歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記>小田原城の戦い

小田原城の戦い


 1590年、秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原城に攻め込みました。敵は北条氏。秀吉は、それまで培ってきたノウハウをすべて、この戦いにつぎ込みます。

 兵糧攻め、水攻め、一夜城。さらには、史上空前22万の大軍での小田原城包囲です。

 では、この秀吉の小田原城の戦い、どんなものだったのかちょっと学んでいってみましょう。

 1589年。秀吉は小田原城の北条氏に対して宣戦布告を出します。『若き頃から信長公の身を寄せ、骨を海岸に砕くほどに苦労をし、信長公が打たれた時には明智光秀の首をとり、さらには国家を乱した勝家を退治した。それがうまく進んだのは一言の嘘もなく、天道にかなっていたからである。いまや関白となり、天下の政治をまかされている。しかし、北条氏直は天道の正理に背いて、帝都に対して悪だくみを目論んでいる。来る年、天皇から賜った旗をたて、氏直の首をはねる!』

 以前にも秀吉は、北条氏に対して関白秀吉に臣従の礼をとれ、と申し送っており、娘を北条氏直に嫁がせていた徳川家康もそうするように親書を送っていました。対して、北条氏は、氏政の弟である氏規を上洛させますが、信濃上田城主である真田昌幸との間で沼田領をめぐり問題を起こしたため、臣従の礼をとる意志がないとみた秀吉は宣戦布告をしたのでした。

 さて、小田原城めがけて動き出した秀吉軍。まずは、徳川家康が駿府城から小田原に向けて軍を進めます。続いて上杉景勝、前田利家らが上野・武蔵に南下を開始。瀬戸内・紀伊・伊勢の水軍は東海道沿岸ぞいに船を進め清水港に集められました。総勢、22万の大軍です。

 「やばいよ!ほんとに攻めてきたよ〜」

 北条側では大騒ぎ。何しろ、秀吉軍22万に対して北条の方は5万6000程度。出撃するか?籠城するか?で大揉めです。いつまでたっても結論が出ない軍議が続きます。「小田原評定」なんて言葉が生まれたくらいです。いつまでたっても結論が出ない会議をこういうんですね。社会人になるとたびたび小田原評定に出くわしますよ。

 さて、結局は、籠城することになった北条勢。でも、実は、この小田原城。かつては、上杉謙信や武田信玄の来襲さえ寄せ付けなかったとてつもない城だったのです。しかも、城下町が丸ごと入ってしまうほどの大外郭も完成しており、ちょっとやそっとでは攻め込めません。



 「こりゃ、長期戦になるね。”アレ”やっちゃう?」

 ってことで秀吉は三木城鳥取城攻めで成功をおさめた大規模な兵糧攻めを行います。もう、小田原周辺の米を買いあさるんですね。この買い占めに使った金が黄金1万枚といわれています。30〜40万人が1年間食べていけるほどの米を買い占めるんです。

 そして、秀吉は本陣を湯本の早雲寺に置き、諸将を城の周りに配します。家康を酒匂川に、そこから半円を描くようにして織田信雄、蒲生氏郷、羽柴秀次、宇喜多秀家、細川忠興、池田輝政、堀秀政、丹羽長重など・・・。また、海上は水軍でびっしりです。

 さらには、前田利家や上杉景勝らによって点在する北条方の城は次々に落ちていき小田原城は孤立していきます。

 また、デマ情報を流して敵を攪乱。北条氏の重臣の何人かを寝返らせ、内側から崩れていくのを待ちます。

 極め付けが一夜城。黒俣一夜城といって敵に一夜にして城を築き上げたと思わせ心理的ダメージを与えた作戦をここでも行います。

 実際には、一夜で城が完成したわけではないんですけどね。80日程度かかっています。まぁ、それでもかなり早いですけどね。この城をどのようにして北条側に一夜にして城が姿を現したと思わせたのかというと、城が完成したら城の全面をさえぎっていた樹海をいっきに伐採したんですね。これで、北条から見たらまるで一日で城が完成したと思わせたわけなんです。

 この城に秀吉は家康を招き小田原城を見下ろしながら秀吉は「北条が滅んだら、関八州をそなたに進ぜよう」と約束し「さぁ、そなたも一緒にされよ」と小田原城にむかっておしっこをしたといわれています。やがて、家康は関東の土地をもらったことから「関東の連れ小便」は吉兆をいみすることとなります。

 さぁ、秀吉のこれまでのノウハウをすべて詰め込んだ小田原城の戦い。兵糧攻め、一夜上、そして支城の一つ、忍城には石田三成に命じて水攻めも行っています。

 これらに対して、徹底抗戦からやがて開城、そして降伏へと北条方の空気も変わっていき、ついには北条方は降伏。氏政、氏照は切腹。氏直は野山に追われ、北条氏は滅ぶこととなり、秀吉の天下統一もほぼ仕上がるのでした。