□ I don't know where he is. □

クリスティーヌが去ったあと、マスクを残して姿を消したファントムは
どこへ行ってしまったのか?


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「クリスティーヌに去られた後のファントムはどうなったと思うか」

これは特に目新しい話題ではなく、舞台を観た人なら一度は考えた事があるのではないかと思うのですが、私が思うにこの設問に関する答えは大きく二通りの意見に分けられるような気がします。

つまり
クリスティーヌの愛によって救われたファントムは、その後一人静かにクリスティーヌの幸せを願いながら生きる。
クリスティーヌの愛を失ったファントムは、一人では生きていくことが出来ずに消滅(生命を失う、という意味も含んだ)してしまう。

実際に生命を失うかどうかはさておきとしても、全ての苦しみから解放されて前向きに生きるであろうと考える人と、クリスティーヌを失っては、もう生きてはいけないだろうと考える人に大別される。

ちなみに私は後者の考え方をしています。
一つには、もしファントムが、相手の幸せを願いながら身を退き、その後心穏やかに過ごせるような理性的で大人の愛をクリスティーヌに向けていたのなら、私はここまでファントムに惹かれることはなかったでしょう。
他人を愛する事に己の全存在をかけられる、その無垢な純粋さに・・・あるいは壮絶なる欠落に、私は憧れているのだから。

もう一つに、かなり前の日記で、映画『アマデウス』のサリエリの言葉を借りて
サリエリが凡庸であるがゆえに私たちを理解し、「私は汝ら凡庸なるものの
守り神(=champion)である」と言ったのと同じように、ファントムは最後まで
孤独であるがゆえに「我ら全て孤独なるものの守り神」となり得ているのかも
知れない

と書いたことがあるのですが、いまだにそう思っとります(笑)
クリスティーヌのキスによって、一瞬見えた光を大事そうに掌で包みながら消える彼の大きな孤独が、私達の孤独を癒してくれる。

さらに少し心理学的な話になるのですが、『オペラ座の怪人』の物語の根底には、欲望のままに求める(求められる)快楽と、それに対して道徳的制裁が加えられる安心感が盛り込まれていると思うのですよ。 この場合の道徳的制裁は、最終的にクリスティーヌはラウルを選ぶ、という事ですが。
「欲望と制裁」は、おとぎ話の中によく見られる構図でもありますね。

客は、道徳的常識を取り払って心の趣くままに欲しいものを求める快感と、その欲望が砕かれる事によって、道徳的規範の中に再び収まる安心感を同時に得る事ができるんですね。
いや〜、よく出来た話ですな。


最後に・・・少しイレギュラーな解釈になりますが、私のもう一つの”ファントムの行方”に対する解釈を。
最後、玉座に座って消えたファントムは、実は本当に消えてしまったのではないかと思うのですよ。
どこへ?
クリスティーヌの心の中へ。

その昔ドラマ化されて話題になった、『ヤヌスの鏡』(宮脇明子作・集英社)という作品をご存知だろうか。
厳格な祖母に育てられ、それゆえ自己主張ができず流されるばかりの主人公、小沢裕美「ヒロミ」には、もう一つの人格「ユミ」 が存在した。
祖母の前では萎縮してしまい、言いたいことも言えず、やりたいことも出来ない気弱な「ヒロミ」の代わりに、彼女の夢をかなえるべく生まれた「ユミ」。
己の感情・感覚に忠実で、罪の意識を持たず、自分のやりたいことを阻害する人物は手段を選ばず排除していく。

もう一人の人格「ユミ」の存在に気づいたヒロミは、ずっと祖母との苦しい対立を避け、全てを「ユミ」に押し付けて逃げていたこれまでの自分と向き合う決心をする。
「ユミ」は「ヒロミ」のかなわぬ夢を実現するために存在する人格。
「ヒロミ」が己の力で夢をかなえようとする勇気を持てば、もう「ヒロミ」にとって「ユミ」は必要ではなくなるのだ。

物語のラスト、自分を消そうとする「ヒロミ」に怒り、母親がかつて飛び込み自殺をした海へ出かけた「ユミ」が、「ヒロミ」の片思いの相手である進東に言った言葉。
「ヒロミはどうしてあんたみたいなの気に入ったのかしら?
とにかくヒロミはあたしが、あたしはヒロミがいなくちゃ生きてはいけなかったのよ」
同じ人間でありながら、「ユミ」の「ヒロミ」への愛情は一方通行だった。
少し切ないですね。


ファントムがクリスティーヌのもう一つの人格、父への依存から抜け出せない、隙あらば昔の夢の中に埋もれて行こうとする”影の人格”の相対化であるならば、クリスティーヌが正面からそれを見据える勇気を持ち、受け入れ口づけた瞬間に彼女の内に取り込まれ、一体化したのではないかと。
多重人格の人が、治療によって徐々に一つの人格に統合されてゆくように。

私がクリスティーヌなら、きっとファントムにかける最後の言葉は「さようなら、そしてありがとう」になると思います。

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