それでも、五大老のナンバー2であり、長老の前田利家が上手く仲裁役を果たしていたようですが、彼が亡くなるといよいよ、家康派と三成派の対立は避けられなくなっていきます。
慶長5年、会津に戻っていた上杉景勝が、軍備を整え、城の防備を修築しているのとの情報を得た家康は、「上杉氏に謀反の疑いあり」と大阪から大軍を率いて、上杉氏討伐に兵を挙げました。
この家康の挙兵には、諸説あり、家康は、上杉氏を攻めれば必ず三成も動き出す。そこを狙った大博打に出た。或いは、すでに上杉と三成は連携しており、家康を誘い出す為の罠だったなど。
いずれにせよ、これが関ヶ原の戦いの引き金となります。家康の思惑通り?または、三成の作戦通り?石田三成は、諸大名に決起を促し、兵を挙げます。
当時、三成はすでに隠居していたので、毛利輝元を名前だけの大将として掲げ、家康の拠点となる伏見城を攻撃、その後、美濃に侵攻して大垣城に入城しました。その勢力、およそ8万5千。
対する家康軍は、下野の小山にて「三成、挙兵!」の知らせを受けます。その時の家康はビックリしたのか?しめしめ・・・とほくそ笑んだのか?
現在の栃木県の小山にて、家康は軍評定(会議)を開きました。「三成側につきたい者は、邪魔立てはせぬゆえ、出て行ってもかまわぬ」とかなり太っ腹です。とはいえ、これには家康の計算があったようです。というのも、石田三成は、当時、結構な嫌われ者でした。まじめで曲がったことが大嫌いな石田三成。その為、反感や恨みを買うこともあり、少し前に暗殺未遂事件も起きていたほどだったのです。そんな訳で軍評定の際も誰一人として袂を分かつ者もおらず、それどころか豊臣家のためには三成を倒すべし、と本来豊臣家の味方のはずの大名までが家康側についてしまいました。
これにより、関ヶ原の戦いの東軍、徳川家康軍と西軍、石田三成軍とが決定付けられ天下分け目の合戦へと進んでいくのです。
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