三国時代から晋の中国統一まで
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後漢が衰退していくと中国には小説「三国志」で知られる3人の実力者が登場します。曹操(そうそう)と劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)です。
まず、三国時代で有名な戦いが208年に起きた赤壁の戦い(せきへきのたたかい)です。これは、華北から南下してきた曹操の軍に劉備、孫権の同盟軍が戦いを挑みます。兵力では圧倒的に曹操軍が有利でしたが曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、また曹操軍方に疫病が発生するなどの要因もあり、この戦いを劉備、孫権の同盟軍が見事勝利を治めました。これ以降、三国の鼎立時代を迎えます。
ちなみに、みなさんは三国志というゲームをやったことがあるでしょうか?このゲームは本当に良くできていて、自分の領地の人口が増えてきたなぁと思うと飢饉が広がり人口が激減しちゃう。
しかし、これゲームの中だけの話ではなくて実際の三国時代も中国史上まれなほどの飢餓が深刻な時代だったのです。後漢末の2世紀中頃には5000万人いたといわれる人口が三国時代初期には、なんと数百万人にまで人口が減ってしまう。
そんな時代に他の2国よりも経済的に勝っていたのは曹操の魏(ぎ)でした。曹操は屯田制(とんでんせい)などを実施して農地開拓を徹底していきます。戦争により耕せなくなった農地を兵士が農民を護衛して耕せさせたり、兵士自身が耕したりしたんですね。結果、魏の農耕面積は他の2国にくらべ最も広く食糧事情が安定していました。そうなれば、経済基盤もしっかりしていき、結果軍事力の差にもつながっていくのです。
263年には魏は蜀(しょく)を滅ぼします。しかし、その魏では265年に家来の司馬炎(しばえん)が魏を乗っ取っるという事件が発生します。そして、司馬炎は晋(しん)という王朝をつくってしまうのです。その晋は280年に呉(ご)を滅ぼし、中国は漢王朝の後、晋によって60年ぶりに再統一されることになります。
三国時代を制して中国を統一した晋。しかし、その晋の時代も長くは続きませんでした。
晋は一族を各地の王として地方の支配を任せるといった体制をとります。しかし、これが裏目に出ちゃう。まぁ、司馬炎の後を継いだ皇帝がダメだったというのもあるようですが、290年には、この地方の王たちが次々に挙兵して皇帝位をめぐって争いだしてしまいます。これを八王の乱(はちおう)といいます。
しかも、こうして晋が内部で揉めているうちに、匈奴(きょうど)などの遊牧騎馬民族が勢力を伸ばしてきました。
彼らは、もともと中国北方のモンゴル高原にいた民族です。しかし、漢の時代に滅ぼされ、生き残った一部が漢の騎兵として活動していました。その彼らが晋が内輪もめしているうちに国を建国してしまいます。その名も「漢」です!「おい、また漢かよ。ややこしくなる!!!」まぁ、400年も続いた「漢」でしたから自分達も、その名前にあやかってということなんでしょうか?
彼らは、311年に晋の首都である洛陽を占拠し、316年には晋の皇族が逃げ延びていた長安を占拠。こうして晋は滅亡することになるのでした。
そして、晋が滅びると中国は再び混乱の時代を迎えることになります。
三国時代の簡単勢力年表 |
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220年:曹操の子、曹丕(そうひ)によって魏が建国。
221年:劉備が蜀を建国
222年:孫権が呉を建国
263年:魏によって蜀が滅びる
265年:司馬炎により魏が乗っ取られ晋が樹立
280年:晋により呉が滅ばされ、晋は中国統一
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<漢の時代
>五胡十六国時代から隋まで
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