2月17日(火)

ヒロコチャンのいびきを子守歌に 巴里二日目を迎えた。

{そういう私もいびきをかくので スジャータさんは真ん中に挟まれて さぞ

かし・・・}

ホテル内のレストランに朝食に行った。

隣の席に フランス人のおじさんと日本の若者がいた。

「おはようございます」 関西なまりでおじさんから返事があった。

コールドビュッフェと聞いていたので あまり期待しないで入った

レストランだったが パンも美味しかった。

「美味しいパンですね」と私が言うと、

「こんなパン、何が美味しいねん」とおじさん。

いきなりだったので チョットびっくりして若者の方を見ると、

「この方は日本でパン屋さん・・・」と言いかけると おじさんは

その続きを制した。

私はかまわず、「私もカフェをしていて 天然酵母でパンも作っています」と

言うと、
「日本人は何でもかんでも“天然酵母”と言っておる」と

また、へそ曲がり爺さんが答えた。

 

若者がすべてを明かしてくれた。

彼はビゴさんという 日本にフランスパンの技術を持ち込んだ

伝説のパン屋さんだった。

神戸、東京と出店し、著作も多い。

朝の便で 日本に帰るとのことで、若者は空港まで送っていくところだという。 

タマゲター! こんな方が この小さなホテルを使っていたなんて。

陽気で、へそ曲がり爺さんと記念撮影をしてお別れした。

 

本日の行動予定は まず、ビデオの変圧器を買うこと、オルセー美術館、

夜はベロニカさん訪問。

 

巴里の松坂屋で 充電器は見つかった。

 

個人のお買い物は後回し、と言っておきながら

ヒロコチャンの娘さんのシャネルの本店へお買い物に付き合うことになった。

オルセーとは反対方向、車だったら何のことはないかも知れないが 寒さが凍

みる朝、興味のないことに 時間を費やすことに 

ヘキヘキとしながら 歩いた。

 

ようやく、お店を見つけた。

私のいでたちは チュニジア、ベルベル人の古着のコート、とても

シャネルの店に入る格好ではない。

スジャータさんと外で待っていた。

ヒロコチャンがちっとも出てこない・・・・

何十分待ったことだろう・・・ひょっとしたら 別の出口から出て

ヒロコチャンとはぐれてしまったかも・・・と思うと青ざめてきた。

携帯もない、車もない不便さが

寒さと不安と苛立ちで最高潮となった。

 

ついにスジャータさんが店に入って行った。

彼女の手招きについて 私も中に・・・

なんと、 ヒロコチャンは日本人スタッフと話をしていた。

オルセーに行くために タクシーを頼んでもらっていた。

一言、言ってよ!

心配しているのだから・・・寒い外で待っている気持ちになってよ!

「何で入ってきいへんかとおもうてたんよ・・・」

それはないでしょ!!

 

ふてくされて、タクシーに乗った。

セーヌ川に沿ったオルセーは 行列がすでに建物を一回りしていた。

スジャータさんは

「この調子だと 昼まで並ばないと入れないよ」といった。

今日は、ルーブルが休みで その影響もあるらしい。

 

二人は諦め気味で、ノートルダム寺院まで歩こうかと言い出した。

私は「オルセーで 絵を観ることを目的としてきていて、

シャネルの店は目的ではなかった!」と強い語調を吐いた。

 

しばらくは、沈黙して並んでいたが、 寒さも半端ではない。

どんよりとして 薄日さえもさしてこない・・・

とうとう 折れて、 ノートルダムに向かって歩き出した。

ノートルダムは見えているのだが、歩いても 歩いてもなかなか近づけない。

ヒロコチャンが バスの運転手に ノートルダムへ行くかどうか尋ねた。

三人はテンデワレワレにバスの座席に座った。

疲れてしまってウトウトしだしたところ

「終点ですよ」と言って、 目の前に 丸顔の日本人が立っていた。

 

浦さんと名乗る女性は 平凡な紺色のコートを着ていて、

パリジャンのセンスには ほど遠い格好をしていた。

オルセーが長い行列だったので ノートルダム寺院の見学に来たことを

告げると、 案内を買ってでてくれた。

   私・スジャータさん・浦さん

 

寺院の中はステンドグラスが 素晴らしく クリスチャンの彼女は

説明も非常に詳しい。

お勧めのカフェ「フロー」で腰を下ろした。

彼女のお目当ての席は、 丁度、運良く空いた。

「セーヌ川を観ながら この窓際の席でお茶をするのが好きなんです、

コーヒーに付いてくる生チョコもこの店の自家製ですよ」と言った。

凍えるほどだった体に 薫り高いエスプレッソと 程良い甘さの

生チョコが浸みていった。

 

 

ここまでに、彼女のパリでの生活が あらかた分かってきた。

彼女のフランス留学に協力的だった両親が 相次いで亡くなり、

姉妹とは 財産をめぐって争いの最中とか。

大学院を卒業後、

明治の岩倉具視あたりの背景の資料集めを 

大学の教授から頼まれて 地味な仕事をしてきたが、

教授は 自分だけの手柄にして 彼女に報酬を払おうとしなくなっていた。

その上、カードを紛失して 手続きが出来るまでに 7ヶ月を要し、数日前に

やっとカードが再発行されたとか。

お粥をすすって 半年を耐え、今日は久しぶりに 

巴里の街に出てきたところと言うのだ。

 

アパートの家主はその間、催促もせずにいたとか、外国で暮らす人たちの

裏側を垣間見た。

 

「岩倉具視」と聞いて ヒロコチャンがビクッとした。

彼女のおばあさんの兄弟だと言い出した。

今でも「岩倉会」といって 一年に一度、東京で会があるそうだ。

何のご縁か・・・・不思議な巡り合わせだ。

 

 

 

彼女のお茶代を私たちで払おうとすると、 

浦さんは自分の分は 自分で払いたいと言った。

「ほかに何処か 行きたいところはありませんか?」と浦さんが言った。

「何処といって 別にないです」とヒロコチャン。

私は少しむっとして、

すかさず「かふぇ・ら・ぱれっと」に行きたいんです・・・」 

シャネルの今店で用をたして満足した彼女は 

他人の希望を思いやろうとしてくれなかった。

 

「かふぇ・ら・ぱれっと? 私が大学に通っていた時、近くにあって 

いつも通っていた店ですよ。 奉仕に行く教会の近くでもあるんですよ」と

言った。

 

私の店の名前は 巴里の「かふぇ・ら・ぱれっと」から頂いた。

画商さんが集まる 評判のいい店ということだった。

私たちスタッフは「パレット」、お客さんが いろいろな色を

載せていってくれたなら・・・という気持ちで付けた名前だった。

機会があったら、本店?を訪ねてみたいと 常々思っていた。

 

浦さんと知り合ったおかげで 苦労して探すこともなく

目的の「かふぇ・ら・ぱれっと」に行くことが出来るのだ。

そうなると、げんきんなもので 最初に話をしてくれた

ヒロコチャンに 感謝の念が湧いて来た。

お腹もすいたので、浦さんお勧めのカジュアルなレストランで昼食をした。

浦さんはここでも自分の昼食代は自分で払った。

セーヌ川の中州の島、サンルイ島を歩いていった。

 

我が家には手造りの小屋、Gauche ゴーシュと名づけていたが

彼女にその話をすると ゴーシュに 不器用なとか左手とかの意味も 

もちろんあるが、 セーヌ川の左岸、右岸と巴里に住む人たちは 

分けていて、 左岸に位置する 「かふぇ・ら・ぱれっと」など 

“文化的”という意味も含んでいると教えてくれた。

 

その後、 彼女の奉仕する教会に立ち寄り、

「かふぇ。ら。ぱれっと」に向かった。

 

庶民的な店だった。地元の人たちが気軽に利用出来る店構え、

活気があった。 最後のフィルムでこんなに
                                                  舞い上がった写真が1枚

エスプレッソを飲みながら 壁に架かった数個のパレットを見上げた。

油絵の具がこってりと凹凸をなし、埃をかぶった様は歴史を感じた。

この店は革命派の店らしく“ギロチン”と言う名をつけた

サンドイッチがあると浦さんは言った。

流暢なフランス語で彼女は 店のスタッフに 私が日本で

「かふぇ。ら。ぱれっと」というカフェをしていることを告げると、

彼らは 「15年前にその話を聞いたことがある」と言った。

そう言えば、同級生の徳子さんが巴里に住んでおり、彼女が帰省した際に

店名の由来を話したことがあった。

徳子さんは 地球の裏側の本店「ぱれっと」でその話をしていたらしい。 

それにしても、15年前に・・・と言うところが面白い。

 

ベロニカさんに逢いに行く時間となった。

浦さんを誘ったが 彼女は 「部外者の私が一緒に行っては 

ベロニカさんが 戸惑うかもしれないから・・・」と辞退した。

明日のベルサイユ宮殿見学のオプションの後、

ベルサイユまで迎えに来てくれて、ステンドグラスの美しい教会に

連れて行ってくれると言ってくれた。

そんなに浦さんに甘えてしまっていいのだろうか・・・・

 

私が ステンドグラスが好きと言ったので  セントチャペルという 

ルイ14世の財宝を収めていたという建物のも案内して 

ステンドグラスの美しさを堪能させてくれた。

今でも 革命派が財宝を隠し持っているということだ。

 

 

浦さんが勧める店でワインとチーズ、パンなどを買って

地下鉄乗り場で彼女と別れた。

昼間に乗ったバスの車掌さんは バスのチケットを受け取らなかった。 

浦さんは 地下鉄もこれで多分OKと言ったので

こころみたら ダメだった。

慌てて チケット売り場を捜して右往左往。

こんな三人の行動は プロのスリたちに見透かされていた。

やっと、改札を通過して地下鉄に乗ると、

乗客が私のリュックが空いていると教えてくれた。

びっくりしてヒロコチャンを見ると やっぱりリュックが

ガッポリと 口を開いていた。 スジャータさんはOKだった。

 

スリが多いから リュックは前にしようと思っていたが

改札を通ってからのつもりだった。 

そういえば、バスのチケットで「通れないよ!」と言っていたとき、

黒人の背の高い人たちがぶつかるように後ろから来た。

私は 彼らの通行を妨げたと思っていたが、 あの時だったんだ・・・

リュックには雨具しか入れていなかったので 二人とも被害はなかったが 

さすが、巴里の地下鉄!と思い知らされた。

 

ベロニカさんから聞いていたモンマルトルに近い 14個目の駅に

着いた。

右の階段を上がって 公衆電話から着いたことを知らせることになっていた。

外は真っ暗になっていて 雨が降り出していた。

公衆電話は 黒人の女性が使っていた。

様子を見ていると なかなかつながらない様でイライラしていた。

思い切って 私達も使いたいという仕草をすると、

簡単に「NO!」と言った。

また、しばらく待つ。 今度はコインを見せたら 「カードが必要」と

カードをヒラヒラさせただけで公衆電話から出ようとしなかった。

どこで買ったらいいんだろう・・・・ベロニカさんのアパートの

近くまで来ているというのに・・・・

 

周囲を見ると メガネ屋さんがあった。

勇気を出して入っていった。

まず、英語をしゃべることができるかと聞いてみた。

ベロニカさんの電話番号を見せて かけて欲しいと伝えた。

怪訝そうではあったが かけてくれた。

ヨカッター!!

店主にお礼を言って電話代を出すと いらない仕草だった。

メルシー・ボク!!

フランス人はみな、気位が高くて 英語を話そうとしないと聞いていたが 

メガネ屋さんのご主人の親切で 私の色眼鏡は一変した。

 

ベロニカさんが傘をさして迎えに来てくれた。

バレーを趣味にしているというだけあって 華奢でかわいい方だった。

彼女のお城は まさに屋根裏部屋、7階まで螺旋階段。

息を切らせて登った。

DKの部屋は清潔で住み心地が良さそうだった。

私とヒロコチャンは初対面だったが ワインで乾杯をして

すぐに打ち解けた。

 

ベロニカさんは ピ−スボートに乗るかフランスへ語学留学に行くか 

迷っていた時に、 人を介して知り合いになったそうだ。

ご主人、子供二人、舅、姑、を置いて日本脱出。

彼女の勇気に脱帽だ!

出発まではご主人といわゆる“夫婦の危機”状態だったのが

彼女の荒療治のおかげか 

「明日、主人が巴里にくるのよ・・・」ですって!

心配で奥さんの様子を見に来るのか。

帰国してから 彼女とメールをしたら、二人がエッフェル塔の前で

仲良く頬をよせている写真が貼付されて来た。

 

地下鉄の事件を興奮して話したせいか、ベロニカさんは 

オペラ座駅まで送ってくれた。

それでは 彼女も 帰り道、一人になって怖かろうに・・・・

 

十字架を背負わされたキリストに水を与えたというベロニカと

釈迦に粥を差し上げたスジャータと モハメットの慈悲深い娘 

ファーティマ、岩倉具視の親類、

まさに “巴里首脳会議”がこうして終わった。

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