漢の時代
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秦が滅亡すると貴族出身の項羽(こうう)と庶民出身の劉邦(りゅうほう)により、中国大陸の覇権を争う戦いが起きます。この争いは、紀元前202年の「垓下(がいか)の戦い」にて劉邦が項羽を破り中国を再統一し漢王朝を建国しました。
>項羽と劉邦について詳しくはこちらを
この漢王朝の歴史は前漢と後漢に分けることができますので、まずは前漢の時代からいきますね。
前漢
前漢の都は長安(ちょうあん)です。現在の西安ですね。最初の皇帝は、もちろん項羽を破った劉邦。この劉邦は高祖ともいいます。死後につけられた名前ですね。
劉邦は、短命政権に終わった秦と同じ過ちを起さぬよう、郡国制(ぐんこくせい)というのを用います。
この郡国制というのは、皇帝の直轄地には秦の時代と同じように各地を郡や県に分けて、そこに中央からの官僚を送り込み皇帝の命令を徹底させます。秦の時代には、これを全土に徹底させて皇帝の力を各地、末端まで行き渡らせました。これを中央集権国家といい急激な中央集権化により秦政権は短命に終わります。そこで、漢では皇帝直轄地以外の地域においては、劉邦の一族や信頼の厚い家来たちを王として支配を任せることにします。これにより、内政についてはそれぞれの王が自由にできるようになります。ただし、戦争などの有事の際には、封建制というのが皇帝と各地の王の間にはあるので軍役の義務は果たさねばなりません。土地を分けてやってるんだから軍役はしっかり果たせよ。という訳です。
つまり、漢では、皇帝の直下地とそれ以外の地域では半独立国の併用による二元的統治が行われていたのです。
しかし、こんな中途半端な統治で大丈夫なのでしょうか?
う〜ん。やっぱり、皇帝側からすれば、いつかは全土を支配したいと考えていたみたいです。
漢の第6代皇帝、景帝(けいてい)の時代では、だんだん各地の王たちが邪魔に思えてきます。だって言うこと聞かない奴が出てくるんですもの。特に呉(ご)の地域なんて財力を背景に長安への参勤もしないなどやりたい放題。そこで、景帝は各地の領地を削り始めていきます。
でも各地の王としたら、そんなの黙ってられませんよね。皇帝がそう出るなら戦争だ!となる訳です。これが呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)です。各地の王が団結して皇帝に対抗したのですね。しかし、この争いは皇帝側の勝利。各地の王国の名は残したものの、王たちからは統治権を奪います。これにより、漢は中央集権体制が一気に進むことになりました。
もう、おまえらに各地を任せておけないから、み〜んな皇帝が支配します!ということです。反対する奴は倒しちゃいましたしね。
その後、漢は劉邦のひ孫にあたる武帝(ぶてい)の時に最盛期を向かえます。景帝の後の皇帝ですね。大規模な遠征により、どんどん領土を広げていきました。
ですが、このたび重なる遠征により豊かだった財源にもほころびが見え始めてきます。そこで、重税を民衆に課すなどして財源を確保しようとするのですが・・・。
前漢の衰退
重税を課せられた民衆からは不満が出てきます。しかも、戦争で領土を拡大しまくっている訳ですので、民衆にも兵役が課せられます。やってられませんね。そりゃ、民衆の中には土地なんて放り出して逃げ出す人も出てきます。
そうして所有者がいなくなった土地、或いは逃げ出す前に売りに出された土地は、有力者たちにより買い集められ大地主が出てくるのです。彼らのことを豪族といいます。
しかも、武帝の時代に始められた制度で郷挙里選(きょうきょりせん)というものがありました。これは、地方の長官が官僚の候補者を推薦する制度なのですが、こんなの金持ちが有利です。ちょっと想像しただけでもわかるように金、こね、人脈を駆使して豪族たちは自分達の息のかかった人物を官僚に推薦してもらい中央政界にねじ込みます。
これらにより、漢の中央集権体制はじょじょに緩み始め、追い討ちをかけるように王莽(おうもう)という人物が皇帝を殺害し新たに2歳の皇帝を即位させるという事件が起きました。
そうして、王莽は、その幼い皇帝に帝位を譲らせて「新(しん)」という王朝を建ててしまうのです。
後漢
この王莽のおこなった政治は周の時代の政治を復活させようとするものでした(これを周礼といいます)。しかし、この政策は現状にそぐわず農民から反乱が起きます。赤眉(せきび)の乱というのですが、眉毛を赤く塗った農民たちが戦ったので赤眉の乱です。
結局、王莽は殺されてしまい。紀元8年に成立したばかりの新は23年には滅亡してしまいました。
そして、この乱を鎮圧したのが前漢の末裔である劉秀(りゅしゅう)という人物です。劉秀は、乱を鎮めると都を洛陽(らくよう)に定め、光武帝(こうぶてい)として即位します。
光武帝・・・。そう金印ですね。光武帝が日本(倭)に送ったものとして国宝に指定されていますよ。
こうして光武帝の時代に漢は復活を遂げますが、2世紀に入ると幼帝が続く時代がありました。そうなると宦官や外戚の力が強まってきます。
宦官とは男性の生殖器を取り去られた男性ですね。主に皇后や女官の管理を任せれているのですが、それゆえに皇后からの信頼も厚い。そこで政治に介入し、利権を得ようと考える者も出てくる訳です。167年には、宦官が儒教官僚を弾圧するという事件が起き政治が混乱します。
外戚は、王の母親又は妃の一族ことですね。娘が皇帝に選ばれた瞬間から、その娘の一族は一気に出世するわけですので、そりゃテンション上がります。宮廷内の利権をあさりまくっちゃう訳です。
こうした連中が政治を混乱させている間に農民の反乱が追い討ちをかけるのです。
三国志のファンの方なら御存知ですね。黄巾の乱です。あと、五斗米道の乱というのも起きています。
さらに、軍人の中からも反乱が起きてきます。これも御存知でしょう。董卓の乱です。
こうした要因がいくつも重なり、ついに漢も終わりを告げます。そして、あの有名な三国志の時代へと突入していくのです。
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