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孝明天皇

  


出典:幕末・明治・大正 回顧八十年史

 
孝明天皇は、1846年2月に皇位につき代121代天皇となります。この当時は、アヘン戦争により、清がイギリスの植民地にされ、日本にも欧米の戦艦がたびたび来航するようになっていた時代。

1846年4月にはイギリスとフランスの軍艦が琉球に、5月にはアメリカ戦隊司令官ビッドルが2隻の船を引きつれ浦賀に来航、6月にはフランス船隊司令官セシュが長崎にきて燃料と水を求めています。

この状況に孝明天皇は、幕府に対して異例の外国船に関する勅書を出しています。海防の強化と外国船の状況報告をしろというものですが、江戸幕府が始まって以来、朝廷が幕府に対して意見を言うなんて殆どなかったこと。

幕府全盛のころであれば、無視に近い状態だったかもしれませんが、その頃は反幕勢力が強まりつつある時代でありましたので、幕府も朝廷の意向にそって素直に状況を報告させました。

そして、1853年にはついにペリーが浦賀に来航します。これに孝明天皇は「外国が開国を迫るのであれば戦争も辞さない」と強気の構え。しかし、結局は井伊直弼により朝廷の許可なしに日米修好通商条約は結ばれることになるのです。

孝明天皇は当然激怒!しかし、幕府は、この条約は軍備が整うまでの話であり、戦う体制ができれば戦うと告げるのですが、結局はオランダ、ロシア、イギリス、フランスと次々に修好通商条約を結んでしまうのです。

これらの幕府の行動に反幕府派による攘夷活動は加速。

幕府は、苦肉の策として公武合体、朝廷と幕府は一体であるといったイメージ作戦に打って出ます。その為には、孝明天皇の力が必要。そこで「外国を日本から追い出すには、朝廷と幕府が一緒になり軍備を整えるのが先決。まずは、孝明天皇の異母妹である和宮様と14代将軍徳川家茂とを結婚させてほしい」と願い出るのです。

孝明天皇は、外国を日本から追いやる攘夷派ではあったのですが、別に反幕府という訳ではなく外国を日本から排除するためなら幕府と手を組んでもいいといった考えの持ち主。とはいえ、和宮には当時すでに婚約者がいたのですが、孝明天皇は泣く泣く和宮を説得し江戸に向かわせるのでした。

これで、朝廷、幕府は共に手を組み、外国に攻撃を・・・。とはならず、1863年5月に長州藩による外国船への砲撃はしたものの、その後、長州藩の過激派が倒幕を目論んでいることが発覚し、第一次長州討伐まで受けることになってしまいます。この長州藩の攻撃にイギリス、フランス、アメリカ、オランダは大阪湾に軍艦を回らせ、京都を威嚇し、ついに孝明天皇は条約を許すことになるのです。

そして、長州藩と薩摩藩とが同盟を結び一気に討幕に向けて時代が動き出す中、孝明天皇は急死してしまいます。

この孝明天皇の死因については、天然痘の悪化といわれていますが、公武合体論者であり、幕府を倒すのに消極的であった天皇は、討幕派によって毒殺されたという説もあります。