歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記>三木城攻め
   

羽柴秀吉(豊臣秀吉)・三木城攻め

 

(豊臣秀吉)
 

(別所長治)
 
 秀吉・三木城攻め

 織田信長より中国地方の平定を支持された羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、1577年、姫路城に入ると播磨国の攻略を始めました。

 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、播磨最大の大名で20万石もの領土を持つ別所氏をはじめ、次々に豪族を味方に引き入れていき上月城を手に入れます。

 一度は、織田方の秀吉に味方する素振りを見せた別所長治。しかし、この別所氏が1578年には、毛利方へと寝返ることになるのです。

 別所長治の裏切りを知った羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、別所長治の籠もる三木城を包囲します。

 ところが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が三木城を包囲している間に、織田方の最前線となっていた上月城へ毛利氏が3万もの大軍で包囲にでました。あわてた、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、三木城に3千の兵を残し、1万の兵を引きつれ上月城に向かうのですが、何しろ相手は3万の大軍。羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、信長に援軍を要請します。しかし、信長は、いったんは、秀吉の要請に答え援軍を出すものの、後に上月城は捨てて三木城攻略に専念せよ。と秀吉に伝え、この上月城はやがて落ちることになります。

 これにより、三木城攻略に全力体制の羽柴秀吉(豊臣秀吉)。しかし、正攻法ではこの城は簡単には攻略できない。そこで、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は三木城を孤立させ兵糧攻めにすることを決意します。周囲の支城をひとつひとつ潰しにかかり、同時に補給路の封鎖をはかりました。

 毛利方も対信長の重要な拠点となる三木城をなんとか助けようと兵糧を三木城に送り込むことに専念しますが、そのつど秀吉に阻まれます。

 食料の届かない城内では、草はおろか、根や虫、蛇、ネズミ、牛や馬まで食べつくし、飢え死にする者が続出したそうです。

 羽柴秀吉(豊臣秀吉)による三木城包囲から2年目の1580年、8月1日。羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、城内では食べ物も気力も完全に尽きただろうと判断し、ついに総攻撃をしかけました。それでも、三木城は数日の間、持ちこたえたといいますが、やがて別所長治は、おのれの命と引き換えに城兵は助けてくれと開城。

 この戦いは、その凄まじいまでの城内の様子から「三木の干殺し」といわれるようになりました。