事にも目もくれず 時々丸窓から荒れている白い波頭を見るだけで ひたすらパソコンに向かっていた。 掃除に現れる愛想のないスチュワーデスは、 最初の内 丸尾さん以外の者が部屋にいることに不審そうだったが 毎日パソコンに向かっている私に心を許してきたのか 帰りがけに言葉を掛けていくようになった。   連日の指の運動で 腱鞘炎状態。 サトちゃんに手が痛いと訴えると

「ちょっと待って」といってボールペンにトイレのペーパーを少し巻き、その上からテープで留めてくれた。 指にかかる負担がかなり軽くなって ありがたい。

夕方には海もやっと穏やかになった。

小林隆平さんのラストコンサートが 開かれた。

8弦のギターの音色に聴きほれながらも 心はビクトリアに行ったり来たり・・・

決断がつかぬまま 明日、カナダのバンクーバーに入港する。

ドリオさんはゲーム機のソフトを開発したり漫画を描く方。うららさんは東京浅草の「振袖さん」。舞妓さんのような仕事で 2人の馴れ初めから始まった。  ドリオさんは

以前ピースボートに乗っていて 彼女の仕事をやりくりして乗船にこぎつけたようだ。

途中で部屋が暗くなり、彼はうららさんに手紙を読み出した。

「同じ夢をみてくれますか?」と。 もちろん「はい・・」と。

司会者は当然のように 愛の証を・・・と要求した。 2人はみんなの前でキスをした。

演出とはいえ 手紙はひっそりと うららさんに渡せばいいことで いかにもテレビ的。

その上、司会の古山さんは「皆さん!こうなったら 船上結婚式をしようじゃないですか?」・・・・・・やりすぎ!!!!それを喜んでいる2人にも何故か反感を抱いた。

 

7月29日   バンクーバー入港15時

朝のうちに お借りしていた丸尾さんの部屋に置いてあった事務用品を引き上げて、

彼女の部屋の鍵をレセプションに預かってもらいにいった。 また何か小言っぽいことを言われるのでは・・・と恐る恐るカウンターに立ったが 「はい、解かりました、お預かりします」で済んでしまった。 

落ち着きなく部屋とデッキを行ったり来たりしている内に カナダに着くのが待ち遠しそうなピーターさんにデッキで出会った。  「やはり、ビクトリアに行くの?」と声を掛けられた。 小林隆平さんとマニエルさんにも会った。 小林さんには 「名古屋方面に来てコンサートをされることがあれば是非、私の店にも寄ってください、ただし、それまで 私の店が存続するかどうか分かりませんが・・・」というと私の出した名刺を見て 

「天然酵母パンですか・・・ぼくも海の家を持っていまして そこには自分で薪の窯を作ってパンをやくんですよ。 ギターの先生の仕事を止めて 海の家にいつ移ろうかって今、思っているところなんです」といった。

みんな、どこかで人生にラインを引く確かなきっかけを捜しているんだ・・・・・

昼食をとって レセプションの前を通ると「安チャン!カナダ、どこいくの?」と地球の歩き方 カナダ編を持った大橋さんに会った。 彼女はドブロブニクの農村を訪ねたとき 地ワインで盛り上がりへべれけに2人で飲んだ仲だ。

質問があってレセプションに来た様子だったが 私は「ちょっと貸して!」とガイドブックを取りあげて 「ビクトリア」を捜した。  その時点で 先に書いたBCフェリーのカナダ側の港の名前がトッワッセンということが判った。 
 計画を彼女に話すとすごく面白がってくれて 「安ちゃん、私も行きたい! でもバンクーバーにもうホテルをとってしまっているの。 残念!!」と前から私の計画を知っていたら・・・と悔しがった。

13時ごろには ビクトリアも通過しているのではと思うような 美しい小島が無数に見えて 「右も左もスタンレーパークですよ」と誰かが説明した。 緑の中をジョギングしている人やサイクリングの人達が見えた。  考えすぎて疲れてしまった私は 暗い部屋に戻ってベッドの上に横になっていた。

「安ちゃん!安ちゃん!」と興奮気味に三宅さんが 部屋に入ってきた。

「行けるよ!ビクトリアに!」と一番消極的になりだしていた彼女なのに 「どうしたの?」とベッドから起きた。 

着岸してから バンクーバー港の様子を見ていると 水上飛行機が トンボのように水面を発着していた。 それを使ってビクトリアに行こうというのだ。

「あれは30分いくらの遊覧飛行じゃないの?」と言いながら デッキに出て行くと

「須崎さんは10年ぐらい前にあの飛行機でビクトリアにいったんだって」と三宅さんは喜々とした顔でいった。

毎日7時8分になると「皆様 おはようございます」と慇懃な口調でアナウンスを英語と日本語で入れる 徳元さんを見つけた。 「あの飛行機のチケットはどこで買うんですか?」と尋ねた。  「町の旅行代理店に行かないと買えません」とあっさりとした返事。  見ていると 発着する飛行機のすぐ側に事務所らしき物が見えた。

とにかく、あそこに行ってみよう!ということになった。

15時40分下船の許可がでた。  3人は1分も惜しむ気持ちで飛び出し、税関の検査をもどかしく待った。 入港まで泣きそうな空だったのに 青空が見え出した。5分も歩いたら HA(HARBOUR AIR)の事務所に着いた。 

ビクトリアまでのチケットは すぐに買えた。往復で211カナダドル(TAX込み)

しかも10分後には出発といった。 「5時にはあそこに見えている船に乗らなければならない」というと「帰りは2時20分と3時50分が空いています」といわれ、安全のため2時20分を予約した。 3日ぐらい悩み続けていたことが こんなに簡単に解決してしまうとは・・・・

乗客は女性が1人すでに乗っていて 私たちと4人だけ。 エンジンの音はものすごかったけれども 丁度引き潮になりだして 小さな島々と干潟の造形美がなんとも言えず美しかった。 40分で ビクトリアの水上をゆっくりとすべって飛行機は止まった。

目の前に煉瓦の壁が荘厳な雰囲気を漂わせるエンプレムホテルがあった。

以前宿泊した海岸沿いのホテルも見つけた。

花の香りがどこからともなくしてきて花の街に再びやって来た!と心が躍った。

「森の宿」に電話をすると20分ぐらいで迎えにいってあげるといわれたが、夕食を済ませてからもう一度電話を掛けることにした。 和食の美味しい「えびぞう」を紹介してもらった。  様々なパホーマンスの大道芸のエリアを抜けてエンプレムホテルの前に出た。

「森の宿」の福島さんに教えられた「えびぞう」は ガバメント通りを西にブロートン通りまで行って右に曲がって・・・・  競うように各家々のガーデニングを見ながら 坂を上っていった。 観光馬車で散歩する人達にもすれ違った。

6本ぐらい道を横切ったけれど それらしきものはなく、西と東を間違えていると判断して戻りだした。 途中でポストに郵便を入れようとした人に 「えびぞう」を尋ねた。

彼は「えびぞう」を絶賛した。 そして やはり西と東を間違えていることを教えてくれた。   目的の「えびぞう」は定休日だった。 こんなに苦労をして来たというのに・・・

仕方なく 先ほど尋ねた呼び込みをしていたコックさんの店に行くことにした。

雰囲気のいい店だった。  まず、美味しいと言われていたモルソンビールを注文した。 

魚料理を2皿オーダーすると ガーリックトーストが付いてきた。

魚もトーストもとても美味しかった。 3人は「時は金なり」という格言に酔いしれていた。  デザートも魅力だったが 途中で出会った日本人留学生の情報、「チーズケーキハウス」に行こうと外に出た。

 

 スジャータさんがその店を見つけた。 入っていくと すごい賑わい、 ケーキケースはジャンボケーキがズラリ!!

更に出てきたものにはソースとかアイスクリームが添えられていた。 が、味は大味だった。  ちょっと失敗だったと言いながら インフォメーションを見つけ、「森の宿」に電話を掛けた。

 福島さんを待っていた30分は 今まで出会ったことがないほどの夕焼けショーだった。  
「ピンクのオーロラ」と名付けたい雲と 強烈な赤に近い雲の競演。 もっと障害物がない海辺で観たいのだが いつ福島さんが現れるか分からないので エンプレムホテルの脇道から離れることが出来なかった。

9時のチャイムが港一帯に鳴り響いた。  この夕日を見ただけでも ここに来た甲斐があった。

70歳ぐらいに見える福島さんがホンダの新しいバンで迎えに来てくださった。

夕日に夢中になっていた私たちは お礼も充分に言わない内に 夕日をもうちょっと条件にいい所で見たいと言った。 「夕日ですか・・・」と少し面倒くさそうに言われたような気がして 「やはり、図々しかったかしら・・・」と落ち着きなく乗った。

交通の混雑している交差点を通り、もう一度エンブレムホテルを一周してもらった。

すでに ピークは過ぎてしまい 申し訳ないわがままを言ったことになった。

けれども ここが中華街とか、説明していただきながら運転してくださり とても見晴らしのいいところまで上がって、車が止まった。

辺りには、数台の車がいて 小高い丘からの景色を皆が楽しんでいた。

夕焼けの残影がまだ残っている空の下に家々の灯りが増していった。 もう30分早く

ここに連れてきてもらっていたら どんなドラマがあったのかしら・・・・

福島さんはその後、息子さんが日本語教授をしているビクトリア大学を一回りしてくれて、

真っ暗になった森の中に入っていった。

何と、「森の宿」は2500坪あるというのだ。 

オレンジのスペイン瓦の宿は 花が一杯だった。  奥さんは小柄なエプロン姿、「日本のお母さん」がそこにいた。  
赤毛のアンがいそうな二階の部屋に案内された。    ご主人がリフォームしたという和室には 藍染めの花瓶敷きの上にアジサイが一輪挿してあった。 
 感嘆の悲鳴を3人であげていると 奥さんは「下に来てお風呂に入って」と
促された。 そこには 20人でも入れるのではと思うほどの「お風呂」があった。

サウナ室も付いていた。 ピースボートの乗客の内、こんな贅沢なお風呂に入っているのはきっと私たち3人だけだと優越感に浸ったひとときだった。

しっかり温まって出ると、冷たいビールを出していただき、ビールには合わないかも・・・と言いながらオーガニックのケーキ屋さんで買ったフルーツパイを 暖炉のある居間に  奥さんは運んで来た。  もう5日も泊まっているという奥さんの友人夫婦がくつろいでいた。  イチゴとブラックベリーがたっぷりと載ったパイは美味しそうだが とても甘そうに見えたので  「少しにしてください」といってたっぷりと切り分けていただいたのを 先客にさしあげた。  ところが 美味しいったら!!! 「しまった!遠慮するんじゃなかった・・・」と悔やむことしきり。  埼玉県から来た友人夫婦は シアトルからレンタカーに乗り、バンフやウイスパーをドライブし「森の宿」まで来て この5日間はまったく何もしないでいるのだという。

 

更に、彼らの話によると ビクトリアに2軒 家をすでに持っていて、今は他人に貸しているというにはびっくり!  来春には学校の先生を定年退職、貸してある一軒を返してもらって とりあえず1年間語学留学という形で夫婦でビクトリアに住むのだとか。

カナダ政府はその間、医療費を無料にし 保険証も発行されるとも言われた。

もちろん、ビザも1年は発行され 長く居たければ 半年に1度外に出ればいいとか。

カナダの国の人達が年老いて住みたいナンバーワンが ビクトリアと聞いていた。

福島さんも一口に14年とはいえ、ここまでになられるには 苦労もされたと思うけれども、 ゆったりと 商売気もなく客をもてなす雰囲気に風呂上りのビールも手伝い 酔いが廻った。

 

7月30日

真っ白なレースのピロを元通りにして 朝の散歩に出た。

夕べは暗くて分かりにくかったけれども、 「森の宿」の名前のごとく まさに森の中にあった。 ブラックベリーやラズベリーをこっそり摘んで口に入れながら 歩いていると

石楠花の大木がたくさんあった。 すでに花は萎えてしまっていたが 半月も前であったなら さぞかし・・・と思われた。 薪置き場を通り、家庭菜園の畑を覗いた。

エンドウ豆がたわわになっていた。 葱やらジャガイモやらが植えてあった。

これだけ街から外れていたら ある程度家庭菜園をしないと困るだろうな・・・

少し歩くと隣の家の門があったが 家はどこにあるのか分からないほどだった。

ジョギングの人が時々、息を切らして通り過ぎて行った。

 

朝食の支度が始まっていた。

お嫁さんが味噌汁の味噌を緩めていた。 とても感じのいいかたで 大学生の息子を持っているとは見えなかった。

支度の間、入っていいよといわれ キッチンでピースボートの話に花が咲いた。

「救援物資を下ろしたり、各地で交流をしたり観光をしたりで104日で世界一周しているんです」というと 目を丸くしてみえた。

 

朝食は感激だった。 厚焼き玉子、インゲンのゴマ汚し、塩鮭、実だくさんの味噌汁、

オーガニック胡瓜の一夜漬け、さといもとしいたけの煮物、 フルーツはいちごとメロン、

これらもオーガニックと説明された。  お茶の美味しさも格別、 船の食事も決して

不味くはないが福島家の家庭の味は格別であった。

こんなに至れり尽くせりでカナダドル60ドル。   友人の成田さんは昨夜も私たちが着く前に 心配して電話を掛けてくれたようで こんなに居心地よく滞在出来たのには

成田さんや主人など影で動いてくれたからに違いなく、皆に感謝するばかり。

 

ご主人がブッチャード・ガーディンまで 車で送ってくださることになった。

暑くも寒くもなく心地よい朝のドライブ、30分でガーデンに到着。 ご主人は帰りのダウンタウンまでのバスの乗り方やアフタヌーンティーの予約の仕方を教えて 帰って行かれた。  

さあ! 私にとっては5・6年振りの懐かしいブッチャード・ガーディンだ。

あの時は5月の連休前で バラなどはまだ季節外れだった。  4組の気の置けない仲良し?夫婦でカナダ周遊をし、このガーデンの美しさに感嘆の声をあげた。

 

インフォメーションに立ち寄り 荷物が預けられるか聞いてみた。いくらかかるのかとも。

フリー! 無料で預かってくれた。 これで身軽に散策が出来る。とにかく、聞いてみるもんだということがここでも分かった。

2人が歓声を上げるたびに 「だから無理してもここに来たかったのよ。判ったでしょ」と得意げに言った。  獅子おどしのある日本庭園を通りバラ園に入ると 甘い香りに包まれて 色彩と香りの競演に酔いしれた。  時々は親しくなった観光客と写真を撮ったり おしゃべりをしたりもして2時間ゆっくりと花の道を散策した。

不思議と日本人には出会わず、そうかな?と声をかけると 「コーリア!」と返ってきた。

 

せっかく福島さんにアフタヌーンティーの予約の件を教えてもらっていたのに

花にまぎれて3人とも忘れてしまっていた。  残念!!!

先にバスの切符を買ってから動こうと 福島さんに聞いていた2階建ての赤いバスのそばへ行くと 運転手さんがバスの掃除をしていた。  何時にバスは出るのかと聞くと12時半と答えた。 切符はここで買えるのかと聞くと 売店だとインフォメーションの方を

指差した。 時計を見ると11時45分、丁度いい時間に港に帰ることが出来ると喜んで 

インフォメーションに戻って切符を求めた。 受付は バスのきっぷを3枚欲しいと言っても 中々通じない。  「どうして・・・運転手さんは売店で買って来いといっているのに・・・・」と困ってしまった。 受付も困ってしまったらしく 「日本人スタッフを  

呼びます」と電話をかけた。  こんな単純な会話が通じないのか!と情けない思いで

日本人スタッフを待った。  60歳ぐらいの女性が現れた。 事情を話すと 

赤い2階建てバスは ダウンタウンとガーデンを結ぶ専用車で 切符は往復券で港で買うものであったことが判明した。  だから 受付嬢は困ってしまったのだ。

運転手の指差したのは遥か遠くのダウンタウンだったのだろうか・・・・

 

日本人スタッフは親切に ローカルバスのバス停まで案内してくれて 「あと6・7分で出るから もう並んでいた方がいいよ。タクシーは高いからね」といってくれた。

インフォメーションに戻る道で、彼女はさすが日本人、私の着ていた大島紬の作務衣に注目して「素敵ね!」と言ってくれた。

 

ショップで買い物を楽しみたい三宅さんを促して、荷物を貰い慌てて バス停に行った。

途中で日本人の学生らが乗ってきた。夏期講習だと答えた。

バスを降りると 昨日定休日だった「えびぞう」を目指した。

ラバッツビールを注文し、えびぞうお勧めとアボガド巻き、あさりの味噌汁などで 豪華な昼食をした。おなか一杯にして20カナダドルだった。 

14時20分の水上飛行機はすでにスタンバイしていた。

昨日の予約券を切符に替えて 飛行機に乗り込むと 19人乗りは満席だった。 

うるさいエンジン音のなかで隣の女性と話をした。   彼女はカナダ人で 昔、香港と東京と行き来する仕事をしていたという。 日本は大好きと言った。

 

無事バンクーバーのカナダプレイスに着いた。  ハーバーエアーの事務所は スターバックスのドリンクコーナーが付いていた。  細かいカナダのコインを見せて「これで一杯飲めませんか?」というと  「パッセンジャーはフリーです」

オープンデッキの椅子にかけて ピースボートのオリビア号を眺めながら コーヒーを飲んだ。  水上飛行機を使うことによって生れた沢山の「時間」をつまみにしたコーヒーは 格別の美味しさだった。

 

コーヒーを飲んでいた女性に 3人の記念撮影をお願いした。

快く応じてくれたその方に 私は 遥かな山を指差し 「熊とか犬の頭みたいに見えませんか?」と言ってみた。  すると彼女は「あの山をインディアンの寝た顔と呼んでるの」と。 

「額から鼻・・・口・・・あごって見えるでしょ!」とにこやかに 説明をしてくれた。

なるほど・・そう言われればそうとも見える・・・・

 

余裕で船に帰って 出港の18時を待つ間、 先ほど乗って帰ってきたトンボのような飛行機の発着を眺めていた。 その角度からは 「インディアンの顔」はまさにそう見えて近くに来た方たちに得意げに説明をした。  岸と船の隙間にゴマアザラシ?が出没、決して きれいとは言えない湾の中で 気持ちよさそうに顔を出したり引っ込めたり 腹を見せたりしていた。

 

出港は3時間遅れになった。

最後の寄港地ペトロパブロフスク・カムチャッキまでの長い航海のための水を積み込んだ量が カナダの基準に合わないということになり、 大量の水を海に捨てる作業をしていたとのこと。  何だか奇妙な理由だが本当にそうなのだろうか・・・・

見送りの人達との 色とりどりのテープが絡まる風景もここでは禁止らしく 21時を過ぎた頃、 バンクーバーの街に灯りが付きだし始めた中を アラスカの沖合いに向かってゆっくりと静かに出港していった。

大粒の雨が降り出したが 空はドラマチックに夕焼けと雨雲が交叉していた。

 

7月31日   時差1時間戻す

朝起きると頭痛がした。 ここ数日、ビクトリアの件で気をもんだことが影響したのだろうか・・・ 薬を飲もうか迷っていると サトちゃんがマッサージをしてくれた。

お陰で持ち直すことが出来た。  感謝!感謝!

早起きをして 太極拳に出ていた人達は くじらの大群を見ることが出来たそうだ。

明日のパレット新聞に 「粘土で遊ぼう」の記事を載せてもらおうと工房まで降りていった。 ミラーバーの片隅に3・4人の若者が座っていた。  その内の1人と目が合ったので 「何しているの?」と聞くと

「チリクイズ」と答えた???   よく聞いてみると 「地理クイズ」だった。

頭の痛いのが薄れたところだったが つい若者の中に入ってしまった。

とづけん君は 以前「ロンドン勉強会」を開きながら、「実は僕、行った事がないんです・・・」と間抜けな企画をしたことがあった。

今度はどんな面白いことをするのかとクイズに参加した。  意外とまともな質問で

解からないとは言いながら 50問中8問正解だった。 しかし、12問正解した女の子がいて 2位になってしまった。 この長い旅は私の脳を空っぽにしてしまった。

喉まで出ていても 答えにはならなかった。

30分のクイズタイムが終わると すぐにそのまま 彼は「一人旅好き集まれ」を始めた。

ギャラリーもそのまま、 つい私もそのまま残った。

鹿児島から45時間かけてフェリーの旅を北海道までした女の子は その後も青森で知り合った方からリンゴが送られてくる話をした。

とづけん君は 屋久島から沖縄、波照間島まで九州以南の島を殆ど網羅していた。

今夜から夕食のシッティングが替わった。 

宮田さんと高木さん夫婦の4人席。 メインディッシュはカナダ名物、Tボーンステーキ

骨の間の肉はホーク・ナイフでは切り難く 写真に写しただけになった。  
1匹の牛からどれだけTボーンは採れるのだろうか?という話になった。 帰りがけにスタッフに尋ねたところ、20人分ぐらいと言った。 600食まかなうのに どれだけの牛が殺されたのだろうか?・・・・

「地雷原を走った子供たち」ピースボート代表の中原さんの企画に参加。

世界中に1億個を超える対人地雷があるといわれている。

何で地雷はダメなのか・・・ 人を殺さないために作り出された兵器である。

*空間的問題   地雷は目に見えない  ここに地雷が埋まっているといわれたら

         もう、その場所は使えない。   ということは たった一発で

         その地を占領することが出来る。

         1個でも1000個でも労力は代わらないということになる。・

*時間的殺傷兵器  例えば アフガンに今、アメリカは食料を空から投下している。

援助しているかにみえるが 食料を住民が取りに行って被害に  遭っている。 一日に15人と発表しているが 実際には その10倍は 被害にあっているのではなかろうか。

*人道的問題   非人道的兵器  ゲリラ戦に使われることが多いのだが 10人いたとして 1人が地雷で負傷したとすると 彼を          見殺しに出来ないから 助けるために2人の戦力がなくなる。ということは3人欠けることになる。    
          恐怖やらで戦力も落ちる。

          地雷は手作業で取り除かなければならない。 97%ないといわなければ その場所を 平和的に使えない。 最近          では地雷犬が 活躍しだした。

         中原さんは15歳の右足のない少年に出会ったことから この運動を始めたと言った。


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