歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記別所長治・三木の干殺しと辞世の句
   

別所長治・三木の干殺しと辞世の句

  
別所長治
 
 
 「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思えば」

 これは、別所長治(べっしょながはる)の辞世の句です。三木城の城主、別所長治は、秀吉からの兵糧攻めにあい、自らの命と引き換えに籠城兵たちは助けてくれと願い出ます。

 「兵士たちの命に代わって死ぬのだと思えば、今は恨みもない。」といった意味です。かっこいいですね。流石は、戦国を生きた男です。

 では、この別所長治が切腹に至るまでの過程を少し見てみましょう。

 1578年、信長から中国侵攻を任された秀吉が三木城攻めを開始し始めました。その数、3万の大軍です。そこで三木城の城主・別所長治は、はじめ信長に仕える素振りを見せますが、信長への反感から結局は、毛利側に味方し叛旗を翻すことになります。

 それをみて、秀吉は三木城攻めを本格化することになります。とはいえ、三木城は天然の川を掘とする要塞。簡単には落ちない。ならばと、兵糧攻めを決行します。別所方の支城を攻略し、砦を築き、食料の補給路を完全に遮断。

 秀吉が三木城攻めを本格化させたのが6月ですが、季節が冬へとかわる頃には餓死者や凍死者が増え続けていきました。しかし、いったんは信長側に仕えると誓った別所長治。ここで、降伏を宣言すれば、信長のこと、長島一向一揆の掃討などの残虐行為同様、城の兵士たちの多くは死ぬことになるでしょう。つまり、降伏することもできない。

 そうしている内に2年の月日が過ぎ、城の中では餓死者が続出。後に「三木の干殺し」といわれる悲惨な状態となっていきます。そんな中、別所長治は、ある決断をします。そう、自らの命と引き換えに兵は助けてくれと秀吉に願い出るのです。

 秀吉にしてみれば、これは願ってもないこと。城に逃げ込んだ庶民や農民までも殺害してしまっては、城を奪ったところで復興までの時間がかかってしまう。城主ひとりが責任をとって城を明け渡してくれれば、それに超したことはないのです。ちなみに、三木城攻めの後の鳥取城攻め高松城攻めにおいても、秀吉は、この城主の切腹により兵は助けるという型を定型化していくことになります。

 長治の申し入れを秀吉が受け入れたことにより、別所長治は3歳の我が子を刺し殺し、妻の自害を見届けた上で切腹となんとも痛ましい最期を遂げました。

 城の兵を助けるために、己のみならず、子や妻まで犠牲とした別所長治。彼の心中は察するに余りありますね。