(1583年、豊臣秀吉により建築が開始された大阪城。) |
その柴田勝家を1583年には賤ヶ岳の戦い(しずがだけのたたかい)で破り、秀吉は地位を確立。
翌1584年には信長の次男、織田信雄、徳川家康の連合軍と対決。秀吉は苦戦を強いられますが、なんとか信雄と講和に成功し、家康を出し抜きます。(小牧、長久手の戦い)
その後、四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏、九州の島津(しまづ)氏、関東の北条(ほうじょう)氏、東北の伊達政宗(だてまさむね)らを倒し、ついに天下統一となりました。
その後は、検地や刀狩、江戸時代での士農工商の基礎となった人掃令(ひとばらいれい)なので政策を行っていきます。
裸一貫から天下人まで上り詰めた秀吉ですが、晩年はその面影もなく、2度に渡る朝鮮出兵などにより政権の崩壊を早めることとなってしまいます。(1592年文禄の役・1597年慶長の役)
朝鮮出兵は秀吉の死により撤兵する事となりますが、秀吉の可愛がっていた大名たちの兵は朝鮮出兵により疲弊、かわりに朝鮮に出向かずにすんだ徳川家康の勢力はより強大なものになっていくのです。
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