関ケ原の戦いで裏切った部将たちのその後
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1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、寝返ったものや傍観に努めたものが続出したことはご存知の方も多いことと思います。
当初、兵力で勝っていた石田三成の西軍でしたが、結果としては兵力が逆転。東軍の徳川家康に軍配が上がります。
逆転勝利をおさめられたのも寝返ってくれた大名のおかげ・・・。さぞや、その後の待遇は良かったのだろうと推測していまいますが、そうとは限らないようです。
まずは、関ケ原の合戦で寝返り組として有名な小早川秀秋。彼の裏切りがなければ歴史は変わっていたとさえ言われている重要な人物!当然のように小早川秀秋の処遇は加増!36万石から57万石に増えています。しかし、関ケ原の戦いのわずか2年後の1602年に21歳で死亡してしまいました。
ですが、西軍から東軍に寝返っても、それを認められなかった部将たちもいました。小川祐忠と赤座直保。彼らは裏切りを認められずに領土は没収。さらに小川は1601年に病死。赤座も1606年に落馬で死亡しています。
彼らが認められなかった理由は、関ケ原の戦いの中でいきなりの裏切りを見せたんですね。「僕たち裏切りますよ〜。」と事前に家康に伝えておけばよかったんですが、いきなりの裏切り!「えっ?何?裏切って味方になったって?聞いてねぇよ」ってことで裏切りを認めてもらえなかったんですね。裏切って、それなりの役割は果たしていたんですけどねぇ。まぁ、他にも理由が諸説唱えられていますが、裏切って領土が没収されたのは、この二人だけです。
ちなみに朽木元網という部将も事前に知らせず、関ケ原でいきなりの裏切りをみせ、2万石から9千600石まで所領を減らされています。
裏切り組が決して幸せなその後を暮らしていたわけではないということです。
ですが、裏切りながらも忠義を尽くした部将もいます。吉川広家です。彼は、従兄弟の毛利輝元が西軍の総大将ということもあり、つらい立場でしたが、関ケ原では傍観を決め込みました。彼が、動かぬものだから山頂付近くに布陣していた毛利秀元も山を下ることができず、結局、毛利隊3万の動きを封じることになります。
東軍の勝利に大きく貢献したとして家康にも認められ、周防と長門を与えられる予定でしたが、広家は毛利家存続を家康に頼み込み、結果、周防、長門は毛利宗家に安堵することとなり、毛利氏は改易の逃れ、112万石から29万石の減封にとどまりました。
広家は、そもそも東軍の勝利を確信していたようですね。ですから、西軍の総大将に担がれてしまった主君である毛利氏を守るために裏切りを見せたようです。
また、東軍勝利を確信しながらも最後まで西軍につき義理人情に生きた部将もいました。大谷吉継です。
「無謀であり、三成に勝機なし」と訴え続けていたといわれる吉継でしたが、それでも彼は西軍で出陣することになります。
なぜなのか?
大谷吉継は、当時伝染病として恐れられていたハンセン病にかかっていました。あるお茶会にて茶の飲みまわしをした際、他の武将たちは吉継が口をつけた茶を飲むのを拒み、口をつけたふりをするだけ・・・。そんな中、石田三成だけが吉継が口をつけた茶を何食わぬ顔で飲み干したといいます。
それ以降、吉継は三成に仕えることを決意したといわれています。
その後、関ケ原では、裏切った小早川秀秋らの急襲により自刃することになりますが、敗北、そして死までを覚悟し義理を通したんですね。
関ケ原の戦いでは、多くの裏切りがありましたが、その一つ一つにドラマがあるわけです。
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