アメリカ独立戦争
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今回はアメリカ独立戦争についてです。このアメリカ独立戦争の原因は、簡単に言ってしまえば、本国イギリスの税金のとり方などに不満を抱いたアメリカの人々が立ち上がったのがきっかけですが、その経過を少し詳しく見てみましょう。
まずは分かりやすいように、アメリカ植民地時代のお話からです。
アメリカには、もともとヨーロッパ人はいませんでした。先住民、インディアンたちが暮らしていたのですね。しかし、大航海時代によりヨーロッパの国々がこぞってアメリカへと渡っていくことになります。
スペイン、フランス、オランダ。スウェーデンもアメリカに植民地を作っていましたよ。そして、最後にイギリス。
18世紀の幾度にわたる戦争の結果、その地をほぼ手中に収めたのがイギリスでした。
しかし、イギリスも手放しで喜べる状況ではないのです。特にフランスとの戦争ではお金をいっぱい使ってしまった・・・。そこで、「アメリカに住む人々からしっかり税金をとって使った分+αで回収しなきゃねっ」ってことになります。
1764年には砂糖法を発布します。植民地に輸入する砂糖に関税をかけたのです。その1年後の1765年には印紙法。アメリカで刊行される印刷物すべてにイギリスの印紙を貼ることを義務付けます。
この印紙法にはアメリカに住む人々が激怒!特に新聞社などは印紙法なんてやられたら大打撃ですから大いに怒るんです。すると、アッという間に反感の気運が高まります。新聞社などは発言力が強いですからね。あと弁護士なんかも利益を脅かされて怒るんです。そして有名な言葉が生まれます。
「代表なくして課税なし」
当時のアメリカ人には本国イギリスの議会に議員を派遣する権利がなかったのです。権利がないのだから、納税の義務もなし!という訳ですね。ちなみに英語では、
「No taxation without representation」
これは覚える必要ないですかね・・・。
ともあれ、この印紙法はやむなく撤廃することになります。しかし、1767年にイギリスが13の植民地にタウンゼンド諸法という酒、茶、紙、ガラス、ペンキなどに非常に高率の関税を掛けるのです。ほとんど日常品ですね。当然、これにもアメリカの人々は強く反発します。そして、翌年には茶を除いて関税が取り下げられます。
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黄色の部分がイギリス13の植民地
マサチューセッツ・ロードアイランド・ニューハンプシャー・コネティカット
ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルヴェニア・メリーランド・デラウェア
ヴァージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージア |
しかし、ほとぼりが冷めると今度は、当時経営が苦しくなっていた東インド会社にアメリカの13の植民地に対して茶を販売するときは関税なしで販売できる権利を与えます。(1773年・茶法)。まぁ、お茶が安く飲めることになるのでラッキーと感じたアメリカの人もいたかもしれませんが、当時のアメリカでは茶の販売で生計を立てている人も少なくなかった。それらの人たちにとっては大ダメージなのです。
そして1773年12月16日に事件が起きます。ボストン茶会事件といってマサチューセッツ州のボストンで茶法に反対していた人々がインディアンに扮装して停泊中の東インド会社の商船から商品の茶を海に投げ捨ててしまったんです。
この事件にイギリスも堪忍袋の尾を切らします。事件のあったボストン港を閉鎖しマサチューセッツ州をイギリス国王の直轄地にする。つまり自治権を剥奪したのです。
はっきりいって、ボストン茶会事件は一部の独立推進派の人々が起こした事件。この事件に対して批判的な意見を持つアメリカの人々もいたのです。しかし、イギリスが強気な姿勢に出たことにより追い込まれ、アメリカの人々が独立に向け団結していくことになります。
1774年にイギリスへの対応をめぐり第1回大陸会議が開かれます。開催地はフィラデルフィア。これにはジョージア州を除く12の植民地の代表が集まりイギリスに対して通商断絶の決議がなされます。植民地代表がいないところで決められた課税に対しては断固拒否しようと決めたのです。
そして翌年、ボストン郊外にてイギリスと植民地の人たちにおける武力衝突が勃発します(レキシントンの戦い)。これがアメリカ独立戦争の最初の1戦ですよ。
この戦いは両者互角。その後、植民地側は第2回大陸議会を開催し、ワシントンを植民地軍の総司令官に任命(このワシントンは後にアメリカの初代大統領となりますね)。これによりアメリカの武力抗争方針が決定されると植民地の人々の世論も一気に独立へと傾いていきます。
>アメリカ独立宣言
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