アラブの春
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アラブの春とは、2011年の初めから中東や北アフリカで起きた民主化運動です。
アラブの春の原因
そのきっかけはチュニジアの失業中のムハンマド・ブーアズィーズィーという青年から始まります。青年は仕事がなかったため、野菜や果物を路上で販売をしていたのですが、警察官に賄賂を渡さなかった為に営業ができないようにされてしまったんです。青年は、役所に抗議に行きますが相手にされず、失望した青年は焼身自殺してしまいました。
イスラム教では、自殺はしてはいけないことなんです。まぁ、自殺がダメなんてのは、イスラム教に限りませんけどね。自爆テロ(ジハード、聖戦)なんてのがありますが、本来、自殺はイスラム教で禁じられています。ですから、イスラム教徒の人にとったら自殺はよっぽどのことです。しかも、イスラム教では、「最後の審判」といって、その日に死んだ者は全員生き返り、神の審判を受けると信じられています。体がないと最後の審判の日に蘇ることができませんから、イスラム教では、火葬はしません。土葬なんです。なので焼身自殺というのは、本来、イスラム教では、御法度中のご法度なんです。青年の焼身自殺は、それほど異例のことでした。
これを親族が自殺現場を写真にとり、ソーシャルネットワーク(フェイスブック)に投稿。また、衛星放送が取り上げると、全国規模で政権打倒の民主化デモが広がります。
なぜ、ひとりの青年の死が国中を動かすことになったのか。実は、チュニジアでは、当時独裁政権が続いていたんですね。チュニジアという国は、もともとはフランスの植民地でした。1956年に独立し、1987に無血クーデターによってベンアリという人が大統領になります。その後、ずっとこのベンアリが大統領として国を支配していたんです。
野党勢力は弱く、選挙でも対立候補が立てられなかったり、立っても選挙を妨害したりして政界を独占。国民の不満も溜まっていたところに、この事件が起こったわけです。
そして、1ヵ月も経たない2011年1月14日にベン・アリ大統領は国外逃亡を余儀なくされることとなります。23年間も続いた独裁政権は、あっけなく崩壊するんですね。
このあっという間のチュニジアでの独裁政権打倒と民主化方針を示す政権のスタートは各地に知れ渡ることとなります。
エジプト・リビア・イエメンでも独裁政権に終止符
そして、2011年1月25日以降、エジプトでも反体制デモが発生。2月11日にはムバラク大統領は国軍最高議会に権限を委譲し、30年続く政権は交代。
リビアでも反体制派とカダフィ政権との激しい対立が始まり、カダフィ側が国民に武力行使を行ったことに対してイギリス、アメリカ、フランスなどは強く非難。多国籍軍による軍事行動の介入もあり、2011年8月には反体制派が首都であるトリポリを制圧。42年続いたカダフィ政権も終わりを告げます。
さらにイエメンでも2011年2月からサーレハ大統領に対する民衆の不満が爆発。4月には妥協案として「大統領の訴追は免除するが権限は副大統領に移譲する」という案が湾岸協力理事会によって出されますが、大統領はこれをいったんは拒否。しかし、10月には国連安保理決議が成立し、11月に大統領はついに署名。2012年2月にはハーディー副大統領が大統領に就任しました。
チュニジアで23年、エジプトで30年、イエメンで33年、リビアで42年と長期に渡り国を支配してきた政権があっという間に倒れていったわけです。その中心となったのが、生まれた時にはすでに独裁政権の中にいた若者たち。彼らはソーシャルネットワークを使い現状を変えてやる!という強い決意の下、戦ったわけですね。
その他の地域でのアラブの春による影響
バーレーンやオマーン、クウェート、ヨルダン、モロッコ、アルジェリアなどの国でも反政府デモは起こり、政府側は民主化に対し対応を迫られました。バーレーンやヨルダン、モロッコでは憲法が改正されていますね。
しかし、このアラブの春がすべてあっけなく反体制派の勝利となったわけではありません。
シリアがそうですね。アサド政権は反体制派をテロ集団として弾圧をしています。まぁ、シリアでは、イスラム国やらヌスラ戦線やら本物のテロ組織もシリアの混乱に乗じて入ってきちゃってますけどね。
>シリアの内戦
日本は、2011年に中東や北アフリカに対しておよそ10億米ドルの円借款を実施。インフラ整備などの経済支援、また民主化に関するセミナー、選挙監視団の派遣などを行っています。
今後、新政権となった国々が内政、外交などでうまくやっていくことができるのか?また、社会的な安定を維持し経済発展を進めていくことができるのか?日本を含め先進国といわれる国々には、そういったことのバックアップが求められています。
(2017年4月現在)
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