目の前でカーテンを閉じて、浅く息をついた。 客の視線が遮られたとたん、身体にのしかかっていた重圧が軽くなるのを感じる。 このあとクリスティーヌが登場したら、またすぐに出番がやってくる。 フードを目深にかぶり直し、大道具のベッドに腰をおろして出番を待つ。 そのほんのわずかな間に、カルロッタと初めて出会った時のことを思い出していた。 もう20年近く前になる。 カルロッタとはバルセロナの場末の酒場で出会った。 当時、売れない歌手としてヨーロッパ各地をドサ周りしていた私が呼ばれた酒場で 彼女が歌っていたのだ。 シガーの煙と、安物のアルコールの匂いが充満する薄暗い店内。 各テーブルを回ってはシナを作って甘い声で歌う彼女は、18歳と言っていたが、 せいぜい10代半ばにしか見えなかった。 彼女は7人兄弟の末っ子で、彼女の両親はピレネー山脈のふもとにある小さな田舎から、職を求めてバルセロナにやって来たそうだ。 父親は当時盛んだった木綿工場で働いていたが、労働者の待遇改善のための運動に携わってくびになった。在職中は父親の運動に賛同してくれていた仲間も多かったが、やはり背に腹は代えられなかったのだろう。 ある者はためらいがちに、ある者は掌をかえすように、父親から離れていった。 「お人よしの理想家だったのよ」 カルロッタはそう言う。 前の工場での”前科”のために、新しい職も見つからず、父親は次第に荒んでいった。 職探しもせずに昼間から家で酒を飲み、ささいなことで母親に暴力をふるうようになった。 一家の生活は困窮を極め、日々の食事にもこと欠いたが、母親がもらってくるわずかな針仕事の給金さえ、父親の酒代に消えていった。 上の兄達は次々に家を離れ、カルロッタが家を出るまでの3年余りは、父親と母親との3人暮らしだったようだ。 カルロッタが家を出たのは13歳の時。 母親の死を機に、兄達と同じように父親を捨てて家を飛び出した。 「ほんとうにお前はいい声をしているね」 一番最初にカルロッタの歌を褒めてくれたのは、母親だったと言っていた。 父親にこっぴどく殴られ、まぶたを貼らしている母親のベッドの側で、歌を歌って慰めたのが始まりだったと。 カタルーニャ地方の古い民謡。流行の安っぽい恋の歌。 カルロッタが歌うと母親は目尻に深いしわを寄せて笑う。 「まるで天使のような声だね。お前の歌を聴くと、辛いことも忘れちまう」 針仕事でがさがさに荒れた手が、優しく頬をなでる。 カルロッタはあまり昔の話はしたがらなかったが、酔うと母親のことを思い出すようだった。 「母さんが私をこの道に導いてくれた」 何度も耳にしたセリフだ。 カルロッタは毎晩店での仕事を終えると、”もう一つの仕事”に精を出していた。 粗末なアパートの粗末な階段をきしませて、身なりの立派さとは不釣合いな貧相な顔をした男達が出て行くのを何度も見かけた。 男が出て行ったのを見届けてから、店の残り物を詰めた紙袋を片手に、所々ペンキがはげた水色のドアをノックする。 「ウバルド?」 「そうだ」 返事をしてドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。 むせかえるようなきついシガーの香り。 小さなオレンジ色の光が尾を引いて揺れている。 シガーの先にともされた火だ。 声帯を過酷な振動にさらすソプラノ歌手にとって、シガーの煙による刺激と乾燥は命取りだったが、何度注意してもカルロッタは喫煙をやめようとしなかった。 「また客をとったのか?」 部屋に充満するシガーの煙に顔をしかめながら、窓に近づいてカーテンを開く。 外から差し込む青い光が、シガーの持ち主の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。 小さなベッドの上で、まくらに上半身を持たれかけさせて座っている。 剥き出しの白い肩から流れ落ちる豊かな曲線。 それまでの行為の名残を残す姿から、軽く目をそむける。 「成功には”切符”が必要・・・今度のはいけるわよ。パリのオペラ座に専用のボックスを持っているんですって」 「当てにならない”切符”だな」 「何も無いよりはましよ」 せりふに合わせて、どぎつい赤で彩られた唇から一定のリズムで煙がこぼれる。 白煙を身体にまとわりつかせ、片頬を青く光らせている彼女の姿は、天から降りてきた天使に見えなくもなかった。 煙が喉の奥にしみる。 シガーの天使に背を向け、ひどい音をさせながらたてつけの悪い小窓を引き上げると、冷えた夜風が流れ込んできた。澄んだ空気に大きく息をつく。 手にしていた紙袋を膝に抱えて、窓際に腰をおろした。 「いい加減シガーはやめろ。未来のプリマ・ドンナが」 口元に運ばれようとしていたオレンジ色の光が一瞬停止する。 しかし長くはもたなかった。 「また聖ウバルドのお説教?」 「シガーの煙は喉に百害あって一利なしだ」 「分かってるわよ」 「じゃあなぜやめない?少しでも身体のことを考えるのなら――」 「吸わなきゃ、やってられないのよ」 狭い部屋に沈黙が落ちる。 これまで何度も繰り返されたやり取り。 答えは聞く前から分かっていた。 ただ苦い思いを噛み締めるのは辛い。 心の苦味を忘れるための現実的な苦味が、彼女には必要だったのだ。 黙ったまま窓の外に目を向ける。 さすがにこの時間まで外をうろついている人影はないようだ。 どぶのような腐臭が漂う、湿った狭い路地。 酔っ払いの怒声、夜の女の嬌声。 ごみだめのようなこの街も、深い夜の底で静寂を取り戻していた。 ゆるやかな風が、アパートの前の小さな木の枝を揺らす。 穏やかな夜のざわめきが、私は好きだった。 「・・・・・成功は必要か?」 外を眺めたまま、カルロッタに問いかけた。 またいつもと同じだ。 ここしばらくは、こんな会話ばかり繰り返している。 まるで二人の間の、欠かせぬ儀式のように。 「当然よ。それともあんたはこのままでいいって言うの?」 私は外に向けていた視線を戻し、正面からカルロッタを見つめた。 「二人で歌って何とかやっていけるなら、それでいいと思ってる」 カルロッタは信じられないという風に、大きく肩をすくめてみせた。 「こんなスラム街で、こんなボロアパートに住みながら、何も分かっちゃいない酔っ払い相手に才能を浪費しても二人なら幸せですって? 冗談じゃないわ!私はいつまでもこんな所を這いずり回る気はないわよ。 さんざん利用された挙句に、捨てられた父さんみたいな人生は・・・夫の暴力と貧乏にまみれて死んだ母さんみたいな人生は!そのためにはどんなチャンスにだって・・・」 ――どんなチャンスにだって。 チャンスという名の男達が彼女の部屋から出て行くのを、私は何度も見送ってきた。 あと何度見送ればいいというのか? カルロッタは片手を額に当てて軽く頭を振っていたが、私の視線に気づいて、少しバツの悪そうな顔をした。 「そりゃ、あんたには悪いと思ってるわ・・・ウバルド。でも成功を手に入れるまでの辛抱よ。 あんたと一緒に一流の舞台に立てたら、どれだけ素晴らしいでしょうね・・・悲劇の恋人同士として、甘くて哀しいアリアを交わせたら」 「僕と?」 わずかに視線を上げてカルロッタの顔を見る。 「もちろん一緒よ」 夜のかすかな明かりを受けて、瞳が透明な光を反射している。 どうやら本気で言っているようだ。 こういう時のカルロッタは、まるで童女のような顔になる。 頭のてっぺんまで汚濁に浸りながら、彼女には驚くほど無知で純粋なところがあった。 歳相応の無邪気な顔に、思わず淡い笑みがこぼれる。 どう考えても、男連れでパトロンのお世話になるのは難しいだろう。 そろそろ夜風が冷たい。 もう一度ひどい音をさせながら窓を降ろすと、カーテンを引いた。 来た時と同様、部屋の中に濃い闇が落ちる。 「ウバルド」 カルロッタが呼びかける。 「ん?」 「あんた確かイタリアの出身だったわね」 「そう・・・ウンブリア地方のグッビオ。山の中にある小さな街さ」 「名前は聖ウバルドから?」 「おそらくね」 「一度行ってみたいわね・・・」 カルロッタはポツリとつぶやいた。 もし、君さえよければ。 白い肩を揺さぶって、大声で叫びたい衝動に駆られる。 もし君さえよければ、二人でグッビオに戻ろう。結婚して家庭を持ち、畑仕事でもしながら静かに過ごせれば・・・。 ――喉元まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。 全ては無駄な話だ。 「そろそろ帰るよ。これは店の残り物。ちゃんと食べて来いよ」 手にしていた紙袋を小さなテーブルの上に置く。 「泊まっていかないの?」 カルロッタが小さな声で尋ねる。 闇の向こうで、彼女がどんな表情をしているのかは分からなかった。 「今日はやめとくよ・・・じゃあまた明日」 足早に部屋を横ぎり、ドアのノブに手をかける。 「ウバルド」 ノブに手をかけたまま動きをとめる。 「シガーはやめるわ」 「それがいい・・・お休み」 ドアが閉まる寸前まで、部屋の中の影は微動だにしなかった。 しばらくドアの前に立っていたが、大きく息を吐くと、なるべく音をたてないようにアパートの階段を降りた。 辺りは静まりかえっている。 カルロッタの部屋の窓の下を通ると、微かに歌声が聴こえて来た。 優しくもの哀しいメロディ。 立ち止まって耳をすませる。 『ローレライ』だ。 愛する男に裏切られ、その悲しみから男を惑わす魔女になってしまった少女の物語。 カルロッタは自分をなぞらえて歌っているのだろうか。 それとも母親によく歌ってきかせた歌なのだろうか。 今降りてきたばかりの階段を、もう一度駆け上がってドアを叩けば、何かが変わりそうな気がしたが、私はその場から動けなかった。 歌声が消えた後も、私はずっと佇んでいた。 * * * * * 目の前のカーテンがかすかに揺れて、ふと我に返る。 なぜ急に昔のことを思い出したのだろう。 あれから時が過ぎ、カルロッタは念願の成功を手に入れた。 私のことなどすぐに忘れてしまうだろう思っていたが、彼女は私を迎えに来た。 それ以来、私は彼女の共演者であり、彼女の「影」だ。 しかし・・・私は成功した彼女から、あの時の『ローレライ』より美しい歌を、まだ聴いたことがない。 長い栄光の中で、私たちは大切なことを忘れてしまっていたのかも知れない。 この舞台が終わったら、一度カルロッタに話してみよう。 あの時耳にした『ローレライ』のことを。 自分に、母親に聴かせるように歌っていたあの歌を。 遠い記憶の糸をたぐるように。 ひょっとしたらもう一度、あの頃に戻れるかも知れないじゃないか。 そうだ、この舞台が終わったら。 |
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