歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記関ヶ原の戦いの原因>関ヶ原の戦い・武将

関ヶ原の戦い・武将達の活躍 


    *黄色は秀吉恩顧の武将達

 西軍 東軍 
五大老 
総大将 毛利輝元  総大将 徳川家康 
副将 宇喜多秀家 前田利家
上杉景勝  
五奉行 
石田三成 浅野長政 
前田玄最以 
益田長盛   
長束正家   
その他の武将
毛利秀元(毛利輝元の従弟) 徳川秀忠(家康三男)
吉川広家(毛利輝元の叔父)  松平忠吉(家康四男) 
小川祐忠  井伊直政 
朽木元綱  本田忠勝 
赤座直保 南光坊天海 
安国寺恵瓊  奥平貞治 
大谷吉継 坂部岡江雪舟 
大谷吉勝  田中吉治 
木下頼継  細川忠興 
平塚為広  山内一豊 
戸田重政 池田輝政 
長宗我部盛親  蜂須賀至鎮 
島津義弘  黒田長政 
島津豊久  加藤嘉明 
小西行長 福島正則 
脇坂案治  京極高知  
小早川秀秋  藤堂高虎 
・・・など 寺沢広高 ・・・など

 慶長5年(1600年)9月15日。徳川家康の東軍と石田三成の西軍、合わせて20万が激突した関ヶ原の戦い。

 家康が上杉氏に謀反の疑いありと大阪から出陣したのを機に、三成も挙兵します。三成は、家康の拠点となる伏見城を陥れ、美濃に入り大垣城に入城しました。それを知った家康も三成との戦いを決意します。

 西軍の総大将は毛利輝元。しかし、名前だけの大将である彼は、大阪城にいて出陣してこない・・・。そこで実際の指揮は、石田三成がとることになります。大垣城にて、家康との戦いの作戦をたてる西軍。薩摩の島津義弘は「家康本陣に夜襲をかけよう」と提案しますが、この作戦が採用されなかったため、腹を立てた義弘は合戦参加を拒否。西軍は、これにて薩摩の猛将、島津義弘を失うことになりました。

 しかし、それでも先に関ヶ原にて東軍を待ち構える西軍の布陣は万全のものでした。後に陸軍大学校の教官、ドイツのメッケル参謀少佐は、関ヶ原の戦いにおける東軍西軍の配置を目にすると即座に「西軍の勝ち」を断言したといいます。

 西軍の布陣はおよそ8万数千。東軍の兵力よりもおよそ1万もの兵力が上回っており、その布陣は後に到着する東軍を包み込んで包囲攻撃できる態勢でした。

 関ヶ原の戦い・開幕

 東軍が関ヶ原に着いたのが午前5時ごろ。小雨が上がりはしたものの、辺りには深い霧が覆い、数メートル先も見えぬほど・・・。しかし、その中をまずは、東軍が動き始めます。東軍の先鋒隊は、福島正則隊。しかし、彼らより先に動く者たちがいました。東軍、家康四男、松平忠吉と彼の舅となる井伊直政です。彼らにしてみれば、これは徳川対石田の争い。秀吉恩顧の福島隊よりも徳川の自分達が先を越したいところ。井伊隊は、福島隊の脇を通り過ぎ、「物見の為に先にでる」と偽りながら前進。そして、宇喜多隊を見つけるやいなや発砲。先を越されてなるものか!と福島隊も後に続き、関ヶ原の戦いは幕を開けました。時に午前8時のことです。

 大将首を狙って石田隊にも東軍が殺到していきます。黒田長政が石田隊の左翼を突くとそこに細川忠興加藤嘉明らも後に続きます。しかし、石田隊は、これを迎え撃ち押し返す。

 戦場では、一進一退を繰り広げ、どちらが勝ってもおかしくない状態。しかし、この時点では、石田三成の有利でした。未だ参戦せずにいる毛利隊と小早川隊がいます。彼らの合わせて4万5千もの兵がいっきに東軍を攻撃すれば、西軍の勝利は確実。

 関ヶ原の戦い・裏切り

 南宮山にいる毛利隊3万と松尾山に布陣する小早川隊1万5000。午前11時ごろ。彼らへのGOサインである狼煙が上がります。

 ところが、毛利隊も小早川隊も動こうとはしない・・・。実は、小早川秀秋は、すでに家康と話し合いが出来ており、寝返ることが確約されていたのでした。そして、毛利方の吉川広家もまた家康との間に戦闘に加わらないという約束がなされていたのです。

 吉川広家が動かないので、山の頂上近くに布陣する毛利秀元も下に位置する吉川が邪魔で山を下ることすらできない。これにて、毛利隊3万が動きを封じられます。

 しかし、寝返りが約束されていたはずの小早川秀秋は、東軍にも西軍にも攻めてくるようすがない。秀秋は、ここへきて未だ、どちらにつくか思い悩んでいました。万が一、小早川秀秋がやはり西軍につくと決意し、東軍に攻め込んできようものなら、南宮山にいる毛利隊も彼に同調し、東軍に攻撃をしかけてくるかもしれない。家康は、

「小早川に向け、脅しの鉄砲を撃て!」

 と号令をかけます。この脅しに驚いた秀秋は、慌てて、そばに布陣している西軍の大谷吉継めがけて攻撃をしかけました。家康の鉄砲による脅しは効果大だったわけです。

 大谷は、かねてから小早川の裏切りを予想しており、温存していた6000の兵で防戦し、小早川隊を後退させます。しかし、小早川隊に呼応して裏切りの連鎖が始まります。西軍であった脇坂案治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら4000の兵が寝返るなら今だ!と大谷隊めがけて攻撃を始めます。そこに、小早川隊も立て直し反撃、さらには、東軍の藤堂隊も参戦し、大谷隊は壊滅。

 小早川秀秋の裏切りにより、戦局は大きく西軍に傾いていきます。

 関ヶ原の戦い・終焉

 このチャンスの時を家康は逃しません。温存していた家康30000の兵を前線にくり出し、総攻撃に入ります。宇喜多秀家の隊は、側面を突かれて崩れ始めていましたが、宇喜多は「裏切り者の小早川を刺し違えてでもやってやる!」と前に出ようとしますが、家臣の説得により退却。宇喜多隊の崩れにより、小西行長の隊も巻き込まれるようにして崩れだし敗走。孤立していく石田隊も壊滅し、三成は北国街道沿いに落ちのびていきます。

 もはや、勝敗のついた戦場で、西軍は島津隊だけが取り残されました。午後2時のことです。

 残された島津義弘の隊は、東軍に囲まれます。しかし、わずか1500の兵で島津隊は、敵中を突破し戦場を脱出していきました。

 こうして、6時間あまりの関ヶ原の戦いは終わりを告げ、東軍・徳川家康の圧勝となりました。

関ヶ原の戦い 武将たちのその後 
石田三成 引き回しの上、六条河原にて処刑 
小西行長  引き回しの上、六条河原にて処刑 
安国寺恵瓊  引き回しの上、六条河原にて処刑
宇喜多秀家 八丈島に配流 
長束正家  戦死 
大谷吉継  戦死 
島津義弘  本領安堵 
長曾我部盛親 所領没収 
毛利輝元  120万石から36万石に減封 
上杉景勝  120万石から30万石に減封 
佐竹義宣 54万石から18万石に減封 
小川祐忠  所領没収 
増田長盛  所領没収 
豊臣秀頼 220万石から60万石に減封 
小早川秀秋 36万石から57万石に加増 
細川忠興 18万石から40万石に加増 
山内一豊  7万石から20万石に加増 
福島正則  20万石から50万石に加増 
加藤清正  20万石から52万石に加増 
伊達政宗  57万石から62万石に加増 

関ケ原の戦いにて裏切った部将のその後