吉川経家・鳥取の渇え殺しと辞世の句
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「武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの栖なるらん」
文武に優れた武将として知られる吉川経家。「もとの栖(すみか)に帰る」と詠んだ辞世の句。彼は、秀吉が狙う鳥取城に派遣され敗戦の責任を取って切腹することになります。
中国地方の侵攻を任された信長の家臣、秀吉は、三木城を攻め落とし、次に狙いを付けたのが因幡の鳥取城でした。これに対し、当時の鳥取城城主、山名豊国は織田家に服従することを決意します。しかし、重臣の多くがこれに反対し毛利氏を頼ることを主張。それでも、秀吉との争いを避けるようにする豊国を家臣たちはクーデターを起し追放してしまいます。
城主のいなくなった鳥取城。城に残った家臣たちは、毛利氏に助けを求め、派遣されてきたのが吉川経家(きっかわつねいえ)でした。しかし、城についた吉川経家は、その兵糧の少なさに驚きます。なぜ?実は、秀吉がすでに米はもとより、雑穀なども相場より高い値段で買い占めてしまっていたのです。余りにもいい値段で売れたため、城に備蓄されていた兵糧までもが売りに出されてしまっていました。
そんな中、天正9年7月、秀吉は本格的な鳥取城攻めを開始します。兵糧は買い占めた。後は、いかに鳥取城を包囲できるか!秀吉は、城を見下ろせる丘に陣取り、徹底的に包囲網を構築。しかも、農民たちには酷い仕打ちをし、城の中へ追いやる。
これにより、10月には城内の食料は完全に底をつき、餓死者が続出することになります。その時の様子は、蛇やねずみはもとより、やがて人肉を食らうほどの飢餓地獄だったそうで後に「鳥取の渇つえ殺し」呼ばれるようになります。
その状況下、吉川経家は己の命と引き換えに城兵の命は助けてくれと切腹。本来、吉川経家は、毛利側より派遣されてきた城将である上、秀吉も彼の優れた能力をかっており自害するまでもなかったといわれていますが、彼は死を選びました。
なお、本来の城主であり、追放された山名豊国は、その後、家康によって取り立てられ、旗本として79歳まで穏やかな生涯を送ったといわれます。ちょっと、皮肉ですね。
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