とほくそ笑んだ家康だったでしょうが、秀吉の造り上げた大阪城は、そうそう簡単には攻略できません。また、豊臣側の真田幸村(さなだゆきむら)らの活躍もあり、家康はいったん講和を結ぶことにします。家康が提案した、その講和の条件は大阪城の外堀を埋めること。
「外堀くらいならいいか。」
と豊臣側が許してしまったが最後。家康側は二の丸、三の丸とどんどん、城に近い堀まで埋め立てていく。「話が違う!」と言い立ててももはや無駄で、難攻不落の大阪城は平地の上に建つ、丸裸の城となってしまいました。
そして、1615年。豊臣側が慌てて、城を元に戻そうと堀をほっているのを見て、何勝手に戻してんの?と再び攻撃開始。
大阪夏の陣です。
これにより、大阪城は炎上。淀殿、秀頼は炎の中で自害し、豊臣家は滅亡。後の長きに渡る徳川家の時代へと移っていくのです。
(大阪城と堀) |