羽柴秀吉(豊臣秀吉)・鳥取城攻め
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(豊臣秀吉) |
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秀吉・鳥取城攻め
織田信長から中国地方の経略をまかされた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、三木城を落とした後、3万の軍を率いて鳥取に侵攻しました。
鳥取城には、当時、山名豊国(とよくに)がいましたが、彼は、あっさりと秀吉側についてしまいます。これで、いったん羽柴秀吉(豊臣秀吉)は兵を引き上げるのですが、山名豊国の行動に不満を持った部下達が山名を城から追放し、毛利氏に助けを求めました。
毛利氏は、この要請に答えて一族の吉川経家(つねいえ)を鳥取城に送り込みます。
ところが、吉川が城に付くと、目を丸くして驚くことになります。城内に兵糧(食料)が異常なまでに少ない・・・。なぜ?
実は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、鳥取城に侵攻した際、この城は手ごわいと踏み、兵糧攻めにしてやろうと考えていたのです。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、米を高値で買い上げまくったといいます。これに、農民達はもとより、城の兵たちもが競うように城に備蓄されていた米までも売ってしまったという・・・。
慌てて吉川は、米を買い集めようとしますが、国内にすでに米がない。そうこうしている内に羽柴秀吉(豊臣秀吉)は2万の兵を引きつれ再び鳥取城を包囲しました。
この時の秀吉の兵糧攻めは、徹底しており、農民達にひどい仕打ちをし、城内に追いやる。それと同時に城の周囲には、堀や土塁を築き、柵や兵をめぐらせ、城を孤立させます。
ただでさえ、食料が少ないのに農民達まで城の中に入ってきて、その数1400人あまり。食料は瞬く間に底を付きます。こうなっては、もはや戦どころではい。城の中では餓死した人を食べるという状態までおちいっていたといわれています。
やがて、5ヶ月の籠城の末、吉川経家は、己の命と引き換えに、城の兵は助けてくれと秀吉に申し入れ、城を開城します。
この戦いでは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)側は殆ど死傷者を出さずに勝ってしまった為、晩年まで鳥取の戦いを理想として自慢したとも言われています。
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