@注意書き @はじめに @絶対的理由の不在 @人が殺人に至る理由 @殺人を禁止する社会 @私の最終的な回答 @おわりに |
注意書き これから私は,かなり危険な持論を展開します.ご注意下さい.論題は「人を殺してはいけない理由」です.私は今回,倫理・道徳などをあえて極力度外視して論じます.感情に訴えかける論なら,そこいらに沢山ありますから.ピュアな心でいたい方,信心深い方は,これを読まない方がいいと思います.しかし,読み始めたのなら,最後まで読んで欲しいと思います.途中棄権するのであれば,この題に向き合うだけの力が無いという事でしょう.それでは,長くなりますが,述べさせて頂きます. と,その前に.あまりにも長くなりすぎたので,いくつかのパートに分けました.興味のあるところだけ読んでもらっても構いませんが,できれば全部読んで欲しいですね. トップに戻る はじめに 「なぜ人を殺してはいけないのか」と質問する子供が増えているらしいです.そして内容が内容なだけに,「こんな疑問を持つなんて,近頃の子供達の心は,なんて殺伐としているのだろう」と嘆く大人もいるそうです.しかし,疑問に思う事は,ごくごく当たり前でしょう.ただまぁ,答えを他人に求めるような内容ではないと思います.そもそも質問とは,自分で解決できない問題について他人に意見を求める行為です.幾度も思考をめぐらせることなく質問しているのだとしたら,彼らは考える力,生きる力が弱まっているのでしょう….そういった意味では,少々嘆かわしいですね.考え抜いた結論を確認するための質問であるのなら,まだマシなんですが.のっけから脱線していますねw.しかし,この質問を受けたのなら,まずはその人の意見を聞いてみるべきだと思います.ほとんど考えていないようであれば,話になりませんから.そして,自らもこの題に向き合って,納得のいく答えを可能な限り追求すべきです. 私には既に持論の核となる部分が出来上がっていましたが,一般的な考え方を知ろうと思い,論を書くに先だって,ウェブ上で検索をかけてみました.すると,様々な意見がありました.「理屈ぬきに,殺人はいけない」というものであったり,「各自で常に考えることが大事」というものであったり.それらの説明は,おそらく質問者を納得させるものではないでしょう.この題を考えるほとんどの人は,そこを通り過ぎてなお,質問するのです.また,破滅的な意見もありました.これは回答になっていませんね.まぁ,私の持論も似たようなモノかもしれませんが….ほとんどの人が納得しうる回答を用意するのは,容易ではありません.そこで私は,「それを言っちゃぁおしまい」な,極論に近い論を展開しようと思います.ちなみに私の論は,「質問者への回答」というよりはむしろ「回答者への回答」のようなものです. 結論から述べれば,「人を殺してはいけない絶対的な理由」は存在しません.それを示した上で,「人を殺してはいけない」という概念の成立,私の最終的な回答を示します. トップに戻る 絶対的理由の不在 先にも述べましたが,「人を殺してはいけない絶対的な理由」は存在しません.というよりむしろ,世の中には本来,「命を奪ってはいけない理由」すら存在しません.ご承知のように,ほとんどの生き物は自分以外の何かを殺しながら生きています.これを読んでいる人も,現在進行形で何かの命を奪っている事でしょう.食事でも,免疫機能でも,PCを動かすための電力を作る過程でも,果ては,貴方がただ動く事によってですら,命が失われます.生活環境や糧など,生きるために必要な条件を失う生物(主に微生物)が存在します.…「命」という枠組みを少し広げ過ぎていますか?範囲も直接関係ないところまで広げ過ぎていますか?しかし,「命」を語るのであれば,この事実を一度は考えて下さい.「命は平等」「命は大切」と本気で考えるのであれば,この一瞬ですら膨大な犠牲を払って生きている事を知るべきだと,私は思います.目に映るものだけが「命」ではないのです. さて,全ての生命体は,意識的にしろ無意識的にしろ,「自分のため」に行動します.行動目的の中で最も重要な要素は,「自己保存」です.ほとんどの場合は,「生きるため」と言って差し支えないですかね.先ほどのように,ミクロとマクロを同時に扱うと怒られそうなので,誰もが想像しやすい領域で述べるとします.まず,肉食獣が生きるためには,肉を食べねばなりません.リスクや効率もあって,草食獣を襲います.また,草食獣が生きるためには,植物を食べねばなりません.さらに,肉食獣に襲われたら,逃げるか撃退しなければなりません.いずれの場合も,相手(草食獣・植物・肉食獣)を殺す結果になる事は多々あります.我々は,それらを責める事はできません.責めたいのであれば,まずは何も食べずに生きて下さい.しかし,上記のような「命を賭けたやり取り」を頻繁に行う事は,「自己保存」の観点から推奨されません.不必要な「やり取り」は,不用意に自身の死を招きかねないからです.満腹のライオンは,シマウマを襲いません.圧倒的に有利でない場合には,なおさらです.あなたも,ネコを足蹴にできても,トラを足蹴にはできないでしょう.これらは,自然界の秩序が保たれている要因でもあります. ここまでは,多くの人が考える内容でしょう.そして一つの回答を導く事でしょう.「生物界の暗黙の掟にならい,自己保存に関わらない殺傷はすべきでない」と.しかし実際には,その回答にも穴があります.条件付であるため「絶対的な理由」ではないという事はもちろんですが,実は,この説明自体が否定されます.反例があるのです.ゴリラやチンパンジーなどは,群れの中の弱者を攻撃する事があります.シャチは,アザラシの子供をボール代わりにして遊ぶ事があります.このように,人間以外の動物でも,一部は「必要性の低い暴力」の行使をするのです.そしてそれは,知能と力を持つ種族の証でもあります.人間がそれにならうという事は…説明は不要ですね.そもそも,どうも誤解されがちですが,「生物界の掟」というものは存在しません.我々が「生物界の掟」と思っているものは,人間が生物界を大雑把に観察して思いついた,法則のようなものです.つまり,現在において生き残っている生物の行動パターンの多くが,そうなっているだけです.よって例外も多々あります.ただ,「行動パターンが例外的な生物は,比較的淘汰されやすい」というだけの事です. これらのような,いわゆる「畜生」の世界を舞台にした説明を,人間に当てはめる事を毛嫌いする人達もいるでしょう.また,「『人を』殺してはいけない理由」という論題から遠ざかっていると感じている人もいるでしょう.それでは,人間の世界を中心に話を展開します. トップに戻る 人が殺人に至る理由 そもそも,人はなぜ人を殺すのでしょうか.殺人の動機は通常,「自己保存」「障害排除」「怨恨・報復」「快楽・欲求」の4つに大別されると考えられます.「自己保存」に関しては,先ほどの「畜生の世界」と類似していますね.ただし,人間が高度な知能を持ち,文明・文化のある社会を築き上げた事により,「自己」の適用範囲が広くなり,また,その質も変わっていますが.例えば,精神の領域であったり,金品やステータスであったり.簡単に言えば,大切なモノは全て,自己の一部です.このような「自衛的動機」から,殺人という手段を選択する事があります.これに対しては,世間は少々寛容ですね.一部は,「結果として人を殺しても許される理由」とされる事もあります.緊急避難,正当防衛,戦争などといった場合でしょうか.自他の命を守るためにとった行動の結果,誰かの命を奪ってしまっても,文句を言われないという事です.これを「絶対にしてはいけない」という人は,自身が同様な状況下に置かれた場合,速やかに問題を解決するか,自分の命を自ら犠牲にしなければなりません.他人に「殺人」を犯させずに済む,数少ない方法です. 「障害排除」は「自己保存」から派生したようなものですが,今回は「自己保存」とは関係の薄いモノを指す事とします.得たいモノを得るために,その障害を排除する発想は,ごく自然なものです.ただ,排除の方法として殺人を選択する場合があるという事が問題です.「自己保存」の場合もそうですが,「命を奪わずとも目的は達成される」事は多いです.それではなぜ,「殺人」に至るのか.それは,「比較的簡単で,効果は絶大」だからです.人間は,道具を用いる事で,簡単に命を奪う事ができるようになりました.「殺す事」と比較して,「相手を可能な限り傷つけないよう排除する事」は,難しく,かつ,手間がかかります.また,排除しようとする間は常に抵抗される可能性があり,さらに,排除したところで何かの拍子に復帰すれば,再び障害となります.しかし,対象が完全に消えてしまえば,それ以上は直接脅かされる事はありません.つまり,完全なる排除のためには殺す事が「合理的」というわけです.害虫を殺さずに追い払う手段は,いくらでもあります.しかし人間は,殺虫剤を散布したり,潰したりします.それと同じです.相手が人間であるというだけの事です. 「怨恨・報復」は,大きく複雑な感情を持つ,人間に特有のものです.「障害排除」と同様に「自己保存」から派生したようなものですが,「障害排除」が「自己の領域」を空間的に拡張したものと捉えるなら,こちらは時間的に拡張されたものといえるでしょうか.過去において自分の大切なモノを失わしめた対象に,現在において死を求めるという事です.この動機は,むしろ支持されてきた面もあります.中世の世界では,日本を含め「仇討ち」は正当化されていました.場合によっては,仇討ちをしないのは不道徳とされる事もあったようです.現代においてですら,忠臣蔵などの仇討ちモノは,いまだ根強い人気があります.やってる事は,「私情による殺人」なんですが….話を現代にしますが,加害者に対して極刑を求める遺族に同調できる人は,自身に内在する「殺人を肯定する思想」を完全には否定できないでしょう.逆に,同調できない人は,「何をされても,何を失っても,殺意を抱く事は無いもしくは抑えられる」と断言できますか?私にはできません. また,サスペンスドラマなどでは,「あいつは復讐なんて望んでいない」というようなセリフを耳にする事があります.どうしてそんな事が分かるのでしょうか.他人の感情を勝手に創作し,それを押し付けるのはどうかと思います.綺麗なセリフは,心ある言葉のように聞こえますが,結局は発言者のエゴに過ぎません.そして復讐は,誰かのためではなく,自分のために行うものです.説得する方もされる方も,勘違いしてもらっては困りますね.また憎しみは,何かへの愛情があってはじめて生まれます.私は,憎しみを否定する事は,愛情をも否定する事だと考えます.よって,否定するのではなく,その感情の存在を受け入れ,乗り越えるものだと考えます.もし乗り越えられない人がいたとしても,それをむやみに責める事はできないと思います.それを責められるだけの資格を持ち合わせている人は,ほんの一握りでしょう.話がかなりそれてますね…. 「快楽・欲求」も,快楽が多様化し,強大な力を持った,人間に特有のものです.ゴリラやシャチの件は「命を奪う事を目的」としているわけではありませんが,こちらは「殺す事そのものの課程や結果」で快感を得ています.少々毛色が違いますね.「快楽・欲求」を動機とする殺人は,自己と同等以上の力を持つモノを対象とする場合もありますが,そこまで考慮するとややこしい事になりますので,弱いモノを対象とする場合を主に考えます.例えば,ストレスから破壊衝動に至るのは,たやすいです.破壊行為そのものが脳内の快楽物質の放出を促すという事もありますが,別の理由も存在します.ストレスの原因となる問題を解決できないのは,弱いという事を意味します.自身の弱さを否定するため,強さを顕示しようとするわけです.何か…多くの場合,自分より弱いモノを破壊する事で,ストレスを発散させ,かつ,自身を強者と認識する事により,大きな快感が得られます.もちろん,ストレスからだけでなく,興味本位や個人の性癖から衝動に至る場合もあります.そして,快楽を伴う行動は,習慣化&エスカレートしやすいです.エスカレートしていく中で殺人に至り,いつしかそれ自体を目的とするようになる事もあるでしょう.強さを最も顕示できる行為の一つは,殺人ですから. 上記の4つに分類されない動機については割愛します.このように,「殺意」は,誰もが持ち合わせているものです.ほとんどの場合は,各自が持つ道徳観念や社会通念から,実行に移さないでいるだけです.道徳観念については個々人に依存するため,説明のしようがないですね.それでは,「人を殺してはいけない」という社会通念は,いかにして発生したのでしょうか.実際のところは知る由も無いので,これは私の推測に過ぎませんが,キーワードはやはり「自己保存」です.「何時でも何処でも誰にでもどんな手段でもどんな理由でも殺されてもいい」という人は,まずいないでしょう.生を求めない生命体は,ほぼ全て速やかに死んでしまいます.自身の死の確率を下げるために尽力するというのは,ごく自然の行為です.その具体例の1つが,「不殺の大衆的同意」です. トップに戻る 殺人を禁止する社会 人間は,自由で器用な「手」と発達した「知」を活用し,文明を作り上げました.また,コミュニケーション能力を活用し,群れを拡張した社会を形成しました.そして,その文明社会の中では,殺人をせずとも生きていられる可能性が高いです.道具と手法と協力により,個人では得られない生活があるためです.しかし,自分が殺傷されないとは限りません.上記にも挙げたように,人が人を攻撃する理由が偏在するためです.また,力の差があったとしても,道具・手法・協力によっては逆転されます.自分の死を予防するためにはどうすればよいのか.そう考えた時に,「自分への加害が許されない事を周りに宣言し,それを遵守させる」という解決策が導き出される事でしょう.いわゆる「法律」の誕生です.もちろん,法律は本来,傷害や死に限らず様々な被害を防止するものです.そのアプローチの上に「暴力=犯罪」という概念を包含させたという形でしょう.しかし,私的な法律を作ったところで,それを周りが素直に受け入れるとは限りません.そこで,法律に背いた者には制裁を加えました.いわゆる「私刑」ですね. ここで見落としがちなのは,上記の「法律」は,基本的に私的なものであり,「強者が取り決め,弱者が遵守するもの」に過ぎないという事です.制裁を加える事が可能なのは,力を持つ強者ですから.ではなぜ,弱者間においても法律が適用されるのでしょうか.それは,「社会を維持するための,強者の策」です.犯罪が横行していたり,死が偏在していたりしては,社会が維持されません.社会の崩壊は,その社会に所属する人間に致命的なダメージを与え,それは強者においても同様です.逆に,社会を発展させれば,「より安定した生」を得る事に繋がります.よって,社会の崩壊を防止したり,社会を発展させたりするために,「法律」を弱者間にも適用できる形に改め,制裁を明確に規定した「刑罰」を制定しました.また,自衛団や警察などといった保安組織を設立して治安維持に取り組みました.そして,政治を行いました.弱者の側も,自身の「安定した生」が維持される環境は得るべきものであり,そのための条件,つまり「法律の遵守」は,ごく自然に受け入れられます.そして法律を守らない者は,社会からの恩恵を享受できません.「皆が法律を守れば殺されない」&「死にたくないから法律を守る」という2つの概念が「不殺の大衆的同意」を生み出したと言えます. しかし,法律も所詮は人によって作られたものであり,保安活動も完璧ではありません.そのせいか,欲求に駆られて法律を破る「ならず者」は,後を絶ちません.少しでも犯罪を減らすには,物理的な犯罪抑止力だけでなく,精神的な抑止力も必要となります.このとき,刑罰の側面の一つである「見せしめ」が意味合いを強めます.刑が公開執行されたり,罰の内容が広報されたりする背景の一つが,これでしょう.そして,刑罰の残虐性を高めれば,抑止力は高まります.とはいえ,刑罰の内容は社会的に許容されるものである必要があります.そうでなければ内外から非難され,暴動やテロの要因にもなりうるからです.ここで皆さんは,ある矛盾に気付く事でしょう.「死刑制度」の存在です.殺人(を含む様々な凶悪犯罪)を抑止するための殺人が,不殺を同意した人々から許容されるのはなぜか.その理由を簡単に言えば,「社会の崩壊や自他の死の要因となりうるレベルの犯罪者を生かしておくメリットが少なすぎるから」です.大衆にとっても,「自己保存」と「障害排除」の観点から,「直接的な死の制裁の執行」を許容せざるを得ないのです. そういえば,いつかの法務大臣が「個人的な信条から,死刑執行の書類にサインしない」などと言っていました.実におかしな話です.大臣職は公職であり,その仕事は公務です.そこに私情を挟む事は許されません.そして彼の発言は,犯罪抑止力を低減させます.サインしないのはこの際構いませんが,それを広報する事は間違っています.法務を統括する者としての能力が疑われます.重要な職務を放棄するくらいなら,初めから固辞すべきですね.確かに,死刑制度の犯罪抑止力に疑問の声が上がっている時代背景もあります.これに関しては「私的死刑考」も参照して頂くといいでしょう.少しですが,追記もしましたので. 余談ですが,「目には目を」で有名なハムラビ法の中には「医療ミスで子供が死んだら,医者の子供は死刑」という条文もあります.つまり,過ちを犯した当人が死刑になるのではありません.このようにハムラビ法には,「過ち犯した者は,与えた被害と同等の報いを受けるべき」という思想が強く反映されています.このような事から,ハムラビ法は復讐を肯定した法律と思われがちですが,本来はそうではありません.互いの損失を,公的な措置で同等にする(そうでない場合もありますが)事で納得させ,むしろ,復讐の連鎖を断つ狙いがあったのです.このようにハムラビ法は,「殺されたくないから殺さない」という概念とあいまって,強力かつ納得しうる法規制度であったと言えます. トップに戻る 私の最終的な回答 さて,これまで「人を殺してはいけない理由」に絶対的なものが無い事を説明しましたが,私は何も,殺人を推奨しようとしてるわけではありません.質問者が「安易な回答に納得できない」理由を,可能な限り考察・探求したに過ぎません.それではそろそろ,私がどう回答するのかを述べようと思います. 私がこの質問を受けたら,まずは相手の意見を聞きます.当人が何らかの回答を持ち,「人を殺してはいけない」と考えているのであれば,特に何も言う事はありません.同意できる内容であれば「その通り」と答えればいいのです.いたずらに自分の考えを押し付けるのは,好ましくありませんから.それでも意見を求められたのなら,もしくは相手が「人を殺してもよい」と考えているのであれば,もっと突っ込んだ説明が必要です.別のアプローチを試す事となります. 次のステップでは,まず「何時でも何処でも誰にでもどんな手段でもどんな理由でも殺されてもいいのか」と相手に尋ねます.たいていの場合は「嫌だ」と返ってきますから,「自分がやられて嫌な事は,相手にもするべきではない」が回答になります.これで納得してくれたのなら楽なのですが,そううまくいくとは限りません.人間とはワガママなものですから.そんな場合は,このように説明するでしょう.殺人を始めとする暴力は,社会的に忌避され,法律で禁止されています.社会で生きる上では,その社会での法律の遵守が要求されます.また,「人を殺してもよい」という概念の蔓延は,社会の崩壊に繋がります.だから暴力(殺人)は許されないのです.暴力を行使したいのであれば,それを許容する社会に移り去りなさい.と.しかし,「自分の命を賭してでも殺したい」対象を引き合いに出された場合,「社会的に許容される殺人の存在」を提示された場合などは,このような説明は意味を成しません. さて,困りました.「人を殺してはいけない絶対的な理由」が存在しない以上,相手を納得せしめる説明は,私にはできません.しかし,よく考えて下さい.我々はなぜ,この質問に回答しようとするのでしょうか.質問を受けて回答しようとする我々には,ある共通した心理があるはずです.『質問してきた相手には,人を殺してはいけない事を理解してもらいたい』と考えているはずです.そしてその根底には『質問してきた相手には,人を殺して欲しくない』という心理があるのです.…無いと言うのであれば,どのようにでも回答すればよいのです.相手を論破したいだけであれば,詭弁でも何でも弄して好きにやって下さい.私は,「人を殺して欲しくない」と考えているのであれば,それを直接伝えればいいと思います.例えば,私がもし,我が子(現在はいませんが)からこの質問を受けたとしたら,「お前が人を殺したら,私はすごく悲しい.だから人を殺してはいけない」と言うつもりです.「何だ,結局は感情論か」と言いたい人は,まぁ好きなだけ言って下さい.その代わり,私を納得せしめる回答を用意して下さい.まず無理でしょう. 公共広告機構が流していた自殺防止のCMをご存知でしょうか.自殺しようとしている人を思いとどまらせるには,どのように声をかけるべきか.それが示されていました.「あなたが大切だから,自殺して欲しくない」です.非常に単純で,自己中心的な説得です.これを受けて自殺を思いとどまってくれるかどうかは,分かりません.ですが,自らを理由としない説得は脆く,そして無責任です.「だれそれが悲しむ」「人生捨てたものじゃない.未来には希望がある」などの月並みな説得で思いとどまるようなら,始めから自殺しようとしません.本当に悲しむのか,本当に希望があるのか,それらは知りえぬ事です.また我々も,相手の事をどうでもいいと思っているのなら,始めから説得しようとしません.我々を突き動かす根底的な理由が,そこには確かに存在しています.それを示すのは,最低限の誠意だと思います.「人を殺してはいけない理由」にも同じ事が言える,と,私は思うのです. トップに戻る おわりに ずいぶんと長くなってしまいましたが,私の主張はこれにて一旦終了です.まぁ,述べ切れてない部分も多々ですが….一気に読んだ方(そんな人いるんでしょうか?)は,さぞお疲れになったかと思います.ここまで読んでいただき,本当にありがとうございました. いや〜しかし,難産でした.書き始めてから1ヵ月半もかかっています.もちろん,コレどころじゃない期間があったためでもありますが,それでも,かなり膨大な時間を費やしました.まぁ,時間をかければいいってわけではありませんがw.でもって何を隠そう,私はかなりの遅筆です.たった一文を書き切るのに1時間かける場合もあります.触れるべき内容,表現の仕方,文章の構成,論の流れなど,考える事がいっぱいです.何度も推敲しては書き直します.考えを文章化する難しさを,改めて実感しました.もう少し分かりやすく受け入れやすい論じ方ができたらなぁ…. それにしても,こんな事ばっかり書いてしまっていちゃぁ,ますます近寄りがたい人物と思われそうです;.こんな私を「理解」してくれる人は,世の中にどれだけいる事か….私を知る人ですら,み〜んなヒいてるでしょうねぇ.思想関連の主張は封印すべきかも.はぁ….でも…考察したい&書きたいネタがまだまだあります.「そんな事はいいから仕事しろ」と言われそうです;.頑張らなきゃなぁ…. トップに戻る written on 2006.07.30
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