人生に杭ありパート5


 人生が順調とは限らない。私も多々つまずき、傷ついた経験者である。読者の参考のために、それらの中から主だったものを記してみよう。題して、人生に杭ありパート5。


パート5

 とうとう会社を去る時がやってきた。もうこれ以上は無理と判断し、早期定年制度に応募したのだった。ともかく心身の回復を図らなければならない、それを最重点に考えたのである。もちろん休職という選択もあったかもしれない。しかし会社の経営状況はすこぶる悪く、仕事を休んで給料を貰うのには、かなりの心理的抵抗があったのである。

 リストラの流れはだいぶ前から続いていた。会社は毎年多額の赤字を出し続けていた。ほかの事業所では希望退職も行っていた。私の部署も組織変更がなされ、長年取り組んでいた仕事は中止となって、別の仕事をしていた。しかしその仕事も終息し、装置売却など、その後の後始末をしていたのであった。人はどんどん配置換えとなり、数分の1にまで減った。私の専門を生かすことはほとんどできなくなり、時折突発的な依頼仕事をしているだけであった。
 こういう仕事には私は不向きであった。いつ体調不良で休むかもしれない人間に、突発的な、しかも納期が短い仕事はそもそも無理であった。
 体調は依然悪いままだった。鬱病が少し悪化した時、このままでは死んでしまうという思いにかられた。鬱病の死、それは自殺を意味する。会社には迷惑をかけたくなかった。無能ながらもここまで給料を払ってくれた会社や同僚に、迷惑はかけたくなかった。鬱病を承知で採用してくれた会社に、何らかの恩返しもしたかった。そこで私は決断した。死ぬのなら健康な心身になってから死のうと。そして経営難の会社に最後の恩返しをしようと。
 経済的には親子3人で他にたいした収入があるわけでなし、そう簡単なことではない。しかし、どうしても他の方法が見つからなかった。

 勤続年数が短いので、大した退職金が出たわけではない。割増金も税金分が多く予想以下であった。家のローンは完済してあったが、貯金はほとんどなかった。頼りは傷病手当金だけであった。そういう中で、療養生活が始まったのであった。
 半年ぐらいは寝てばかりいた。鬱はだんだん良くなっていった。そこでボケきった頭を回復するために図書館に通い、本を読んで暮らした。最初のうちは1時間も読み続けることが出来なかったが、だんだん半日ぐらいは本を読み続けることが出来るようになった。ようやく良くなった来たと実感できたのは、2年近く経ってからである。
 傷病手当金は一年半で切れた。もともと6割の支給でボーナスは無しだから、それだけでは生活はできなかったのだが、それでもずいぶん助かったのである。今は収入はない。当てもない。しかし、いくぶんなりとも健康を回復できたことは大きな喜びである。
 

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