□ Angel Voice ケイ編 □

文字を遡って、作家の頭の中に響いていたであろう
ファントムの声の実体に近づいてみよう


・・・――――――――――――・・・――――――――――――・・・

ガストン・ルルーの原作に引き続き、スーザン・ケイ著『ファントム』の中のエリックの声に耳を済ませてみましょう。
「」内は『ファントム』(扶桑社ミステリー・北条元子訳)より引用しています。

エリックは生まれた直後から無敵の美声を誇っていたようで、
+ 誕生直後

「その第一声は何とも形容しがたく 」
「この子の声には聞く者の涙を誘うような不思議な音楽性があり」
「魔女セイレーンの声ような悲しげな音」

+ 4歳〜9歳

「催眠術のような甘い歌声」
「ずば抜けて美しい、鈴を振るような子供の声」
「繊細で抗いがたいその声」
「甘い、心を麻痺させるような音色」
「この世の物とは思えない美しさ」

+ 15歳前後
「催眠術にかけるような、不思議な声」
「奇妙でこの世のものとも思えない少年の声」

+ 20〜23歳

「聞き違えようもない驚くばかりの美しい響き」
「たぐい稀な深みと響き」
「男の声のもつ圧倒するような力」
「優しく甘い声の中には、抗いようのない響きがあった」
「その甘美な声」

+ 50歳

「その声があまりにも美しすぎて、とてもこの世のものとは思えない」
「威厳に満ちた神のような響き」

ルルー編でも書いたように、ルルーの原作に見られる声の描写と比べると、スーザン・ケイの声の描写は感覚的・感情的なものが多いです。
声そのものの形容に使われている言葉はわりと単純で、「甘い」「優しい」「美しい」
「深い」「繊細」及びその類義語くらいでしょうか。
後は全て○○のような〜という比喩を用いて表現されていますね。

ジョヴァンニ(マスター・メイソン)はエリックの声を「少年の」と表現しているのに対して、ナーディルの視点によるエリックの声の描写には、「甘い」「美しい」などの柔らかさだけではなく、「深み」「力」「威厳」といった男性的な表現も加わっていることから、エリックはジョヴァンニと別れてナーディルと出会う16〜19歳の間に、声変わりしたんでしょうな。


エリックの声が聞き手に与える影響は人によって微妙に異なるようで、
マドレーヌの場合は
「手管に翻弄された肉体のように乳房が疼き、その子を抱き締めてやりたいという原始的な欲望に駈りたてられる」
「私の脳を恋人の抱擁のように包み込んだ」
「この世の果てまで逃げて行っても、あの声からは逃れることはできないのだ」
「目に見えない鎖につながれているように、自分でも気づかず、仕事をおいてそばに引き寄せられてしまう」
「体の奥深く見えないところに磁石でも隠されているように引きつける」
「あの子の声で私が自在に操られるような気がして恐ろしくてならなかった」
「私の反応はただひたすら肉体的なものだった」
「あの子の声は罪なんです」
「大罪です。あれを聞きながら神の恩寵の内に死ねる女なんて一人もいません」
肉体的反応に重点をおいて描写されており、「逃げられない」「鎖につながれた」「引き寄せられる」などの表現が繰り返される事によって、エリックの声がマドレーヌに対して強い拘束力を持っている事を窺わせます。
今までエリックの声の呪縛に、最も強く捉われていたのはクリスティーヌだと思っていたのですが(影響を受けた、という点ではクリスティーヌでしょうが)、実は母親のマドレーヌが一番その声に魅力に縛られていたんですなぁ。
マドレーヌにとっては、母性としての慈愛と女性としての官能に同時に火をともす、厄介な歌声だったようです。


一方、同性であるナーディルにとっては
「柔らかに笑う男の声に、私の手の甲の毛が逆立った」
「隙間風の入る薄暗いテントの中で、こんな声を聞くこと自体が恐怖だった」
「それは耳の中で音を金の液体に変え、私をエクスタシーの早瀬に乗せて押し流してしまった」
「目の前に広がる虚空の彼方からルークヒーヤが手を差し伸べるのが見える」
「男の言葉、音の一つ一つが私たちを近づけ、気がつくと抱き合うほど間近にいる気分になっていた」
「我々の民族としての記憶から悲しみを呼び起こし、それを絶え難い美しさへと浄化させた」
精神の深い所へ沁み込み、彼の密かな願いを具現化し、空想の中で願いをかなえるという作用を持っていたようですね。
ナーディルはエリックの声の中に、二度ルークヒーヤの幻を呼び出していますが・・・無意識のうちにいつも「会いたい、会いたい」と願っていたんでしょう。
マドレーヌのようにエリックの声が創りだす幻の中に溺れてしまわなかったのは、ひとえに彼の目的意識及び意思の強さゆえだと思います。


さらにクリスティーヌにとっては
「天にも昇る歓喜を感じながら、自分の価値のなさが恐ろしく」
「その声が私にとっては霊感の源、ご褒美なのだ」
「私をこの世の殻を破って遠く宇宙の果てまで誘い」
「エリックの声が私の心に絵を描いてくれる」
思いのほかエリックの声に対する描写が少ないのに驚きました。
クリスティーヌにとってエリックの声は、自分の卑小な世界を広げてくれるもの、音楽に対する霊感を与えてくれるもの、そして現実を超えた空想の世界に導いてくれるもの、という意味合いがあるようです。
現実を超えた べつの世界へ 君を導く〜♪ (by 夢の配達人・エリック)
エリックの声がクリスティーヌに与える影響には、マドレーヌの肉体的反応ともナーディルの記憶との対話とも違う、何か・・・まだ魂の固まっていない子どもが明るい空を目差して飛び立とうとするような、純粋で崇高なところがありますね。


スーザン・ケイの『ファントム』の中で見られる、エリックの声の特徴としては
+ 甘く、優しく、美しい声であること。
+ 強力な催眠作用を持っていること。
(聞き手の現実感を失わせ、現実と空想の境目を曖昧にさせる)
(聞き手の思考力を奪い、彼の指示に対し従順にさせる)
特に二つ目の「催眠的効果」に関しては、原作のあっさりとした描写と比べるとかなり誇張されていると思います。

ちなみに催眠状態というのは、脳波にα(アルファ)波が見られる、心身共にリラックスした状態であり、催眠の深度によって現れる反応が異なるそうです。
軽度の催眠では脈がゆっくりになる、呼吸が深くなる、体が重く感じる程度ですが、深度の催眠では幻覚や意識の過去への退行現象なども見られるそうな。
エリックの声が周囲の人間に及ぼす影響を見ていると、マドレーヌの幻覚やナーディルの過去の記憶の表面化など、エリックの声には聞くものを深度の催眠に導く作用があると考えてもよさそうです。
そもそも「音楽を聴く」という行為自体に、多少なりともα波を出す=脳をリラックスさせる効果があるのですが、やはりエリックの声の魅力に負うところも多いでしょう。


多くの人が聞いていて心地良いと感じる声には、本来耳には聞こえないはずの超音波と、ある種のゆらぎが含まれている事が多いそうです。
人間の耳の可聴範囲は20Hz〜20KHz程度で、それより低い音は低周波、高い音は超音波(高周波)と呼ばれるのですが、超音波には人間をリラックス効果があるそうですね。(反対に低周波には不快を感じるらしい)
小鳥のさえずりや楽器の音などに、超音波が多く含まれるんだそうな。
実際の声の高さは超音波の有無にはあまり関係せず、声が高くてもあまり含まれていない場合もあれば、低い声でも大量に含んでいる場合もあるそうです。

ゆらぎとは一定の間隔で繰り返されるリズムの変化(強弱・長短など)の事であり、そのゆらぎが描く波形をf(周波数)で表わすと、人の体や自然界には1/fというゆらぎがあるらしい。心臓の鼓動や小川のせせらぎなどは、この1/fゆらぎなんだそうで。
音の高低に関する周波数ゆらぎ(波の音やバイオリンの音)と、音の大小に間する振幅ゆらぎ(お寺の鐘や風鈴の音)の二種類があり、これらのゆらぎを含んだ音を聴くとα波が出やすくなるそうです。


以上の点を総合するに、エリックの歌声には多量の超音波と、二種類の1/fゆらぎが共に含まれていたのではないかと。
特にゆらぎに関しては注目すべき一文がございまして、「潮のように押し寄せる甘い調べで揺すってやっていると、クリスティーヌは私の腕の中で安らかな眠りに落ちた」とあるんですよ。
つまり彼は意識的にコントロールして、自由自在にゆらぎを生み出す事ができたのではないでしょうかね。恐るべしエリック・・・。

※Hz ヘルツ
音の振動数(周波数)を表わす単位。
一秒間に10回振動すれば10ヘルツ、1万回振動すれば10KHz。
振動数が多くなるほど音は高くなっていく。
・・・――――――――――――・・・――――――――――――・・・


← Back