□ Angel Voice ルルー編 □

文字を遡って、作家の頭の中に響いていたであろう
ファントムの声の実体に近づいてみよう


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ここでは主にガストン・ルルーの原作とスーザン・ケイの小説に絞って見ていきたいと思っています。
声に関する描写を抜き出していて感じたのですが、声の描写には二通りの方向性がありますね。
声そのものに関する描写。
そしてその声が与える影響に関する描写。
例えば前者は「甘美な、燃えるような」、後者は「頭の芯が痺れるような、無意識の内に引き寄せられるような」といった具合で。ファントムの声の並外れた魅力を伝える為に、声に対する直接表現と同時に、その声が周りの人間にどのような作用を及ぼすか、という間接表現を併用している事が多いです。

ちなみにガストン・ルルーの原作では両者が比較的バランスよく使われているのに対して、スーザン・ケイの小説では圧倒的に後者が多い(笑)
エリックの声そのものよりも、その声が第三者にいかなる恍惚感を与えるかの描写にかなりの筆を費やしている。
これはスーザン・ケイがこの作品を書くにあたって、ミュージカルの影響を色濃く受けているからではないかと思います。(後書きから察するに、エリックの声のモデルになっているのはマイケル・クロフォードでしょうか)
スーザン・ケイはミュージカルの歌声に大きな影響を受けた一人であり、小説の中に見られる描写の数々は、多分に彼女が舞台を観て受けた「痺れるような恍惚感」の再現という側面を含んでいるのでしょうね。
初めから”送り手”であったガストン・ルルーと、まず”受け手”であり、その感動を元に”送り手”となったスーザン・ケイの違いが現れていて面白かったです。


それでは想像の中の「天使の声」を追ってみましょう。
まずはガストン・ルルーの原作から。
「」内は『オペラ座の怪人』(創元推理文庫・三輪秀彦訳)より引用しています。
「やさしい男の声 」
「とても美しく、とても甘く、そしてとても魅力的な声」
ではあるけれども、ただ甘いだけではなく
「雄雄しくも甘美、反駁の余地を与えないほど悪賢く、力強い中にも繊細、デリケートな中にも毅然として、どうしようもないほど勝ち誇った調子であるというような、両極端な性格をあわせもつ声」
である。またその声には
「音楽を感じ、愛し、演奏する人たちのなかに、確実に高揚した気分を生み出すような決定的な調子」
があり、平凡な歌詞やメロディーでさえ
「情熱の翼に乗せて天空へと舞い上げる吐息によって、いちだんと美しく変容」
させる力がある。まるで声による錬金術のように
「その声は泥土でもって青空を作っていた」
「その声が歌う情熱を負かすことのできるものはない」
そしてその並外れた歌声は
「全ての意思とエネルギー、いちばん必要とするときにほぼ全ての明晰さを奪ってしまうその魅力」
「あの声を聞いてきみが恍惚となるのを」「聞いているうちにひどくうっとりと」
させてしまう力があるが故に、周りの人間にとって
「この上もなく危険な魔力」「あの声は実に危険」
となってしまう。

クリスティーヌと一緒に『オセロ』を歌っているところを見ると、(一般人の声質の枠にエリックが収まるかどうかは別として)エリックはテノールのようですね。

原作におけるエリックの声の描写を見てみると、大きく分けて四つの特徴に分けられるのではないかと思います。
+ 甘く、優しく、美しい声であること。
+ 声の幅が広く、両極端な要素をあわせもっていること。
+ 声に触れるもの全てを、その情熱によって昇華させる力を持っていること。
(平凡な詩句しかり、聞き手の魂しかり)
+ 人の判断力を鈍らせ、恍惚状態に陥れる危険な作用を持つこと。

この「両極端」という要素は、声のみならずエリックという人物を考える上で、かなり重要なキーワードになるのではないかな。
声の質に留まらず、声が与える影響においても両極端。
聞き手を、許された者しか訪れる事のできない至高の園に導く事もできれば、そのあらがえない魅力で堕落させる事もできる。
そもそもエリックは存在自体が両極端ですよね。
誰よりも醜い顔に、誰よりも美しい声を持っている。
優しさと冷たさ。謙虚と傲慢。光と影。天使と悪魔。

「両極端の魅力」というのがございまして、心理学的にどのように定義されているのかは分からないのですが、個人的に人間は”極められたもの”を好む性質があるのではないかと思います。
浸透圧の実験にしてもそうですが、自然の法則として熔媒(水)を通す性質をもつ半透膜を隔てて濃い液体と薄い液体が隣り合った場合に、薄いほうから濃い方に流れて濃度を一定に保とうとする。
人間の感情においても同じような現象が存在するのではないかと。
すなわち弱い感情が、強い感情に向かって引き寄せられるという現象が。

”極”は最も際立った性質を備えたものであり、ゆえに人を引き付けるも強い。
あまり例はよくありませんが、ナチス・ドイツがいまだに一部の人間にカリスマ的な影響力を持っているのは、ナチス・ドイツがファシズムという思想及びその実践に関してひとつの頂点・完成形となっている、つまりファシズムにおける”極”となり得ているからだと思います。

私たちの感情の中にはごく当たり前に正反対の要素が含まれていて、愛情の影には憎しみが、憎しみの影には愛情が潜んでいたりする。
愛がささいな事で激しい憎しみに変わったり、反対に憎しみが深い愛の裏返しだったりする場合もままありますよね。
「両極端」とは、文字通り二つの極みを正反対のベクトルで備えていて、例えば愛と憎しみであれば、そのどちらの要素に対しても強い吸引力を持っているわけだから、これは強烈な魅力ですよね(笑)

もう少しファントムに即した例を出しますと
「強引に奪われたい(奪いたい)」と「優しく献身されたい(献身したい)」
「甘えたい」と「甘やかしたい」
「包まれたい」と「包みたい」
「女として男に支配されたい(男として女を支配したい)」と
「母性として男を慈しみたい(父性として女を守りたい)」
人間が持つ相反する本能を、同時に吸い取り満たしてくれる存在=ファントムであり、相反する願いに応える事が可能な「両極端」な性質が、彼の魅力の根本を成しているのではないかと思います。

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