歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記イスラム教の歴史オスマン帝国

オスマン帝国の歴史  


 イスラムの歴史についてもいよいよ終盤です。15世紀に入りイスラム世界にて存在感を表してくるのがオスマン帝国。オスマン・トルコというくらいだから、この国はトルコ人の国家です。

 13世紀にはモンゴル勢がやってきてイスラム世界を牛耳っていましたね。15世紀には再びイスラム世界はトルコ人が覇権を握ることになります。この状態はいつまで続くのか?20世紀、第一次世界大戦が終わるまでです。

 では、このオスマン帝国の歴史についてギューと詰め込んで見てみましょう。

 オスマン帝国のルーツは、13世紀末に小アジアの西北部を根拠としていた軍隊の集団です。この集団のリーダーがオスマン・ベイ。名前でなんとなくわかりますね。この人がオスマン帝国の建国者です。

 オスマンの一族は、もともとセルジューク朝の傭兵部隊でしたがオスマン一族は徐々に近くの軍事的な集団らと同盟していき領土を拡大していきます。そして1299年にオスマン帝国が誕生することになるのでした。

 1389年にはセルビアなどを撃破!(コソボの戦い)

 1396年にはヨーロッパ連合軍を撃破!(ニコポリスの戦い)

 しかし、1402年にいったん滅亡の危機がやってきます。最盛期のティムール朝と争い敗れてしまうのです。(アンゴラの戦い)

 けれども、メフメト2世の時代になると1453年、東ローマの首都コンスタンティノープルを攻略。この地をイスタンブールと改名しオスマン帝国の首都とすると、キリスト教会をイスラム教徒のモスクに変えていくなどしてイスラム教の都市へと改造していきます。

 このオスマン帝国が最盛期を迎えるのは16世紀です。時代はスレマン1世の時代。その領土は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がる広大な領土を有しました。

 オスマン帝国の最大領土


 しかし、スレマン1世の時代の後は緩やかに衰退していくことになります。

 なにしろ18世紀から19世紀にかけては、もうあちこちからオスマン帝国は攻撃を受けることになるのです。オーストリアやペルシャもガンガン攻めてきますが、ロシアとの間で争った戦争(露土戦争)は12回を数えます。ロシアは寒い国で港なんてみんな凍りついちゃうので黒海や地中海の地域が欲しくてたまらなかったんですね。

 こういった争いに軍事費がかさみオスマン帝国を苦しめることになります。また、経済が発展していった半面、物価が上昇し民衆の間で貧富の差が広がり不満が出てきたことなども衰退の一因といわれています。

 19世紀半ばには、「瀕死の病人」とたとえられるほどオスマン帝国は衰退してしいました。

 しかし、オスマン帝国も近代化憲法(ミドハト憲法)を制定するなど改革に乗り出します。2院政議会や責任内閣制を定めるなどした近代的な憲法です。アジアで初めての近代的憲法というと日本の大日本帝国憲法と思われがちですが、実は悔しいことにミドハト憲法の方が13年早いのですね。(オスマンがアジアといえるかどうか微妙ですが・・・)

 しかし、そんな改革中のオスマン帝国に宿敵ロシアが1877年攻めてきます。せっかく、憲法制定して、これからだっていうのに戦時下であった為、憲法はいったん停止。しかも、このロシアとの戦争に敗北し、東ヨーロッパの領土を失うことになります。

 20世紀に入ると第一次世界大戦にも敗北。オスマン帝国は大半の領土を失い、ついに解体されることになりました。

<ティムール朝の時代