千利休の切腹と辞世の句
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「人生七十 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這寳剣(わがこのほうけん) 祖佛共殺(そぶつともにころす) 堤る我得具足の一太刀(ひっさぐる わがえぐそくのひとたち) 今此時ぞ天に抛(いまこのときぞ
てんになげうつ)」
この辞世の句を書いた後、千利休は京都の自宅にて切腹をします。現代風に訳すのは至難の業ですが、
「人生七十年(人生七十)。えい!やぁ!とう!(力囲希咄:気合の掛け声)我がこの宝剣で(吾這寳剣)、祖仏も共に我と共に殺してしまえ(祖佛共殺)、上手く使いこなすことのできる刀を引っさげて(得具足:上手に使いこなせる武器・堤る:引っさげる)、今、天にこの身を放つ(今此時ぞ天に抛)」といった意味合いになるでしょう。
千利休に切腹を命じたのは秀吉でしたが、その理由が未だはっきりとわかっていません。
元は堺の商人であった千利休は、武野紹鷗(たけのじょうおう)に茶を学んで、信長、秀吉の茶頭となりました。その後、秀吉の側近政治にも深く関わっていくことになるのですが・・・。ある日、突然切腹を命じられる。なぜ・・・?
いくつかの説をあげますと、
●寺の改修にあたり千利休自身の木像を2階に設置し、その下を秀吉に通らせた為、秀吉の怒りをかった。
●茶器をあまりにも高価な値で売ったのが問題となった。
●茶道に関して、秀吉の考えと対立した
●千利休の娘を秀吉が嫁にくれ!と願ったが利休がそれを断った為、怒りをかった。
●千利休が人脈関係で余りにも力をつけ過ぎた為、秀吉が利休を危険視したなど・・・。
どれが、直接の原因となったかはわかりませんが、秀吉が千利休を危険視し初めていたというのはかなり有力な説でしょう。その上で上記で記したような何か決定的な事件が起きたと考えられます。
商人として生まれ、茶人となり、最後は武士のごとく切腹で幕を閉じた千利休。流石は、戦国の世を生きた男ですね。
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