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歴史年代ゴロ合わせ暗記>西南戦争

西南戦争


 
西南戦争とは、1877年に鹿児島の士族たちが西郷隆盛を担いで行った政府に対しての反乱です。

 なぜ、鹿児島の士族(旧武士階級のこと)たちは、政府に対して反乱を起こしたのか?また、その後、西郷隆盛らはどうなっていったのか?西南戦争の原因と過程、そして結末を見ていきましょう。

 
西南戦争の原因

 江戸の時代が幕を閉じ、時代は明治の初め、明治政府は中央集権化(天皇中心の昔の政治に戻す)を進めるために版籍奉還で土地と戸籍(人民)を天皇に差し出させ、その後、廃藩置県にて藩をなくし、四民平等、徴兵令、廃刀令などの政策を急ピッチで進めていきます。

 実は、コレ↑士族(元武士)にとっては非常に頭にくる出来事なんですね。

 
廃藩置県をされたら武士のよりどころの藩がなくなるから、藩からの給料もなくなります。また、四民平等によって士族の特権はなくなるし、徴兵令で満20歳以上の男子は全員、一定期間軍隊に入れられるので元武士の価値もなくなります。さらに廃刀令なんてされたら武士の命である刀が持てなくなってしまう。もはや、プライドもお金も時代の変化と共になくしつつあったんですね。これで全国の武士たちは怒り狂う訳です。

 江藤新平らによる佐賀の乱。熊本の神風連の乱、筑前の秋月の乱、長州の萩の乱、各地で次々と士族らの反乱が起こります。しかし、これらはすべて明治政府によって短期間のうちに鎮圧されてしまうのでした。

 この時、鹿児島はどうだったのか?

 西郷隆盛は、政府内において征韓論(武力で朝鮮に開国を迫るべきという考え)を唱えるも大久保利通らの反対派に敗れ政界を去り、鹿児島に戻ってきておりました。

 西郷は、鹿児島に私学校を作り若者の教育に努めます。「国に何かが起こった時は、国のために正義を尽くしなさ」と体を鍛えさせ、学問を教えます。

 しかし、そんな中、事件が起こってしまうのでした。明治10年1月、鹿児島県内の陸軍施設から政府の指示で武器弾薬が運び出されているのを鹿児島の士族らが聞きつけます。

 「政府がついに鹿児島の士族をつぶしに来た!」
 
 これにより、薩摩(鹿児島)の士族は政府の火薬庫を襲撃。弾薬6万発を奪い取りました。

 この出来事を聞いた西郷は「しまった」と叫んだといいます。

 しかし、こうなってしまったら、もはや歯止めがききません。薩摩士族は連日、政府の施設を襲ってきます。自分を慕ってくる士族たち。西郷は彼らに押されるかたちで自ら兵を率いて東京に向かう決意を固めます。

 この時、薩摩の士族たちは、『なぜこのような士族たちへの過酷な政策を行うのか?納得できる回答をくれ!』と政府に対して事前に告知をしています。

 西郷は、この時もしかしたら、まだ話し合いで何とかなると思ったのかもしれません。政策で揉め、袂を分かつことになったとはいえ、親友の大久保利通をはじめ、顔のきく人物は政界に何人もいます。

 ですが、2月19日、政府は賊徒征伐令を発令。西郷ら、薩摩の軍と戦うことを決意するのでした。

 
西南戦争勃発

 2月21日、熊本城の南8キロの地点で薩摩軍と政府軍偵察部隊が遭遇。先に発砲したのは政府軍でした。薩摩軍はこれに反撃。西南戦争の始まりです。

 政府がその気ならやるしかない!2月22日。薩摩軍は、九州における政府の最大の軍事拠点である熊本城を包囲します。この城を落とせれば、各地の士族らが一斉に立ち上がることを期待しての攻撃です。

 ですが、政府軍と薩摩軍では、持っている武器の性能に歴然とした差がありました。政府軍はスナイドル銃といって5秒に一発の発射が可能な銃。さらには最新兵器であるガットリング砲も用意。対する薩摩軍は主力の武器は刀。銃もエンフィールド銃といって一発撃つのに30秒もかかる銃です。
 
 しかし、政府軍は元農民や町人といった戦闘の素人。もと武士たちの薩摩軍は何とか善戦します。

 だが、そんな時、政府軍の山県有朋が九州に到着。援軍も含め1万5千の兵で薩摩軍のもとへと進軍してきます。西郷も熊本城を包囲する半分の兵をそちらに向かわせ、3月4日、両者は田原坂で激突することになります。



 
田原坂の戦い

 地形を熟知した薩摩軍は土手の上を陣取ります。これでは政府軍の大砲の威力も半減です。また、接近戦では、政府軍の農民、町民の集まりより刀の使いになれた元武士である薩摩軍の圧倒的有利。打ち合いにおいても、政府軍は弾に当たるのを恐れて手だけだして銃を撃つのに対して薩摩は恐れもせず、体をさらけ出し、しっかり狙って打つ!これで苦戦する政府軍。敗走する者も次々に増えてきます。

 これでは、熊本城の中でも食料と弾薬が尽きるのは時間の問題。本当に熊本城を薩摩藩に落とされてしまう・・・。

 そんな時、警察官から援軍の申し出がありました。当時の警察官っていうのは、元武士なんですね。ですから、薩摩の軍にも対抗できるんです。しかし、山県有朋はいったん断ります。政府としては、四民平等、廃刀令などを出して武士の存在を否定している立場でしたから力を借りたくはなかったんです。ですが、薩摩軍に追いつめられているのも事実。

 結局は、2日後の3月13日。警察に戦争参加を依頼し、彼らに山県は自ら「抜刀隊」と名付けました。

 抜刀隊はおよそ100名。彼らは、銃を持たず、刀のみで斬りこみます。抜刀隊は軍ではないので銃は持たせない。これで政府としては、徴兵制の面目を保たせようとしたわけです。

 対する薩摩軍は、素人の寄せ集めの政府軍なんて楽勝!ってちょっと気を抜いていた頃・・・。

 そこにプロの戦闘集団が突如現れ見事な活躍!ついには形勢逆転してしまうんです。

 なんで抜刀隊はそれほど強いのか?実は、彼らの多くが会津藩の出身なんですね。戊辰戦争で薩摩に敗れた藩なんで薩摩に恨みがあったんです。命にかえても復習する最後のチャンスだったわけです。

 3月20日。政府軍は田原坂を突破。熊本城救出に大きく前進するのでした。

 
その後の西南戦争

 田原坂の戦いによって、西南戦争の勝敗は実質的に決まってしまいました。薩摩軍は、その後も奮闘はするものの敗戦続きで敗走するかたちがつづきます。

 そして、明治10年9月、鹿児島の城山におよそ400人の将兵と共に立てこもります。これを4万の政府軍が包囲。9月24日、政府軍は城山に総攻撃を仕掛けます。腹と股に銃弾を受けた西郷は「もう、ここでよか」とつぶやき、午前7時、付き添いの士族の介錯を受けてこの世を去りました。享年49歳でした。

 この西南戦争の分岐点である田原坂の戦いでは、元武士である薩摩軍に苦しめられながらも、最後は抜刀隊という武士の集団によって政府軍は勝利をおさめています。

 山県有朋は、その後、徴兵制によって集まれらた軍隊を強くするべく奮闘していきます。1882年に軍人勅論といった山県が中心になって立案された軍人としての在り方を示したものの中では”質素であれ””約束を守れ””国家に真心を尽くせ””礼儀正しく勇敢であれ”といった武士を意識したような軍人の在り方を示しています。そうした精神が明治以降の軍の強さともなりましたが、後に特攻隊といったような負の遺産となっても残ってしまうことになります。