9.11同時多発テロ
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2001年9月11日。日本時間で10時少しすぎた頃。テレビ局は、それまで放送していた番組の内容を一斉に変更しアメリカ・ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだというニュースに切り替わりました。当時の自分が何をしていたかを鮮明に覚えている人も多いのではないでしょうか?
その後、その事件の詳細が徐々にメディアを通じて我々のもとに伝わってくることになります。
アメリカの現地時間では9月11日午前8時46分。ボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便が世界貿易センタービル北棟に突っ込みました。その17分後の午前9時3分には、ボストン発ロサンゼルス行きのユナイテッド航空175便がビルの南棟に突っ込んだのです。
さらに9時39分にはワシントンにある国防総省、ペンタゴンにワシントン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空77便が激突しました。
また、ニューアーク発サンフランスシスコ行きのユナイテッド航空93便はワシントンの連邦議会に突っ込む予定でしたが、これは乗客たちの抵抗によりペンシルベニア州南部のピッツバーグ郊外に墜落しています。
この4機の旅客機乗っ取りに加わったメンバーは19名。本来は20名が犯行に加わるはずであったといわれていますが、1人は、事件の25日前に航空学校にて訓練を受けていた時に発言の怪しさから学校がFBIに連絡。留学生ビザが切れていたことから逮捕されています。
アメリカのブッシュ大統領は、事件後、テロの首謀者をオサマ・ビンラディンと断定。彼が指導者をつとめているアル・カイダというテロ組織が行った犯行であると発表しました。
このビンラディンが事件発生当時にいた場所はアフガニスタン。そこでタリバン政権の客人として滞在していました。アメリカは、このタリバン政権にビンラディンの受け渡しを要求。しかし、タリバン政権は、これを拒否し、10月7日にはアメリカとイギリスによりタリバン政権は攻撃を受けることになります。
そして、アメリカ、イギリスの攻撃。さらには、アフガニスタン内部の反タリバン勢力により攻撃を受けたタリバン政権は11月13日には反タリバン勢力の首都カブール突入をゆるし12月7日にはタリバンが本拠地としていたカンダハルを明け渡してタリバン政権は消滅することになります。
その後、ビンラディンは2011年5月2日。パキスタンにてアメリカ海軍特殊部隊により銃撃戦の末、殺害されたとされています。
さて、若い方には、ちょっとこれだけ聞いても疑問が残る部分が多々あると思います。タリバン政権って何?テロ組織でしょ?いや、テロ組織はアルカイダでしょ?そもそもビンラディンって何でそんな力持ってたの?などなど・・・。
では、初めにビンラディンから見ていきましょう。
オサマ・ビンラディン
彼の本名は、オサマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディンといいます。ビンがやたら多いですね。このビンとは「〜の息子」という意味です。ラディンの家のアワドの子供のムハンマドの子供のオサマってことです。
サウジアラビアのリヤドでビンラディンは産声をあげます。生まれたのは1957年3月10日と言われていますが1958年という説もあります。父親は裕福な資産家で1970年に飛行機事故により死亡。ビンラディンはその際、およそ3億ドルという莫大な遺産を相続したといわれています。
1979年にはソ連軍がアフガニスタンに侵攻してきます。当時は、アメリカとソ連による冷戦時代ですね。まぁ、アメリカとソ連が自分たちの子分をどんどん増やしていくぞ!っていう時代です。アフガニスタンもこれに巻き込まれます。両国ともにアフガニスタンを自国に引き込もうとして援助合戦を続けていました。
しかし、これはソ連の方が地理的にも近いので必死だったんです。ですけど、なかなかうまくいかないんですねぇ。ついには、ハフィズラ・アミンというアメリカの大学に留学経験のある人物がアフガニスタンにて権力を握るとソ連は危機感を抱き、ついにアフガニスタンへの武力による圧力をかけることにするんです。
そして、ソ連軍はこのアミンを殺害。自分たちに都合のいいバブラク・カルマルという人物をトップとして傀儡政権を樹立します。傀儡というのは、操り人形みたいな意味です。ソ連の操り人形のような政権をアフガニスタンにつくったんですね。
このソ連によるアフガニスタン侵攻は世間から非難を浴びます。まぁ、そりゃ、そうですね。自分たちに都合のいい政権をつくりたいがために武力で攻め込むんですからね。その為、モスクワオリンピックへのボイコットを日本もしましたよね。アメリカもボイコットです。西ドイツもボイコットですね。フランスとイタリアは競技に出ましたが開会式と閉会式には不参加でした。オリンピックのために人生をかけて血のにじむ努力を重ねながら、ボイコットにより出場できず涙をのんだ選手もたくさんいました。
そして、イスラム教徒の若者たちも、このソ連侵攻をイスラム世界に対する侵略であるとして続々とアフガニスタンに集まり反ソ連として戦いに加わっていくのです。そのひとりがビンラディン。この時にビンラディンは名をあげ、他のアラブ諸国の過激派グループとも親交を持つようになったと考えられています。
さて、このアフガニスタンへのソ連の侵攻は結果的にソ連の敗北に終わります。なぜ、アフガニスタンと反ソ連のイスラスム教徒の若者たちが大国ソ連に勝利することができたのか?
なんとなくわかると思いますが、裏にアメリカがいたんですねぇ。アメリカは、良好な関係であったパキスタンを通じて大量の兵器をアフガニスタンに送り込んでいたんです。パキスタンも同じイスラム教の国なのでアフガニスタンでの戦闘に加わるゲリラを支援していました。そして、アメリカから最新兵器がどんどんパキスタンを通じてアフガニスタンに入っていくんです。さらには、お金もたくさんつぎ込みます。アフガニスタンの周辺国から集う志願兵を養うお金もアメリカのCIAが出しました。
さらには、ソ連軍の兵士の中にもアフガニスタン付近の出身者のイスラム教徒らがいましたので彼らの中ではソ連を裏切りアフガニスタン側につく兵士も現れたりします。そんなこんなで1989年。ついにソ連軍はアフガニスタンから撤退することになるんです。
これでビンラディンもソ連を追い払うという目的は達成。故郷のサウジアラビアに帰ることになるんですが、1990年にイラクのクウェート侵攻が起こります。サウジアラビアはイラク、クウェートの隣国ですね。ですから、自分たちにも危険が迫るんじゃない?ってことでアメリカを頼るんですね。そして、アメリカはサウジアラビアに軍を駐留させることになるんです。ですけど、サウジアラビアといえばメッカ、メディナといったイスラムにて重要な聖地を抱える場所です。そんな神聖な場所にアメリカの軍が存在するなんて許せん!ってことでビンラディンは批判の声をあげるんです。すると、サウジアラビアから追放されてしまいます。
国から追い出されたビンラディンは、ソ連と戦った際に培った人脈をつかい活動していくことになります。
タリバン政権
さて、ソ連を追い払ったアフガニスタンですが、めでたし、めでたしとはいかず、その後は内戦が続くことになります。ソ連からの援助は当然無くなりますしね。アメリカもアフガニスタンをソ連にとられるのは嫌だけど、ソ連が撤退したんじゃ、別にアフガニスタンはどうでもいいやという感じで興味が失せてしまったようです。
残された者たちは、ソ連が攻めてきていた時は、一致団結していますがもともとはイスラム教といっても宗派や考え方の違う人たち。揉めだすんですね。
そんな中で突如、頭角を現すのが指導者をムハンマド・オマルとするタリバンでした。
このタリバン躍進の裏にはパキスタン政府らの援助がありました。
もともとタリバンの原型はパキスタンの難民キャンプにあったといわれています。ソ連のアフガニスタン侵攻によりアフガニスタンから逃れた難民は周辺諸国に流れ込みます。特にパキスタンの西部にはたくさんの難民がいました。パキスタンは、その難民キャンプに神学校を建て教育していったんです。しかし、国語、算数、理科といった教育ではないんですね。主にイスラム教について。イスラム教といってもいろいろな宗派があるわけですが、その中でもかなり禁欲的な教えだったようです。そんな学生の中からタリバンは生まれます。
タリバンというのはアラビア語で神学生たちといった意味です。パキスタン軍は、彼らに武器を与えて、アフガニスタンに自国に有利な政権をつくるために送り込みます。そして、ムハンマド・オマルによりアフガニスタンにタリバン政権が90年代には打ち立てられるのでした。
ところで、なんでパキスタンはアフガニスタンに自国に有利な政権をつくっておきたかったか?パキスタンはインドと仲が悪いんです。3回も戦争しています。しかも3回とも敗北。なので、再度、インドと争うときには、アフガニスタンに備蓄や避難場所なんかを確保しておこうと考えていたんですねぇ。
さて、タリバンというとバーミヤンの大石仏の破壊が知られています。高さ55メートルと38メートルの大きな2つの石仏が彫られている歴史的な仏像を破壊し世界的な批判を浴びています。また、博物館などに所蔵されていた仏像もたくさん破壊してしまいました。
イスラム教では、偶像崇拝を禁止していますね。神のお姿は、人間なんかが形を描くことなんてできやしない。もってのほか!といった考えなのです。しかし、これは、世界的に大きな批判を浴びました。日本でもメディアを通じて伝えられましたね。
このようにして成長していったタリバンはアフガニスタンにて大きな権力を振るうまでになっていきます。そして、そのタリバンの客人としてビンラディンがアフガニスタンにやってくると彼は、豊富な資金によりゲリラの訓練施設を建設。周辺諸国から若者たちを集めテロリストとして訓練を受けさせやがてアル・カイダとして2001年9月11日アメリカにて同時多発テロを引き起こすことになるのでした。
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