曹操の父・曹嵩殺害
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193年、曹操は、父である曹嵩(そうすう)をはじめとする一族をエン州に呼び寄せます。青州の黄巾賊を破り、自身がその地の牧としておさまった為です。
家財道具や財宝などを積んだ車は100台ほど。一族をはじめ従者は140名ほどいますので大移動です。
徐州の牧であった陶謙は、「大変でしょうから護衛をつけましょう」と200名(三国志演義では500名と書かれている)ほどの護衛を曹嵩につけてあげます。しかし、これが後に大変なことになるんです!!!
曹操のもとへ向かう曹嵩とその一行。しかし、途中で激しい雨に見舞われてしまいます。そこで寺を借りて雨宿りをすることになるのですが、一族や従者は、寺の中で休んでいるのに陶謙が使わせた護衛たちは回廊で休憩・・・。
「おいおい、あいつらの為に護衛してやってるのに何で俺たちこんなところで休憩させられてるんだ?俺らは、もともと黄巾賊だぞ!行くあてもないから陶謙の下についたけど、こんなクソみたいな仕事ばっかりじゃ、やってらんねーぜ!」
陶謙のつけた護衛たちは、こんなことなら曹嵩一行を殺して、財宝を盗んでとんずらしたほうがいい!ということで話がまとまってしまい、実行します。
彼らは、一族を襲うと寺に火をつけます。トイレに隠れていた曹嵩もやがて見つかり殺されてしまいました。
これに激怒するのが曹操!
陶謙のせいで父親が殺されたと徐州に大軍を送り込みます。三国演義によれば、この時の曹操軍はみな白装束を着ており、大軍が並ぶ姿は、雪が降ったかのように平原を埋め尽くしたと記されています。
一連の話を聞かされた劉備は、「悪いのは、陶謙のつけた護衛であって、陶謙殿自身には罪はない」と救援に向かいます。三国志演義によれば、この時、公孫サンから2000の兵と共に公孫サンの客将としてとどまっていた趙雲を借り受けたとされています。
この劉備の行動に感謝した陶謙は、劉備に4000の兵と豫洲の刺史の座を用意し、小沛の城に駐屯させました。
<界橋の戦い
>劉備・徐州を得る
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