憧れのシルクロードそして驚きと感動の毎日

浅 野 寿美子

広大、雄大、遠大、壮大、私の大の概念を遙かに超えて何もかも素晴

らしく大きかった。
砂漠の中に悠然とたたずむ莫高窟。石窟が約二

キロの断崖に並ぶというその中の一つの窟の中の南大仏の高さを、

首が痛くなる程仰ぎ見上げる。視界一ぱいに広がる鳴沙山の砂山。

握った砂が指の間からサラサラと全部こぼれ落ちる。

 ウルムチを夕方乗った列車が、砂漠の中を私達を乗せて翌日の

夕方にカシュガルに着く二十四時間の列車の旅。砂漠の中といえど

もゴビあり谷あり山ありと、駅も集落もあって、とうもろこしの畑、綿の畑

もどこまでも続いて見飽きることがない。夕日、朝日の感動もまた忘れられない。

 標高三千六百米の高地に美しい水を湛えるカラクリ湖。水にうつる周囲の山々はこの季節も真白な雪を見せてくれる。神々しい程

の静かな雰囲気に敬虔な気持ちに浸る。カシュガルから八、九時間もかけて山への登りまた下るバスの旅は、一日の行程となっ

たが、またと行けないところで、心の中に透明感が残る。

 十三時間かけてタクラマカン砂漠の横断も楽しかった。サラサラの砂しかない砂漠の中を素足になってスポッスポッと歩き回り、

童心にかえって笑いこける。

 砂漠の中の一本の真直ぐな道路、どんなふうにして作ったものかと

唯々感心する。砂漠の中の砂あらし、蜃気楼、悠々と横切る羊の群れ、

ラクダの集団等々。初めて見る景色に心が弾む。

 砂漠の中を走る列車も不思議だった。遥か向うにこれから行く駅が見

えているのに仲々到着しない。その建物が右に見え左に見えと何ども何

ども大きく蛇行を繰返し、三十分もかかってやっとそのホームに辿りつく。

また駅で降りる人、乗る人の数の多いこと。これにもびっくり。五百人も

並んでいるのではなかろうか。石窟の中で見た壁画や仏像には文

化の深さを知った。そして、遠くて深いところでの日本とのつながりに心暖まるものを感じた。


二年前に訪れた兵馬俑周辺にはとうもろこし畑が減り、高層ビルやマンションが建ち並んで、とても同じ場所とは思えない

程の変わり様で、二年計画で取り組んでいるというその後はどんな所になってしまうのだろか想像も
出来ない。

いくらでもある広大な土地、どれだけ見ていても飽きない大自然の不思議さ、はかり知れない長い歴史、人間の創り出す

技術と文化の深さ、そして今を生きる人々文明の進み方等々、すべてに圧倒された旅だった。
少々閉口した青空トイレ、

きゅうりまでもが油通しされて出される食事も、何時か変わってくれることを最後に期待して終わりにする。

シルクロードの旅雑感
                    浅 野 信 一

古代から現代に至る、ありのままの自然と人の営みとのかかわりを、

突然に見聞する旅でした。
車窓に展開するありのままの自然の景色

は、一瞬でも見逃しては惜しいような気がして、全行程殆んど睡気な

ど寄せつけぬほどに魅了やむことなく、すっかり童心に返って車窓に

釘付けにさせられてしまいました。

 天山山脈の全貌が眼前に展がった時などは、車内一斉に歓声があがるほど、見事な景観でした。まさに「一望千里」

とか「雄大」とか「壮観」「広漢」「曠野」とかの漢語は、決して誇張などではなく、その語源の地は実は此処にあったのではない

かとさえ思いました。
あるがままの自然と向き合って、自然を畏れ敬い、自然と共に生きる叡智と鞏固な意思とが生み出した、

比類ない人類の遺産にも触れることができました。人の営みの偉大さに驚嘆するばかりでした。
自然を畏れ自然に逆らわず、

自然と共生する原風景を、「ポプラ並木を走る驢馬車」に見る思いがしました。馬車は、子どもも婦人も老人の誰もが操って道の

端を走っていました。そしてどの驢馬も駆け走で、人の歩くよりは速く、美しい並木道を駆けていきます。遅きに過ぎずさりとて早過ぎ

もせず、ほどよい速さに見受けられました。
目を瞠るほどの急激な都市化の現実も見てきました。しかし自然を共生する原点を此の

地で見る思いがしました。ここの人たちは、苛酷な自然とは思っていないのではないかと思いました。明るくて人なつっこい人たちで

した。子どもの多いのにも驚きました。
ここには着実な未来が約束されているように思いました。

6ページへ

生きて千年・枯れて千年・倒れて千年
       といわれる砂漠の胡楊

ホータンのポプラ並木

高昌故城