□ 母の面影 □

ファントムのクリスティーヌへの想いに、
幼い頃体験した母親との愛憎の記憶は影響しているだろうか。


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クリスティーヌのファントムヘの想いが、父親へのそれと重なっているという示唆は舞台上で何度もなされていますが(この物語の中で一番好きな曲である「Angel of Music」は、そのままパパとファントムを結びつける役割を担った曲だと思う)、ではファントムのクリスティーヌへの想いに「母親」の要素を見出す事はできるだろうか。

舞台でファントムが自分の母親について語るのはわずかに1回。
「母にも嫌いぬかれて」のワンフレーズのみ。
しかしこのワンフレーズの告白が、彼がこれまでの人生で味わってきたであろう多くの絶望を想像させるに十分な重みを持っているために、ファントムの人生を理解する上で「母」というキーワードは、抜かす事のできない重要なポイントの一つとなっていると思います。

エリックにとっての「母」のイメージを掘り下げ、後にエリックがクリスティーヌを求める情熱の激しさの一因に据えたスーザン・ケイ著『ファントム』の中では、クリスティーヌの外観がエリックの母親にそっくりであったという設定がなされていますね。
母親のマドレーヌが没した年にクリスティーヌが生まれたというくだりは、そのまま「生まれ変わり」を暗示している。

昔のフィルムを巻き戻すように、エリックは幼少期に母親に求めて得られなかった愛を、時を超えて再びクリスティーヌに求める。
運命の輪が一周して振り出しに戻る瞬間に、エリックは一生かけて求め続けた「最上の喜び」をようやく手に入れた。
普通の人間にとっては特別ではない事、でもエリックにとってはかけがえのない事。
それ故に、エリックほどその真の価値、真の喜びを知る人はいない。

スーザン・ケイの『ファントム』がファントムファンから支持されているのは、最後にエリックの充足が描かれているからでしょうね(笑)
舞台を観て得た心の奥の切ない燻りを、この小説は癒してくれるから。


ひるがえってガストン・ルルーの原作では、クリスティーヌがエリックの母親に似ていたという記述は特にありません。
エリックの顔を二度と見なくてすむよう、泣きながら最初の仮面を贈ってくれた事。
”みじめで貧しい”エリックの母親が、唯一残してくれた家具を、アパルトマンの一室に保管している事。
(肘掛け椅子の背に、鉤針編みのレースがかけられているという描写に、不覚にも涙しそうになった。棺を寝床としている彼には、まるで似つかわしくない平凡で穏やかな家具。何だかんだ言いながら彼は、家庭的な想い出を・・・実際には楽しい想い出などなかっただろうから、家庭的な空気と言うべきだろうか・・・を、自分住まいの一角に大切に保存しているのだ)
”哀れな”母親は、エリックに接吻される事を決して望まず仮面を投げつけて逃げたという事。
彼の醜さが両親の恐怖の対象であったために、幼くして家を出た事。
それくらいでしょうか。

舞台に於いても原作と同様、特にクリスティーヌ=母親を強調するような描き方はしていませんね。
が、個人的にはやはりファントムがクリスティーヌを見つめる眼差しの中には母親への愛惜も混じっていたのだと思います。
先に「心の影を同じくする人」と書きましたが、自分と同質なものを求める心理の中には、肉親に対する愛情に似た要素も含まれるので。

少し前に日記のほうで、姉の結婚相手であるゆっきーが、どうも私に似ているらしいと書いたことがあるのですが、無意識の内に人は自分が慣れ親しんだものを選ぶ傾向にあるんでしょうね。

普通に両親に愛されて育った姉でさえそうなんだから、いわんやファントムをや。
喪失が大きかっただけに、クリスティーヌに求める愛情のなかに(原作のエリックの言葉を借りれば)「わたしはわたし自身として愛されている」という、母親から得るはずだった無条件の愛も、当然含まれているでしょう。

お互いにお互いの父親、母親を重ねて見ていたという点も、ファントムとクリスティーヌの大きな共通点の一つだと思います。

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