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歴史年代ゴロ合わせ暗記>イランの歴史

イランの歴史


 遠いイランという国。しかし、みなさんのお父さん、お母さんの中には「イラン人の友達がいるよっ」という人も少なくはないと思います。実は、1990年頃には多くのイラン人が日本に出稼ぎに来ていたんです。現在では、いくつかの理由から皆、イランの故郷に戻ってしまいましたが、それでも日本人の人と結婚をするなどして現在も日本に残っている人も多くいますね。

 それでは、今回はイランの国について学んでいってみましょう。


 

 ●首都:テヘラン ●人口:77400000人ほど
 ●国土面積:1648195km2
 ●公用語:ペルシア語
 


 現在のイラン人の祖先にあたるアーリア人が現在のイランの地に移住してきたのは、紀元前1500年から1000年頃だといわれています。紀元前550年にはキュロス1世によりアケメネス朝ペルシア帝国が起こりました。イランというとイスラム教のイメージが強いでしょうが、この当時は火を神聖視するゾロアスター教が国教です。

 3代目のダレイオス1世の頃には東は今のアフガニスタン、パキスタンの一部、西はエジプトにまで及ぶ大帝国を築き上げます。

 しかし、その後はアレクサンドロス大王との戦いに敗北し滅亡。大王の死後、帝国は3つに分裂し、現在のイランの地はセレウコス朝シリアの支配下に置かれることとなります。

 その後、セレウコス朝が衰退すると紀元前250年頃にアルサケス1世によってイランの北部にパルティアが建国されます。ですが、そのパルティアも次第に分裂化・・・。220年にはアルデシール1世による攻撃によって数年後には滅亡することになります。

 そして、226年にアルデシールによって建国されたのがササン朝ペルシアでした。

 このササン朝ペルシアはその後、651年まで栄えますが日本ともつながりがあります。奈良の正倉院に収蔵されている「白瑠璃碗」というガラス器はシルクロードを経由してササン朝ペルシアから運ばれてきたものですね。

 しかし、ササン朝ペルシアも国教はゾロアスター教。では、いつ頃からイスラム教へと変わっていったのか?

 ササン朝が滅亡した後はモンゴル帝国の侵攻などを経て1501年にイスラム教シーア派を国教とするサファヴィー朝が成立しました。イランの地にイスラム教が根付くのは、この頃からなんですね。

 しかし、1925年に軍人レザー・ハーンのクーデターによってパフラヴィ―朝が開かれると政治の非宗教化などの近代化への政策によって女性の解放によるチヤードル(全身を覆うために着る布)の禁止などを行います。

 1962年には白色革命と呼ばれる親米近代化計画が遂行され工業化や経済発展に成功していくことになります。ですが、その反面、急速な改革は秘密警察などによる強権的な面もあり、また、経済発展により恩恵を受けるのが主に王族や官僚ばかりであったことなどもあり、民衆のうっぷんは溜まっていくのでした。

 イスラム教の軽視、上流階級のみが甘い汁を吸う経済発展。溜まりにたまった怒りは後に革命へと繋がっていくのです。

 その革命を指導したのがホメイニ。国王批判を繰り返し国外へと追放されていたホメイニでしたがこの彼のことを中傷した記事をめぐり暴動が相次ぎ、さらには民衆のたまった怒りが爆発!やがて王政打倒運動にまで発展し、1978年には国王を国外に追い出すことに成功します。

 その国王と入れ替わるようにホメイニは帰国。最高指導者として迎えられたホメイニは革命評議会を設置。ホメイニは国名をイラン・イスラム共和国としました。これがイラン・イスラム革命です。

 しかし、親米近代化を進めていた前政権。それを打倒したわけでから、当然アメリカとの関係は悪化していきます。また、アメリカに逃げた元国王を引き渡すように新政権が要求しますが、アメリカはそれを拒否。これによてイランの国民はアメリカ大使館を襲撃したりもしています。

 さぁ、このイランの状況。これをチャンスと見る国もあったのです。今まではアメリカの後ろ盾が邪魔だったのですが、それがいなくなった・・・。あれ?今、チャンスなんじゃない?

 と、考える国・・・。そらがイラクでした。フセイン大統領が就任した翌年のことです。

 もともとイランとイラクは国境付近を流れるシャトル・アラブ川という川の所有権をめぐって争っていたんです。ここは石油が沢山出てきますからね。イラクは今を逃す手はないとばかりにイランに攻め込みます。

 当初、イラクの優勢だったものの革命で大混乱であったイランは戦争で逆に一致団結。逆にイラク領に侵入を開始するほどになります。しかし、アメリカやソ連、欧州の国々などがイラクを支援。結果、膠着状態となり1988年に停戦が成立することになります。これがイランイラク戦争ですね。

 さて、この戦争の後。イランの政府は”出稼ぎ”を支援することにするんです。理由は復員兵士の雇用促進のため。しかし、どこの国に出稼ぎに出るか?当時の日本はバブル時代です。また、日本は当時、石油貿易によってイランとは結びつきも強く査証免除協定というものがあり、ビザがなくても入国が可能だったんです。これでイランの人たちが沢山、日本にやってきたわけです。建築関係の仕事に就く人が多かったみたいですねぇ。日当もよかったようですし・・・。

 しかし、一部のイランの人たちが違法行為を行ってしまったため、査証免除協定は停止。多くのイラン人は母国に帰っていきました。母国に帰ったイラン人の中には日本で学んだ技術を活用し役立てていたり、今でも日本人がイランに行くと大変な歓迎を受けるといった話も耳にしますね。

 ちなみにですが、イランイラク戦争のおかげで日本は莫大な資産を投資し石油開発化学事業を行っていたのですが、すべて”パー”になています・・・。

 しかし、イランの石油は日本の高度経済成長を支えたといわれほどお世話になってもいるんですけどねぇ。

 さて、実は日本と非常に結びつきの強いイラン。1989年にはホメイニが死去。ハメネイがその後、最高指導者となっています。

 2002年にはイランの核開発が発覚。イランは平和的利用目的だと主張しますが国際的な理解は得られていません。

 現在も政情は安定しているとはいえませんが、日本のテレビドラマ「おしん」が大流行するなど日本好きの人も多いイラン国民。

 さらなる友好をイランと日本が築き上げられていくといいですね。

イランの国家体制