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歴史年代ゴロ合わせ暗記>大久保利通と西郷隆盛
   

大久保利通〜親友・西郷隆盛と道分かつ

  
 大久保利通は、1830年(天保元年)、薩摩藩士大久保次右衛門利世の長男として生まれました。

 実は、この町内がすごい!なんと、同じ町内には、あの西郷隆盛もいたのです。

 しかも、大久保利通と西郷隆盛の父親は共に親しかったといわれ、利通と隆盛も親友と呼べる間柄だったといいます。。

 しかし、この2人、後に対立することになるのですが・・・。


出典:ウィキメディア コモンズ 大久保利通

 大久保利通は、1859年に薩摩藩内において、「精忠組」というグループで活躍します。この精忠組は、井伊直弼暗殺を計画したり、孝明天皇奪還計画を加わったりと一部メンバーの中には、藩の方針に従わず過激な行動をとる人もいたグループ。大久保利通は、それら過激派を抑制するような働きをしていました。

 それらの働きが藩に認められたであろう大久保利通は32歳の若さで薩摩藩の小納戸役に抜擢されます。

 その頃の薩摩藩は公武合体派といわれる「幕府と朝廷が手を組んで外国を日本から追い出そうという」考えを持っていました。始めのうちは、この公武合体論に賛成をしていた大久保利通も外国の強さを目の当たりにし、外国を締め出すのは難しいんじゃない?それよりも、幕府を倒して新しい日本を切り開いていこうよ。という考えに移りだしていきます。倒幕です。大久保利通、西郷隆盛らは、公武合体派であった薩摩藩を倒幕へと傾けていきます。

 後に幕府は倒され明治新政府がつくられますが、その重要なポストに置かれたのが薩長土肥といわれる薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩など倒幕で活躍した藩の重要人物と岩倉具視ら公家でした。大久保利通も西郷隆盛らと共に当然、この中に名を連ねます。

 そして、明治6年、政府内で大きな揉め事が起きます。征韓論争です。国交断裂していた朝鮮に「武力行使でもかまわないから開国を迫ろう!」という西郷隆盛や板垣退助らに反して、「いや、そんなことしたら欧米が黙ってないよ、それより日本を早急に強い国にしなくては!」という大久保利通や岩倉具視。

 実は、大久保利通は岩倉具視、伊藤博文、木戸孝允らと共に欧米の制度や文化を調査する為にアメリカ、ヨーロッパ諸国を見てきたばかりでした。外国の進んだ文化、文明を目の当たりにしてきた外遊組と留守を任された西郷らの間には大きな隔たりができてしまったのです。

 この争いにより、西郷隆盛、板垣退助が政界から去っていくことになってしまいます。幕末より共に戦った大久保利通と西郷隆盛もここで道分かれることになるのです。

 政府内の揉め事の後、体調を崩し始めていた木戸孝允。彼を支持していた伊藤博文や大隈重信は、次第に大久保利通に接近するようになっていきます。

 そんな中、大久保利通は改革に乗り出し、内務省を設置します。これは、殖産興業政策や治安維持を担当する部署です。殖産興業政策は鉄道網の整備や民間の模範となる政府が行う工場(官営模範工場)、農業や軽工業を近代化するための政策を行う部署であり、江戸から明治へと近代化を進める日本にとっては非常に重要な役割を持っています。また治安維持は警察権力を掌握することになるのです。これは政府内で大きな権限を持つことに他なりません。内務卿に就任した大久保利通は、この権力を背景に台湾出兵や反乱の鎮圧、殖産興業政策など国内外の政策に大きく関わることになり「大久保独裁政権」といわれるほどの力を持つことになるのでした。

 そして、1877年には西南戦争を起した嘗ての親友、西郷隆盛と争うことになります。討伐の指揮をとった大久保利通。この戦いにより、西郷隆盛は鹿児島の城山で敗死しました。

 西郷隆盛の死の翌年、大久保利通は馬車で宮中に向かう途中、大久保独裁に不満を募らせた暴漢ちに襲われ西郷の後を追うように亡くなります。享年48歳でした。

 大久保利通は、強大な権力を振り回したイメージが強いのですが、実はかなり金銭には潔白だったそうです。予算のつかない公共事業などには私財を投じることもいとまなかったそうで、大久保の死後は8000万円もの借金が残っていたとか・・・。しかし、この借金を返せという者はおらず、生前に学校費として寄付していたお金を回収し、後は募金を募って遺族は養われたといわれます。