夏目漱石
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夏目漱石は、1867年2月9日に現在の東京都新宿区にて5男3女の末っ子として生まれました。
漱石の本名は金之助(きんのすけ)。これは、生まれた旧暦での慶応3年1月5日が干支でいうところの庚申といって、大泥棒になるという迷信があったため「金」を名前に入れて厄除けとしたといわれています。
彼の代表作といえば、1905年「吾輩は猫である」、1906年「坊ちゃん」、1906年「草枕」、1908年「三四郎」、1910年「それから」、1911年「門」、1914年「行人」、1914年「こころ」、1916年「明暗」なんかが有名ですね。
デビュー作である「吾輩は猫である」は、1905年というと漱石が38歳の時の作品。結構、遅咲きなんですね。当時の漱石は、神経衰弱であったといわれれています。
おっと、その前になぜ夏目漱石というペンネームになったのか?大学の予備門の時代に同じ年の正岡子規と知り合っているんですね。彼の作品を批評するにあたって元々正岡子規のペンネームのひとつだった中国の故事「漱石枕流(負け惜しみが強いこと)」からきた漱石を頂戴したといわれています。
さて、漱石が神経衰弱となったのは、大学生の頃からだったといいます。その後、東京で教師をしていた時、イギリスに留学した際も神経衰弱は患っており、帰国し東京帝大の教師になった時に教え子の藤村操が華厳の滝で自殺したこと(遺書として残した「厳頭之感」は有名)を境にさらに悪化していったようです。
そのような状態の漱石を俳句仲間であった高浜虚子の勧めで雑誌「ホトトギス」に連載を開始したのが「吾輩は猫である」でした。
その後は立て続けに「坊ちゃん」「草枕」を発表。1907年には朝日新聞に入社し専属の作家となり「虞美人草」を発表。そして「三四郎」「それから」「門」を書いていきます。ですが、「門」の執筆中あたりから胃腸炎を患い始めたようです。
その後の漱石の作風は大きく変わっていきます。それまでの漱石の作品は余裕派などといわれ人生を余裕をもって眺めようとするような作品が多かったのですが、「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」「行人」「こころ」では人間のエゴイズムを追い求めていくような作品であるとよく言われています。
1916年、「明暗」執筆中に胃病が悪化し漱石は倒れ49歳という若さで亡くなりました。
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