人生に杭ありパート1


 人生が順調とは限らない。私も多々つまずき、傷ついた経験者である。読者の参考のために、それらの中から主だったものを記してみよう。題して、人生に杭あり。ちとぶっきらぼうな文体だが、これが私の気分なので、許しておくれ。


パート1

 初めての大きな試練。それは20代半ばにやってきた。ある中小半導体メーカーにエンジニアとして勤めていた私は、給料は安いながらも精一杯仕事をしていた。周りからは期待され、仕事の成果もかなりのものだと自他ともに認めるものはあった。しかしある時期、昭和53年秋を境に、疲労感の増大、意欲の低下が始まり、典型的な欝症状を呈し始めたのであった。

 思い当たる原因は少なからずあった。まずは仕事の負担、そして責任の大きさ。新入社員同然の私が会社の将来を背負って奮闘していたのである。組合活動の負担もあった。仕事が終わると、組合事務所に行って活動。その後職場に戻って残業を繰り返していたのであった。そして社内の人間関係もまたストレスの種であった。さらに個人的な心の葛藤もあった。別れた人との心の整理が出来ていなかったのである。彼女とは心惹かれる関係ではあったが、恋人とまでには至ってはいなかった。しかし別れとはつらいもので、茫然とした日々が続いていたのであった。
 それやこれやで私の精神は確実に蝕まれていった。そしてとうとう上司に連れられて、精神科の診察を受けることになったのである。病名はやはり欝病であった。重篤ではないということで、通院治療を始めたのであるが、数ヶ月たってもなかなか治らなかった。仕事ははかどらないし、休み勝ちでもう完全に自信喪失、無力感の中でただ生きているだけという日々が続いた。その中で転職の誘い話があり心機一転のつもりで一旦は受けたのであるが、医者からは無理だといわれ断念、益々無力感にさいなまれていったのであった。
 あまりの不甲斐なさに、新しい上司からはこのままでは将来がないぞといわれ(今考えれば励ますつもりだったのだと思う)、自分としても病気治療に専念してやり直そうと決意、会社に辞表を出した。社長からは一応遺留されたが、もう会社に未練がなくなってしまっていたので、きっかり丸5年で会社を辞めた。
 会社を辞めた後は美術館に行ったり、映画を見たり、小旅行をしたりして過ごした。今までの自分の生き方が全否定されている気持ちが強く、新しい自分を見つけようともがいていたのだった。幸い3ヶ月ほどでうつ病は良くなった。しかし乏しい預金を取り崩して生活していたので、すぐに職探しをしなければならなかった。そして運良く、前に転職話があった会社に就職出来たのである。しかしこれがこれで、私の心の中にひとつの縛りとしてずっと生き続けるのであった。
 
 私の人生は、ここで大きな断絶となっている。何か越えられない深い溝のように、この病気の前後で別々の人生に分かれている感覚が今でもある。それだけ重大事件であった。社会的、人間的にも未成熟な青年が、人生の荒波の中で遭難して、おぼれかけながらも必死の思いで這い上がったかのようだった。
 

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