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界橋の戦い


 192年、袁紹と公孫サンとの間で起きた争いが
界橋の戦い(かいきょうのたたかい)です。

 では、この界橋の戦いについて少し詳しく見ていきましょう。

 冀州という地域があります。ここは韓馥という人物が治めていた土地だったのですが、袁紹としては、豊なこの土地が欲しくてたまらない・・・。

袁紹


 そこで名案を考え付きます。

 公孫サンに「共に協力し合って冀州を奪ってしまおうではないか」、公孫サンも実は、この土地に魅力を感じていた一人。袁紹と協力し、冀州を奪ったら、土地を分配してもらえるのだから悪い話ではないと考え、この提案にのることにします。

 しかし、袁紹は、次に自分の部下を韓馥のところへ使わせます。

「どうやら、公孫サンが韓馥殿の冀州を狙って兵を進めているようです。このままでは、冀州は公孫サンの物になってしまいます。どうでしょう。今後は、袁紹と二人で冀州を治めるということにしてみては?袁紹もあなたを厚く優遇すると言っております。」

 これによって、韓馥は、袁紹に冀州の牧の地位を譲ってしまいます。

 これが191年のことです。

公孫サン


 怒ったのは公孫サン!

 話が違う!ということで弟の公孫越を袁紹のもとに送り、土地を分配するように交渉に向かわせます。

 しかし、袁紹は、お前じゃ話にならんと追い返し、公孫越に公孫サン自身が来いと伝えます。公孫越は、兄のもとに向かいますが、途中で袁紹の部下により殺されてしまいました。(三国志演義による。正史三国志では、公孫越は、袁紹と袁術の争いの結果、袁紹側の矢に当たり死んだことになっています。これにより、公孫サンが激怒し、袁紹へ攻撃を始めたという。)

 もはや、公孫サンの怒りは止められません。公孫サンは、ただちに兵を袁紹のもとへ進めます。袁紹もさすがに焦り、公孫範という公孫サンの従兄弟に渤海太守の地位をあげるから、なんとかして!とお願いしますが、同じ一族を殺された怒りは、公孫サンと一緒。手に入れた渤海の兵を引き連れて公孫サンに味方します。

 そして、兵は界橋の近くにさしかかるのですが。これが、界橋の戦いです。

 公孫サンはかつて、盧植という人物のもとで学んでいたことがありました。そして、この盧植の門下生には劉備もいました。そのこともあり、この戦いには劉備ら関羽、張飛も参加します。

 界橋の戦いについては、三国志演義と正史三国志では、少し戦況が変わっており、三国志演義では、劉備らの活躍により公孫サン有利ということになっていますが、正史三国志では、公孫サンの惨敗で易京に逃げ延びたと記されています。

 ちなみに、この戦いにて劉備らは、趙雲と出会いました。公孫サンのもとに客将としていた趙雲ですが、この時知り合い後に劉備らの仲間となります。

 また、この戦いで戦功をあげた劉備は、公孫サンにより平原の相に任命されています。

 しかし、この界橋の戦いは、いつ終わるとも思えぬ長期戦の様子を漂わせていたため、最終的には停戦となりました。

孫堅の最後


曹操の父・曹嵩の殺害