モンゴル帝国の歴史
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13世紀のユーラシア大陸では、東では南宋、西夏の対立が続き、西の方では十字軍とイスラム勢力が争っていました。
こららの争いは、それぞれの国の勢力弱体のみならず、東西を結ぶシルクロード周辺の国々の国力が低下にも結びついていくことになります。シルクロード周辺の国は商業を中心とする国が多かったため、東西貿易が自由に行えないということは経済に深刻な影響を与えていたのです。
そんな時に現れたのがモンゴル帝国でした。
このモンゴル帝国の歴史は、モンゴル系部族あるいはトルコ系部族の一部をテムジン(後のチンギス=ハン)がまとめ上げたことに始まります。
テムジンは1206年、部族長会議の決定によりチンギス=ハンの称号を受け取ることになります。ハンとは、遊牧騎馬民族の間で最高権力者を意味し、漢字では「汗」と書きます。このハンにテムジンが即位したことによりモンゴル帝国が成立しました。
チンギス=ハンは、シルクロード沿いの国家に狙いを定めていきます。
まずは、1211年に金を攻撃を仕掛け滅亡寸前まで追い込みます。
1217年には、ナイマン部の支配地を攻撃(部とは部族のことですね)。
1219年にはホラズムを、1227年には西夏を滅ぼします。
チンギス=ハンが滅ぼした国や部族は、ここまでですね。ナイマン部、ホラズム、西夏。
1227年に再度、金を攻略する為に兵を上げるのですが、その半ばチンギス=ハンは病死してしまいます。
そして、時代は2代目のオゴタイ=ハンに続きます。1234年には遂に金を征服。西夏も征服しているのでこれで華北は支配完了ですね。そこで、今度は狙いを西側に移します。ここで活躍するのがバトゥという人物です。このバトゥにより1236年〜1242年にかけてヨーロッパに達するまで侵略の手を伸ばします。
3代目のグュク=ハンの在位はわずか2年で終わり、モンケ=ハンの時代となります。彼の弟があの有名なフビライ=ハンです。ちなみに兄弟にフラグという人物もいますが、彼もスゴイ!
フビライ=ハンは1254年に大理国を滅ぼし、高麗も服従させます。
フラグの方は1258年にアッバーズ朝を滅ぼします。
もうこうなってくると、かなり巨大な帝国です。この通信機器が発達した現代であっても、これだけ広い地域をひとりで管理するなんて無理ですね。実は、チンギス=ハンの時代に、すでに支配領域の一部を息子達に分け与えるということをやっていました。
チンギスハンの次男のチャガタイや三男のオゴタイに与えた土地は、後にチャガタイ=ハンの国、オゴダイ=ハンの国となっていきます。
また、西側を任せたバトゥは、彼が使っていた金張りのテントにちなんでキプチャク=ハンという国を。
フビライの兄弟であるフラグはイル=ハン国を建国しました。
こうして、モンゴル帝国の皇帝のもと、チンギス=ハンの子孫が支配する国々が連合するという形になっていました。
そんな中、第5代モンゴル皇帝に即位するのがフビライ=ハンです(1260年)。彼は、中国の支配に力を入れていましたが、このフビライの即位に反対する者がいました。ハイドゥという人物です。彼らフビライの即位に反対する者たちは反乱を起すことになります。バイドゥの乱です。
この内乱は30年余り続き、これがもとで今までモンゴル皇帝のもとにチンギス=ハンの子孫が支配する国々が連合するという形から、事実上これらの国が分裂することになります。
そしてフビライ=ハンは今まで以上に中国支配に力を注ぐことになるのです。1264年には都を大都(だいと)、今の北京ですね。ここに置いて、1271年には国号を元としました。なんとかハンではなく、ここでは中国風にしたのですね。元!
そして、1279年にはついに南宋を滅ぼします。あっ!忘れちゃならない。ちょっと前に日本にも攻めてきましたね。1274年の文永の役。1281年の弘安の役。いわゆる元寇です。
元は、日本の他にもヴェトナムやジャワなどにも侵攻し失敗しているよ。
そして、この元もフビライが亡くなると弱体していくことになります。一族や重臣らによる政治腐敗や経済破綻が原因だったといわれます。
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