配下に支えられた劉邦
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劉邦(りゅうほう)といえば、強敵、項羽(こうう)との戦いに勝利し、漢(前漢)を建国し、初代皇帝となったことで有名ですね。
この劉邦という人が農民の出から大出世して皇帝になったということも知っている人も多いでしょう。
しかし、この劉邦は特別、武人として優れていたわけではなかったといわれています。ただし、人間的な魅力が大いにあり、優秀な人材が彼のもとに集まってくるのです。いくつもの危機を配下の者に助けられるのでした。では、この劉邦について少し学んでいってみましょう。
劉邦は、江蘇(こうそ)省、沛(はい)県にて生まれました。農民の出身でしたが、農作業はほとんどせず、酒や女にうつつをぬかしていたといいます。まぁ、不良少年?やんちゃ坊主?ってとこですかね。しかし、当時から人に好かれる性格であったようです。酒場にいけば、自然と人が集まり、酒場が満席になったなどという話が残っています。
そんな劉邦が沛県の近郊で始皇帝陵の建設のために500人の囚人を連行する仕事を任されました。ですが、監視が甘すぎて、逃げちゃう囚人が続出するんです。こんな事がバレたら、劉邦自身がお咎めをくらい殺されてしまう・・・。迷った挙句に劉邦は、酒を浴びるほど飲み、そして出した結論は、こうなったら囚人全員解放してしまえ!そして、彼らの一部と共に群盗の首領になってしまうんですね。
その後、劉邦は陳勝・呉広の乱にて挙兵。楚の将軍、項羽の幕下に入って秦と戦います。しかし、ここで劉邦は、項羽よりも早く秦の首都である咸陽を制圧してしまうんです。それだけならまだしも、咸陽の入り口である函谷関を封鎖してしまうんですね。後から来た項羽は、これで激怒!「どこぞの田舎モンで身分も低いヤツが功績を横取りしやがって」ということで劉邦は殺されかけてしまうんです。
「ヤバイよ。これヤバイよ〜。」
と劉邦はなんとか項羽に謝罪しようと配下の者にお膳立てさせ、宴会を開き謝罪の機会を得ます。しかし、この宴会の最中も項羽の軍師だった范増(はんぞう)は、劉邦は討つべきだと進言し、剣舞に見せかけ刺客が劉邦を殺そうとしたりしますが、何とか劉邦の部下である張良(ちょうりょう)や樊かい(はんかい)が機転を利かせて劉邦を逃します。これが、有名な「鴻門(こうもん)の会」です。
なんとか殺害されずにすんだ劉邦でしたが、項羽は劉邦を漢中というところへ追いやってしまいます。
その頃、劉邦軍の加わるのが名軍師として有名な韓信(かんしん)です。
韓信といえば、「韓信の股くぐり」というのが有名ですね。「お前が持っている剣はお飾りですか〜。悔しいなら俺を斬ってみろ。出来ないなら、俺の股をくぐりやがれ!」って街でバカにされたんですね。しかし、韓信は、ここで相手を斬って遺恨を残せば、それは一生つきまとう。恥は一刻のことであるとして相手の股をくぐったんですね。
この韓信は、もともと項羽の軍にいましたが、ちっとも認めてもらえない。そこで劉邦の軍につくことにしたんです。最初は、大した仕事を与えられていなかった韓信でしたが、やがて蕭何(しょうか)に認められ大将軍になるのでした。
その後、力をつけた劉邦は項羽と争うことになります。これが楚漢戦争。
項羽が軍師の范増を亡くすなどする中、項羽軍の猛将、英布(えいふ)は劉邦軍に寝返るなどし、垓下の戦い(がいかのたたかい)でついに劉邦軍に敗れることになります。
項羽の最後は自害。自らの配下の武将に自分の首を持っていけば、お前は助かるだろうと部下思いの一面をみせ項羽は亡くなりました。
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