歴史年代ゴロ合わせ暗記 

歴史年代ゴロ合わせ暗記織田信長織田信長の城

織田信長の城

  

 織田信長は居城に固執することなく、次々に城を移していったことで有名ですね。

 上杉謙信は越後春日山城を本城として持っていましたし、多くの戦国武将も領国内に居城を築き、その城を移そうなどということは考えませんでした。

 では、なぜ信長は城をどんどん移していったのでしょうか?その理由を紐解いていってみましょう。


 
実は、信長が城を次々に移していったのは、父親から学んだところも大きかったんです。

 信長の父親は、織田信秀。信秀は、はじめ勝幡城(おそらく築城は信長の祖父の信定)を居城としていましたが、1538年に今川那古野氏から那古野城を手に入れると、そこにまだ幼かった信長をおいて、信秀自身は古渡に城を築き、そこを居城としました。この古渡城は、三河を攻撃するのに適している場所でしたからね。

 では信長はというと、父親から譲り受けた那古城で初めて城主となりますが、22歳の時に叔父の信光と共同して清須城を奪取するとそこを本城として尾張平定の中心とします


 
その後、今川義元を倒して、次の目標を美濃の斉藤氏に向けると今度は、小牧山に城を築き、そこを居城としました。

 清須城から美濃を攻略するより小牧城に城を築いた方が美濃に近く都合がよかったんです。

 この美濃への攻撃の際、信長は秀吉に命じて墨俣城を築かせますが、これも大垣城と稲葉山城を分断するための戦略ですね。

 その後、美濃を攻略した信長。今度は、小牧山城を捨てて稲葉山城に移り住みます。この稲葉山城は後に岐阜城と改名しました。

 このように、信長は、父親同様、戦略目標に対して適している場所にどんどん居城を移していったんです。

 ですが、城をどんどん移していけば多額の費用がかかってしまう・・・。なので普通は、本城を移すなどせず支城を造る程度になってしまうわけです。実際、城を移すというのは、経済的にリスクが大きいので他の戦国大名の多くは居城を移すようなことはしませんでした。。

 しかし、信長は居城を移します。なぜか?その理由のひとつとして兵農分離が上げられます。

 当時の兵は、皆、農耕しながら、何かあれば武器を持って戦いにでるというスタイル・・・。これでは、農閑期にしか出動できませんね。実際、居城にこだわった戦国武将の多くは、これで頭を悩ませています。

 ですから、信長は小牧山城や岐阜城に移る際、農耕者は置いてきて、戦闘要員や補給に必要な商人たちを連れて行きました。こうして、安土城を築いたときには兵農分離は完全なもとのなり、いつでも戦闘専門の軍を各地に派遣できるようになります。

 また、信長は、城を建設すると同時に大規模な区画整理を行い城下町も建設させました。そして、その地を商業地として発展させるのです。これが、居城をどんどん移していっても経済的に破綻しない理由のひとつですね。

 こうして、信長は那古野城・清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と次々に居城をかえ、さらには、その城は徐々にスケールアップしていくのでした。



 最後の安土城は、京都と岐阜の中間点に造られます。これもやはり、戦略的目的があっての築城ですね。日本の中心ですので東と西の流通拠点となります。また、ここに標高150メートルの安土山に5層7階の天守閣を築城したわけですから、まさに天下人。民衆に自らを神格化させることも考えたのでしょうね。


織田信長の城 
勝幡城 1534〜1542年(9歳まで) 
那古野城  1542〜1555年(9〜22歳まで) 
清須城(清洲城)  1555〜1563年(22〜30歳まで) 
小牧山城  1563〜1567年(30〜34歳まで) 
岐阜城  1567〜1576年(34〜43歳まで) 
安土城 1576〜1582年(43〜49歳まで)