足利義満の政治〜天皇になろうとした男
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1358年、足利尊氏の死去した翌年に生まれた足利義満(あしかが よしみつ)。彼は、室町幕府の3代将軍となると、その政治力をいかんなく発揮していきます。
尊氏が新たな天皇を立てて、強引に開いた室町幕府。これにより、天皇は2人となり世は南北朝時代と国が2つに分かれてしまっていました。
そんな状態ですから、幕府の命令に素直に従う大名もまだ多くはなく、大名らは自らの利権の為、北朝に味方したり、南朝に味方したり・・・。
その大名達を義満は次々にまとめあげていきます。1390年には土岐(とき)氏を滅ぼすと、1391年には山名(やまな)氏を倒します。
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そして、初代尊氏、2代目義詮とまとめることの出来なかった南北朝をひとつにまとめ上げることに成功するのです。
しかし、この時、足利義満が用いた方法はちょっとズルイ・・・。
1392年、この時期は南朝がもっとも衰えていた時期。一方、室町幕府(北朝側)は、3代将軍足利義満により最盛期を迎えようとしていました。そこで、義満は南朝側に提案を持ち出します。
「これからは、南朝と北朝とで交互に天皇を立てることにしましょうよ。とりあえずは、北朝からはじめたいので、天皇の位の証拠でもある三種の神器を渡してください。」
これを南朝側の後亀山天皇は受け入れます。しかし、義満は始めからこの条件を守るつもりなどありません。一度受け取ったが最後、もう南朝に天皇の座を渡すことはないのです。ともあれ、足利義満は、兵を一人も犠牲にすることもなく南北朝をひつとにまとめ上げます。
さらに、義満は経済面でも、その能力を発揮します。日明貿易です。
当時は、倭寇(わこう)といって日本の海賊が東シナ海にはびこっていました。明は、この倭寇をどうにかしてくれ、と日本に求めます。義満は、これを引き受けますが、ついでに明との貿易を始めます。この貿易では、勘合という合わせ札が使われていたために、勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれます。
この日明貿易。実は、明に臣従する形であった為に国内では、反発の声もあったといいますが、義満は、そんなことより貿易の莫大な利潤を重視したようです。
また、足利義満で有名なのが金閣寺ですね。修学旅行で目にした方も多いでしょう。この派手な建物を別荘としていたというからスゴイ人です。
これら、金閣寺や日明貿易で有名な足利義満ですが、実は息子を天皇の座に付け、自身は太上天皇(本来は皇位を後継者に譲った天皇の尊号)につこうとしていたとも言われています。義満の母方には天皇家の血が流れており、これはかなり実現性の高い計画だったそうです。実際、足利義満の位牌には、太上法王の戒名がついていますので、天皇にかなり近いところまでいっていたと思われます。
大きな野望を抱き、政治、経済とカリスマ性を存分に発揮した足利義満でしたが51歳で急死することになります。
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